| こんばんは!
> 主観中のアプリオリな形式によって対象を構成する認識のコペルニクス転回とはいっても、認識の質料(素材)は感性的に与えられています。感性を通して与えられる内容に一切条件づけられてはいけない、とはけっしてなりません。<
ここが、案外見過ごされてるかんじがしますよね。 質料は与えられるしかなく、自分で創成できるわけではない。
> 他方でカント的な道徳法則が自由に直通するドアであるのは、その道徳法則が感性的な質料に影響されることを一切否定する、絶対的な命令だからですね。感性な質料によって変化を被るような、大乗仏教的な縁起と関係性で説明されるようなフワフワした道徳法則であるなら、カント的な自由とはまったくつながりません。<
まだ、読めてないのですが、第3アンチノミーのカントの記述を直接読むといいかな、と、悪魔ちゃんのコメントを読んで、自分自身に思いました。 また、読んでみますね。
いつもたくさんのヒントをありがとうございます!(o^^o)
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