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■7035 / inTopicNo.37)  Re[28]: 生は認識の実験である
  
□投稿者/ pipit -(2020/09/25(Fri) 19:48:23)
    パニチェさん、こんばんは〜

    > ニーチェかく語りき「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」
    >
    > パニチェかく語りき「生は認識の実験である。そしてこの実験は失敗はない。」なんちゃって。^^

    パニチェさんの、前半にめっちゃ同意します!!

    後半は、目的を設置すると成功失敗がでてきてしまうのかもですね〜

    パニチェさんは、前向きですね〜 (^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■7034 / inTopicNo.38)  Re[28]: 非真理を生の条件として容認せよ
□投稿者/ pipit -(2020/09/25(Fri) 19:41:31)

    渇愛は、三種類。

    bhava tanha

    vibhava tanha

    kAma tanha

    No7029に返信(pipitさんの記事)
    > ■No7014に返信(pipitさんの記事)
    >>こんばんは〜
    >>
    >>生存欲が認識を創造する、なんちゃって (o^^o)
    >
    > ちょっと、思いました。
    >
    > 生存欲、と、実存欲、って、一緒かなあ?
引用返信/返信 削除キー/
■7032 / inTopicNo.39)  善意志
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/25(Fri) 19:39:58)
    こんばんは。

    見えないものと見えるものだったら、カントはやはり見えないものに価値を置く派でしょうか。

    例えば、意志として不純なものをもっていた人間が巨大な慈善事業に成功して、挙句はノーベル平和賞をもらったとします。一方、100パーセントの善意志をもって行動を始めたのに一日で倒れて失敗し、死後誰からも忘れてしまった人間がいるとする。物自体にいたことが確証されたのは後者だと思う。カントからすると。
引用返信/返信 削除キー/
■7031 / inTopicNo.40)  生は認識の実験である
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/25(Fri) 19:39:23)
    こんばんは〜

    No7014に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは〜

    > 生存欲が認識を創造する、なんちゃって (o^^o)


    ニーチェかく語りき「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」

    パニチェかく語りき「生は認識の実験である。そしてこの実験は失敗はない。」なんちゃって。^^
引用返信/返信 削除キー/
■7029 / inTopicNo.41)  Re[27]: 非真理を生の条件として容認せよ
□投稿者/ pipit -(2020/09/25(Fri) 19:26:00)
    No7014に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは〜
    >
    > 生存欲が認識を創造する、なんちゃって (o^^o)

    ちょっと、思いました。

    生存欲、と、実存欲、って、一緒かなあ?
引用返信/返信 削除キー/
■7028 / inTopicNo.42)  たーぼーさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/25(Fri) 19:10:51)
    こんばんは

    No7020に返信(たーぼーさんの記事)

    > 私なりの理解ですと、過去生からの条件づけまで引っこぬくのが心解脱だと思います。
    > 心解脱とは芯解脱なんだな。
    > 何故、慧解脱が静寂で静謐であっても微弱な想念が時々あるかと言えば、慧解脱では今生の諸々の条件付けは滅するけど、過去生からの条件づけは残るからだと考えます。
    > 微弱な想念があるということは、想念が環境を作っていますから環境は完全には無くならない。
    > 法華経に三界(欲界、色界、無色界)は火宅なりという言葉がありますが、非想非非想処であっても火宅なんだと思います。
    > 所謂、底が抜けたと言われるのが心解脱に当たるのではないかと考えます。

    説得力のあるご説明だと思います。ご説明の内容を前提として、第四図と第五図に関連づけをすると、心解脱は第五図ということでしょうか。山下さんの第五図の理解は、すべての想念と身体感覚が抜け落ちて、第五図の中なる第四図が真っ白になった状態だそうです。それを経験した後なので、第四図に映像が映ったとしても、主客の対立のない意識で淡々と第四図を観ることができる。


引用返信/返信 削除キー/
■7021 / inTopicNo.43)  Re[18]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/25(Fri) 06:44:50)
    今、仏教3.0を哲学するバージョン2を読み始めたのだけど、最初に永井氏が自分とは仏教では泡だと言われるが、それも納得するがじゃ何故自分がこの泡かと言うことがわからないと言ってる。
    何故この泡が毎回自分で他の泡ではないかというのは、やはり過去生からの芯があるからだと私は思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■7020 / inTopicNo.44)  Re[17]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/25(Fri) 06:25:44)
    No6947に返信(knowing itselfさんの記事
    おはようございます


