| 坐禅 2008/ 8/18 15:23 No.198 投稿者:gouichi10201020さん
パニさん、こんにちは。 お盆休みはどちらかにお出掛けでしたか?
私の地方は関東でも旧盆の風習ですので、13日に墓前で迎火をして16日の夜に送火です。その間は毎年、実家で母と過ごすことにしていますが、今年は初盆が多かったので、盆中、お世話になった故人のお宅を廻って手を合わせて参りました。
しかし、友人の両親や先輩方が旅立たれる年齢になられて、さびしい限りです。。。
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>> まず中観思想において、龍樹は、世界がどの様な構造をとっていようとも、それが「空なるもの」であることを理解できればよし、という立場であった、と考えます。日本では大人気の龍樹ですので、あまりに書きすぎて反論責めでは身動きがとれなくなりますが・・・
> 中論は禅定や直観でもって知りえたことを書き連ねているように思われます。 > そしてその知り得たこと(菩提)は言語によって外延は示すことができても内包は削げ落ちてしまう。 > 一見、言語の限界や言語によって生じる誤謬を指摘し続けているようにも読解できますが、これは〈私〉と同じく菩提はカニッツァの三角形みたいなものであり、否定論法や帰謬法でもってのみ外延を指し示すことしかできないためであると思われます。
はい、「真実は戯論(言語表現)を超えたものである」ということであれば、そうなります。 しかし、「真実は戯論(言語表現)を超えたものである」ということが「真」であれば、この言葉さえも戯論に含まれることとなり「偽」となります。
このように空思想は、「その思想」と「その思想を表現する言葉」との間に逆説的矛盾を引き起こす可能性を含んでいるわけで、その問題にどう対処するか、と考え抜いたのが中観思想である、と言えるかも知れません。 そこで、龍樹が目指したのが、「“日常的な”言語」と「それに支配された人間」の“認識”が如何に根拠の乏しいものであるかを指摘し、執着のない空「一切皆空」を知らしめよう(浮き上がらせよう)とした、と考えれば、 これはまさに、パニさんが前述された『カニッツァの三角形』といえるかも知れません。
しかし、どんなに「言語の内的矛盾」を暴いたとしても、結局は、空思想を語る上で「言語の完全否定(または言語を一切用いない)」、をすることは出来ないわけです。それに対する答えが「二諦説(二真理説)」ということになります。
『勝義は言語表現に依拠しなければ語り示されない。しかし勝義に到達しなければ涅槃は達せられない』(『中論頌』24.10)
すなわち、“日常的な”人間の生活空間で通用する真理が「世俗諦」であり、言語表現はその根幹をなすものである、と同時に、言語表現がなければ「勝義諦」は指示されない。よって、そこに到達することも出来ないから、涅槃に入れない、ということです。
換言すれば、No.190の > 虚妄分別の世界(肉体世界・現象界)に生きる“人間”だからこそ、それを「比類なき先言の〈私〉」として、知ることができると考えます。
ということで、これが私の考える「言葉の可能性」ということになります。
お彼岸過ぎまで、また休み休みになりますがよろしくお願い致します。最後に、まだ暑い日が続きますのでお身体大切にして下さい。
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