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■6997 / inTopicNo.49)  Re[23]: カント的構想力ちゃん
  
□投稿者/ pipit -(2020/09/24(Thu) 18:48:02)
    というわけで、構想力ちゃん、調べてみます。

    まず、初版の該当部分の、『純粋理性批判』の訳文を読んでみようかな、と、思っています。
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■6994 / inTopicNo.50)  カント的構想力ちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/24(Thu) 07:47:50)
    構想力ちゃんのこと、落ち葉かけて、見えなくして、無かったことにして、 どっか行こうと思ったけど、やっぱり、今のアホの段階でも、
    自分なりの把握してみたい、
    って、思った。

    触れれるかなぁ ? 無理かなぁ? 近づけるかなぁ? 構想力ちゃん !


    また、また、逃げるかもやけど、(どっちが?)
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■6985 / inTopicNo.51)  Re[21]: 純粋
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 22:34:53)
    ixtlanさんは、純水って、きれいな感じの打ち間違いされてたなー

    山下良道さんと魚川祐司さんの対談のポッドキャストを最近聞いてたら、コメント欄にixtlanさんがその当時に書き込みされてたのを見つけた (@_@)

    意外なところでお名前見られて、うれしすですよー
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■6984 / inTopicNo.52)  純粋
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 22:27:17)
    そういえば、悪魔ちゃんが、純粋ってなんやねん(pipit世界内意訳)
    って、言ってくれてたなー
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■6983 / inTopicNo.53)  ふと、気になりました。
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 22:23:53)
    ふと、気になって調べました。

    『Kritik der reinen Vernunft』
    日本語訳例・・・純粋理性批判
    英訳例・・・Critique of Pure Reason

    『Kritik der praktischen Vernunft』
    日本語訳例・・・実践理性批判
    英訳例・・・Critique of Practical Reason

    『Kritik der Urteilskraft』
    日本語訳例・・・判断力批判
    英訳例・・・Critique of Judgment


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■6979 / inTopicNo.54)  Re[18]: 試し投稿
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 21:37:08)
    お、投稿できますね (^_^)v

    私が読むのは、中山元先生訳の『純粋理性批判』の日本語訳ですが、
    読んでいる箇所の英訳を貼ろうかな、と、考えています。


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■6977 / inTopicNo.55)  試し投稿
□投稿者/ pipit -(2020/09/23(Wed) 21:31:55)
    Human reason, in one sphere of its cognition, is called upon to consider questions, which it cannot decline, as they are presented by its own nature, but which it cannot answer, as they transcend every faculty of the mind.

    著作権が切れてる、『純粋理性批判』初版の序文の英訳のコピペを投稿できるか試してみます。
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■6947 / inTopicNo.56)  たーぼーさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/21(Mon) 21:38:26)
    こんばんは

    > 夢を見ない熟睡状態を厳格に捉えるとは、心解脱か慧解脱の違いではないでしょうか?
    > 私は慧解脱は静寂ではあるけど、全く想念がなくなった状態ではなく微弱な想念が時々起こる状態だと思います。

    個人的には心解脱と慧解脱の違いがよくわからないのですが、たーぼーさんの解説のとおりもしれません。

    > 仏陀は間違いなく入るでしょうね。
    > 最近、法華経読んでから原始仏教の方便が分かりました。

    どういうことでしょうか。

    > 仏陀というのは凄い懐深いなぁと思います。
    > ただ仏陀というのを歴史的に実在した人と捉えるか、
    > knowing itselfさんが言われる物自体と捉えるか二通りあるように思います。
    > 法華経は仏陀を物自体(空)と捉えてますね。

    カントの物自体はぶっちゃけていえば神ですから、キリスト教を仏教に置き換えれば、法華経の最高存在が物自体となるのもありだと思います。わたしは、歴史的に実在した人間が空そのものでもあったという二重構造を身をもって生きたのが仏陀だと考えています。


    > https://www.engakuji.or.jp/blog/32227/
    > 昨日書いた牛十図をお書きになった円覚寺管長の横田さんと藤田さんの対談です。
    > 冒頭、ここには大物は呼ばないつもりだったと横田さんが言ってて意味分からなかったんだけど、やっと分かりました。
    > 主体を宇宙全体まで拡大するんでしょうか。