    >>夢を見ない熟睡状態を厳格に捉えるとは、心解脱か慧解脱の違いではないでしょうか?
    >>私は慧解脱は静寂ではあるけど、全く想念がなくなった状態ではなく微弱な想念が時々起こる状態だと思います。
    >
    > 個人的には心解脱と慧解脱の違いがよくわからないのですが、たーぼーさんの解説のとおりもしれません。


    私なりの理解ですと、過去生からの条件づけまで引っこぬくのが心解脱だと思います。
    心解脱とは芯解脱なんだな。
    何故、慧解脱が静寂で静謐であっても微弱な想念が時々あるかと言えば、慧解脱では今生の諸々の条件付けは滅するけど、過去生からの条件づけは残るからだと考えます。
    微弱な想念があるということは、想念が環境を作っていますから環境は完全には無くならない。
    法華経に三界(欲界、色界、無色界)は火宅なりという言葉がありますが、非想非非想処であっても火宅なんだと思います。
    所謂、底が抜けたと言われるのが心解脱に当たるのではないかと考えます。




引用返信/返信 削除キー/
■7014 / inTopicNo.45)  Re[26]: 非真理を生の条件として容認せよ
□投稿者/ pipit -(2020/09/24(Thu) 22:44:01)
    こんばんは〜

    生存欲が認識を創造する、なんちゃって (o^^o)
引用返信/返信 削除キー/
■7013 / inTopicNo.46)  Re[25]: カント的構想力ちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/24(Thu) 22:38:54)
    悪魔ちゃん、こんばんは (^ ^)

    No7002に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 想像力ちゃんは、見えないもの?それとも見えるもの?
    >
    > もし、見えないものだったとしたら、パニチェさんのように見えるもので見えるようにする(浮き立たせる)、っていう手があるんじゃないかしら?
    >
    > でも、これってよっぽど気をつけないと”前提ありき”になっちゃう気がする。
    > こういうのすっごくたいへん。<

    そうだねぇ、言われてみれば、構想力自体は見えなくて、構想力の結果と思われるものしか知れないね。


    > >落ち葉かけて、見えなくして、無かったことにして<
    > わたしそううのでいいとも思う。<

    無理に、形作ろうとしなくてもいいのかなー。
    結局、それは虚偽になるかな?

    ちょっと、話題が微妙にずれるかもだけど、構想力を知りたいと思った理由の一つは、

    最近、まわり(と、ぼんやりもののpipitは昔から)に、チラホラ認知症の影を見ることがあってね、杞憂だといいんだけど、
    うん?大丈夫かな?と、少し心配になる時があるんだ。

    悪魔ちゃんが、前に、過去現在未来がひとまとめになってるみたいな考え方書いてなかった?
    あれ、記憶が大分、関係してるように今の所、私は思ってるんよ。

    それで、記憶って、カント的に言えば、構想力の機能のうちにあると推測してるんよ。

    カントの言説を丸ごと鵜呑みにする気はないつもり。
    ただ、ほんとかな?って、自分のこと見ない?

    メルロさんの言説読むとき、悪魔ちゃんどうなってる?
    ほんとかな?って、自分の体験見ない?

    構想力の自分につかめる仕組みだけでも、理解できたら、
    認知に自信なくしてる人の役に立てないかな、立てたらいいな、って少しだけ夢見てるの。


    カント哲学的に言えば、不純(←経験に由来する)な動機、になるのかな?


    『何もかも忘れてしまった』なんて言葉聞くと、切なくなるね。
    何もかも忘れてるわけじゃない。。。






    > ニーチェの『善悪の彼岸』のなかにこんなのが書いてある。
    > 【認識の一種の直覚に訴えて、あの形而上学的な問いに直ちに答え、「われは思う、そして少なくとも真であり、現実であり、確実であることを知る」と言う者のするように、認識の一種の直覚に訴えてあの形而上学的な問いに直ちに答えようとする者、――そういう者は、今日の哲学者たちのうちでは早くも一つの微笑みと二つの疑問符とをもって迎えられるであろう。「貴君!」と哲学者は恐らく彼に仄めかすであろう、「貴君が誤っていないとも限るまい。しかし何故にまたあくまで真理がなければならないのか」と。】
    > ニーチェの言う「直覚」っていうの意味わかんないけど、「直観」とは違うものなのかな?「覚」とうことから「感覚」「知覚」の領域のことなのかな?<

    直観と同じ感じに思えるけどね?
    直接知ってる感覚意識のこと?


