| 2020/10/15(Thu) 14:54:48 編集(投稿者) 2020/10/15(Thu) 08:42:28 編集(投稿者)
永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』をAmazonに注文したので、読んでみようと思ってます。 永井さんは、 ヴ ではなく ウ と表記されるのですね。 注文する時に気づきました。 どちらも間違いではないのだと思います。
読みこなせる自信は・・・読まないうちに言うのもなんだけど、「ない」です。
しかし。 〈私〉、独我論 と、非二元的「気づき」の世界観との相違点をminori自身でほんの少しでも実感とするためには、自分で実際に読んでみるのが一番いいと思うのです。
先日。他のトピに、〈私〉と「気づき」は、自我意識と全体性意識(個人の意識ではないという意味)の違いだと思うと書き・・・ それは。思考や身体を自分とは思わなくなれば、自我意識→全体性意識に移行するのだと思う、という意味なのだけど。 自我意識と全体性意識というまったく違う二つのものがあり、前者がなくなり後者が発生してくるというのではなく、思考や身体を自分と思うか否かがはっきりとした分けるポイントだと思う、ということ。 つまり、同じ「意識」なのだけれど、思考・感情・身体などそれそのものを自分自身と観るか否かによって、自我意識と全体性意識に分けられるのではないだろうか、ということ。
(今のこの投稿内容 ↑ と、他のトピにてさせていただいた内容が重なるので、先日させていただいた他トピでの投稿は削除致します。)
西洋的自我というのは、「我思う」ことが「我の存在の根拠」となっている。 永井さんの〈私〉というのは、その世界観に属するものであろうとminoriは今のところ考えている。 そして、〈私〉の「意識」は、自我意識、個人的意識だろうなと。
ヴィトゲンシュタインはどうなんだろう? 西洋的自我に疑問を感じたのだけれど、それを表現できない苦悩がハエ壺の譬えなのだろうか? このあたり、私にはさっぱり分からない。。。
さらに言えば・・永井さんももしかしたら、西洋的自我に対しての疑問をうっすらと感じたりもされてはいないだろうか、と失礼ながら勝手に想像したりしている。 ヴィパッサナー瞑想をされるというのは、そのあたりに理由があるのかな、とか。。 ただ、哲学者として、「思考を自分自身とみなさない」というのは、受け入れがたいものではあると思うけれど・・。
詳しい方からしたら、「何をくだらないことを書いているんだろう。」と失笑されてしまうかもしれない文章を今、私は書いていると思う。 しかし、とりあえずというか・・・これを書いておきたい。
あら、途中から「です、ます」調じゃない文章になってた。(笑) まぁ、いいや。(^▽^;)
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