    宇宙全体は巨大にみえても物自体に触発されて人間が認識する現象であって、宇宙の本体は物自体ですね。人間は主体として物自体の住人なので、拡大するまでもなく宇宙の主人だということでしょう。山下良道さん的な仏教3・0はそういうことだと思います。


    > 途方もない話ですね。
    > そうすると大乗非仏説になるわけか。
    > どうしても座禅してもそこまでいかないのは、日常でやれんようでは厳しいのだと思う。
    > 無ー無いいながら仕事するわけにはいかないでしょうから。
引用返信/返信 削除キー/
■6939 / inTopicNo.57)  カニッツァの三角形
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 19:28:45)
    2020/09/21(Mon) 19:35:40 編集(投稿者)

    No6938に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■6908、カニッツァの三角形
    > んん〜、そう言われれば、二つの三角形”見える”よね。
    > でも黒塗りの角がない丸はなんか違和感ある。

    > パニチェさんのいう〈私〉、無色透明の三角形をいってるんだとおもうけど、
    > 白色の紙の上に白色で三角形を描いた人が、ここに三角形がある、って言っているようなもんじゃない?
    > わたし、白色の紙の上にカニッツァが白色で描いた紙を見させられてもそこに三角形見えないと思う。もっとも、彼は三角形を描いてない。

    > 描かれていないて三角形が”見える”っていうのは、知覚の問題であって、先入見の問題以外ないんじゃないの?」

    あれな比喩やねん。

    〈私〉は直接言葉にでけへんけど、〈私〉の周辺で言葉にできそうなところを言葉にしていくと言葉にできない〈私〉が浮かび上がるやろ、それがカニッツァの三角形みたいな構図ってこと。

    ウィトゲンシュタインを読んだ時にそう思ってん。
    「語りえないことについては沈黙しなければならない」は有名やけど、ウィトゲンシュタインは語り得ることろを語って、間接的に語り得ないところを指し示しているってね。

    帰謬法なんかもある意味では同じ手法かな。
    中論とかね。
引用返信/返信 削除キー/
■6938 / inTopicNo.58)  Re[16]: 〈私〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/21(Mon) 19:16:38)
    ■6908、カニッツァの三角形
    んん〜、そう言われれば、二つの三角形”見える”よね。
    でも黒塗りの角がない丸はなんか違和感ある。

    パニチェさんのいう〈私〉、無色透明の三角形をいってるんだとおもうけど、
    白色の紙の上に白色で三角形を描いた人が、ここに三角形がある、って言っているようなもんじゃない?
    わたし、白色の紙の上にカニッツァが白色で描いた紙を見させられてもそこに三角形見えないと思う。もっとも、彼は三角形を描いてない。

    描かれていない三角形が”見える”っていうのは、知覚の問題であって、先入見の問題以外ないんじゃないの?」
引用返信/返信 削除キー/
■6934 / inTopicNo.59)  Re[15]: knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/21(Mon) 17:28:08)
    No6914に返信(knowing itselfさんの記事)
    knowing itselfさん、こんにちわ。


    > あくまでわたしが理解している範囲で大雑把なことしかいえませんが、涅槃そのものは夢をみない熟睡だと思います。ただこの夢をみない熟睡状態を厳格に捉えるか、果たして誰が入ったかの理解でいろんな立場がある。どの仏教でも釈迦は入りますね。後は?本当の意味では阿羅漢でもまだという立場もありえますが、それだけとメチャメチャ厳しい。これが仏教2・0だと理解しています。


    夢を見ない熟睡状態を厳格に捉えるとは、心解脱か慧解脱の違いではないでしょうか?
    私は慧解脱は静寂ではあるけど、全く想念がなくなった状態ではなく微弱な想念が時々起こる状態だと思います。
    仏陀は間違いなく入るでしょうね。
    最近、法華経読んでから原始仏教の方便が分かりました。
    仏陀というのは凄い懐深いなぁと思います。
    ただ仏陀というのを歴史的に実在した人と捉えるか、
    knowing itselfさんが言われる物自体と捉えるか二通りあるように思います。
    法華経は仏陀を物自体(空)と捉えてますね。