    > いずれにしても、わたし、哲学者や科学者に言っちゃうね。
    >
    > 「貴君!」と素朴人は言う、「貴君らが誤っていないないとはいいきれないのではないか。しかし何故にまたあくまで必然・普遍がなければならないのか」と。<

    悪魔ちゃんと私は、同じ世界に生きてるのか、同じ世界にはいないのか、どうなってるんだろうねー

    いつもいろんな視点をありがとね!
引用返信/返信 削除キー/
■7007 / inTopicNo.47)  非真理を生の条件として容認せよ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/24(Thu) 21:17:37)
    No7002に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > ニーチェの『善悪の彼岸』のなかにこんなのが書いてある。
    > 【認識の一種の直覚に訴えて、あの形而上学的な問いに直ちに答え、「われは思う、そして少なくとも真であり、現実であり、確実であることを知る」と言う者のするように、認識の一種の直覚に訴えてあの形而上学的な問いに直ちに答えようとする者、――そういう者は、今日の哲学者たちのうちでは早くも一つの微笑みと二つの疑問符とをもって迎えられるであろう。「貴君!」と哲学者は恐らく彼に仄めかすであろう、「貴君が誤っていないとも限るまい。しかし何故にまたあくまで真理がなければならないのか」と。】
    > ニーチェの言う「直覚」っていうの意味わかんないけど、「直観」とは違うものなのかな?「覚」とうことから「感覚」「知覚」の領域のことなのかな?

    > いずれにしても、わたし、哲学者や科学者に言っちゃうね。

    > 「貴君!」と素朴人は言う、「貴君らが誤っていないないとはいいきれないのではないか。しかし何故にまたあくまで必然・普遍がなければならないのか」と。


    『──もっとも誤った判断(先天的綜合判断もその一つだが)はわれわれにとってもっとも不可欠なものであり、人間は論理的な仮象を承認することなしには、無制約者や自己自身に等しいものという純粋な虚構の世界に照らして現実を測ることなしには、また数によって世界をたえず偽造することなしには、生きることができないであろう、──つまり、誤った判断を断念することは生を断念することであり、生を否定することになるであろう、と。非真理を生の条件として容認すること…これはもちろん、危険な仕方で通常の価値感情に反抗することである。だから、このことをあえてする哲学は、ただそれだけですでに善悪の彼岸に立っているわけだ。(善悪の彼岸 第一章「哲学者の先入観について)』


    認識に伴う誤謬は生と創造の源泉なり、なんちゃって。^^
引用返信/返信 削除キー/
■7002 / inTopicNo.48)  Re[24]: カント的構想力ちゃん
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/24(Thu) 20:47:46)
    想像力ちゃんは、見えないもの?それとも見えるもの?

    もし、見えないものだったとしたら、パニチェさんのように見えるもので見えるようにする(浮き立たせる)、っていう手があるんじゃないかしら?

    でも、これってよっぽど気をつけないと”前提ありき”になっちゃう気がする。
    こういうのすっごくたいへん。

    >落ち葉かけて、見えなくして、無かったことにして<
    わたしそううのでいいとも思う。

    ニーチェの『善悪の彼岸』のなかにこんなのが書いてある。
    【認識の一種の直覚に訴えて、あの形而上学的な問いに直ちに答え、「われは思う、そして少なくとも真であり、現実であり、確実であることを知る」と言う者のするように、認識の一種の直覚に訴えてあの形而上学的な問いに直ちに答えようとする者、――そういう者は、今日の哲学者たちのうちでは早くも一つの微笑みと二つの疑問符とをもって迎えられるであろう。「貴君!」と哲学者は恐らく彼に仄めかすであろう、「貴君が誤っていないとも限るまい。しかし何故にまたあくまで真理がなければならないのか」と。】
    ニーチェの言う「直覚」っていうの意味わかんないけど、「直観」とは違うものなのかな?「覚」とうことから「感覚」「知覚」の領域のことなのかな?

    いずれにしても、わたし、哲学者や科学者に言っちゃうね。

    「貴君!」と素朴人は言う、「貴君らが誤っていないないとはいいきれないのではないか。しかし何故にまたあくまで必然・普遍がなければならないのか」と。










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