    > 大乗仏教は、その同じ涅槃に入る主体を極限まで拡大する立場だと思います。仏教1・0とは、涅槃の内容をレベルダウンさせて、風化させて、誰でも悟っていることにする、無内容な形式仏教という意味で使われる場合と、昭和以前の伝統的な日本大乗仏教という意味で使われる場合と、分かれるようでもあります。曖昧な用語ですね。藤田さんが1・0だと思うと評したのは後者の意味で、彼は真の大乗仏教精神を体現された稀有の人だと思います。

    https://www.engakuji.or.jp/blog/32227/
    昨日書いた牛十図をお書きになった円覚寺管長の横田さんと藤田さんの対談です。
    冒頭、ここには大物は呼ばないつもりだったと横田さんが言ってて意味分からなかったんだけど、やっと分かりました。
    主体を宇宙全体まで拡大するんでしょうか。
    途方もない話ですね。
    そうすると大乗非仏説になるわけか。
    どうしても座禅してもそこまでいかないのは、日常でやれんようでは厳しいのだと思う。
    無ー無いいながら仕事するわけにはいかないでしょうから。
引用返信/返信 削除キー/
■6916 / inTopicNo.60)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 07:53:10)

    > レスありがとうございます。〈私〉に興味を持ってもらえて光栄です。^^

    パニチェさん、おはようございます。 はい、興味を再度持たせていただいてるところです。

    >>私秘性を持つ〈私〉の話した言葉や、した仕草(言語ではないコミュニケーション)が他者に伝わるということは、「他者でも認識可能な世界内の出来事になる」ということ。
    >>しかし、伝わらなければ、知られることがなければ、無色透明で私秘性を持つ〈私〉のままなのだ、というような意味ですか?
    >
    > それはその通りです。
    > あと他者を抜きにしても思考や感情が生じた時点で〈私〉から「私」へ移行すると思います。

    なるほど。

    > 思考や論理というのは言語であり、感情は正確な言語化ができないとしても他者もありえる状態です。

    そうですね。

    > 〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。
    > そこに何か映ればそれは「私」となります。

    いや〜、もうびっくり、驚きです。 上記がパニチェさんがおっしゃる〈私〉であるなら、私がよく書いてる非二元の「気づき」ととても似通っています・・・。
    私が自トピに、おとといだったか一人でつらつらと何投稿かしたのですが、その内容を読んでいただけたなら、理解していただけるかもしれません。

    > 何故なら伝えなければ私秘性を保ったままであっても(厳密に言えば私秘性を保つという表現は不自然ではありますが)他者もその状態がありえるからです。
    >
    > 一方、〈私〉は他者がその状態であることはありえない、パニチェにとってはその状態というか存在様相しかありえないものであるからです。
    > 〈私〉を意識した時、冷蔵庫に灯る庫内灯のように、意識した時点(灯った時点)で少し元の〈私〉は変質してしまうような存在かもしれませんが、ここらは未だ探究中です。

    このあたりは、パニチェさんの〈私〉と、私が言う「気づき」の違うところになるようです。

    パニチェさんの〈私〉というのは、他者との差異が明確にあるものですよね?
    他者の〈私〉は、〈〈私〉〉と表現して区別されています。

    非二元での「気づき」というのは、スクリーン、鏡を比喩としていて、その役目的意味する内容は、パニチェさんの〈私〉とその部分においては同じように感じられます。
    しかし、違うのは。 パニチェさんの〈私〉は、個人個人違うものであること。
    非二元では、そもそも個人というのは存在しない(世界は分離していない)と考えるので、スクリーンは、「ただ一つ」のみ存在するということになります。

    ここからはまったくの私見なのですが・・・。
    第五図の、身体は坐禅していて、頭部分は、映像が映っているテレビみたいな例の絵ですね。
    あれは。テレビそのものは、一つしかないんだけど(スクリーンは一つしかない)、そこに映される第四図の映像は一人一人違っていて、ゆえにその映像に対しての解釈も一人一人違っているので争いや愛憎が生まれるのだけれど、実は本体はテレビであって、ただ静かに静謐な意識なのだ、そしてそういうことに気づくと、世界を観る観方も変化し、慈悲もそういうところから生まれてくる、→第六図へ。
    という絵であるように思えるのです。

    山下さんは、もっと深い体験を求めてミャンマーでしたっけ、に修行に行き、普通の生活をしていては体験できないような体験をされ、それをもとに山下さんの3.0
    を考えられたのだと思います。


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