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■6637 / inTopicNo.61)  Re[16]: たーぼーさんへ
  
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/14(Mon) 20:41:50)
    Pipitさんこんばんわ^^
    暖かいお言葉ありがとうございます。
    すいません、書き直します。

    カントの物自体のwikiから

    カント哲学の基本概念。「本体」とも訳される。「物」「現象」に対する語。カントによれば,現象は認識主観によって構成されるものであり,物自体ではない。物自体はむしろ現象の根源にあるもので不可知物であるが,思惟可能な仮定であり,カントはこれを現象の背後に仮定せざるをえない思惟の要請であるとした。また彼は実践哲学においても,自由の可能性を保証するものとして物自体の世界を実践理性の要請であるとした


    私はカントって読んだことないんだけど、カントの物自体って時さんへ書いた↓じゃないのかなと思ってます。

    私の理解だと十二縁起の識は三番目で名色=五蘊と、六処=六根+六境の前にあることから、西田幾多郎の純粋認識のようなものを想定していました。
    通常の凡夫の認識ではなく、認識する前の頭で理解する前の認識のようなものです。

    六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)+六境(色・音・香・味・触・法)=六処(眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法)です。

    時さんが書いた↓の文章は重要なことで、この世の実相なんです。
    識が母胎に入ります。そして識という縁により名色があります。このことは、ご存じの十二支縁起の一部ですね。十二支縁起(無明・諸行・識・名色・六処・触・受・渇愛・取・有・生・老死)の一部(3番目と4番目)です。これは、長部15経「大因縁経」に記載があります。

    簡単に言えば認識している自分(小さい方の自分)がないから認識出来ないんです。
    識が母胎に入るとは空(大きい方の自分)に入るということです。
    悟りがあるうちはダメだと言われるのは、認識している自分(小さい方の自分)があるから。
引用返信/返信 削除キー/
■6633 / inTopicNo.62)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/14(Mon) 19:56:11)
    No6602に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>私はカントを読み込んでないので(数冊の解説書のみで、あとはニーチェのカント批判を通じてしか知りません)よく分からないのですが、最終的にカントは人間が理性的な理由というか根拠は何だと主張しているのでしょうか。

    > 私もよく分かりませんが、おそらくそうでは思っていることを述べると、カントは人間理性そのものが根拠だという立場です。

    やっぱそうですか。
    解説書やニーチェを通して知るカントは人間が理性的な理由は人間が理性的な動物だから、みたいな説明があって、それって何も説明してないやん、と思ってしまったのでした。

    それが事実ならニーチェのカント批判も分かるような気がしてknowing itselfさんに聞いてみました。

    返信ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■6631 / inTopicNo.63)  Re[16]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/14(Mon) 19:39:35)
    Pipitさんこんばんわ^^
    暖かいお言葉ありがとうございます。

    私はカントって読んだことないんだけど、カントの物自体って時さんへ書いた⏬じゃないのかなと思ってます。

    私の理解だと十二縁起の識は三番目で名色=五蘊と六入=六根の前にあることから、西田幾多郎の純粋認識のようなものを想定していました。
    通常の凡夫の認識ではなく、認識する前の頭で理解する前の認識のようなものです。

    西田幾多郎の純粋認識と同じなのじゃないでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■6627 / inTopicNo.64)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/14(Mon) 16:18:20)
    たーぼーさん、こんにちは
    いつでも、どんな話題でも、気軽にこのトピに書き込んでくださいね!

    パニチェさんにお借りしてるこのトピは、
    pipitの気持ちとしては、
    カント話題に限らず、老若男女問わず、生命形態問わず、
    いつでもどなたでも書き込みウェルカムです!

    それはちょっと、、、というテーマでの書き込みには、
    ちゃんと、苦手です、、、と、言おうと思っているので安心してくださいね。

    あ、そういえば、たーぼーさん、カントのこともちょっと考えたことがあったと
    おっしゃってたような。。。

    お互い苦しみが軽減していきますように(^_^)v



引用返信/返信 削除キー/
■6623 / inTopicNo.65)  Re[14]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/14(Mon) 08:40:32)
    No6617に返信(pipitさんの記事)
    > たーぼーさん、おはようございます !!
    > おぼえてますよ〜(o^^o)
    > 書き込みしていただいてとても嬉しいです、お久しぶりです!!
    >
    > たーぼーさんは、textreamに書き込みされていたパニチェさんはご存知かな?
    > このニーチェクラブは、パニチェさんのホームページで、
    > 掲示板の管理人もパニチェさんがされています。
    > (感謝です!)
    >
    > 新トピ(スレッド)をたてたいときは、今なら『ニークラについて(トピ作成依頼など)2』というスレッドで、管理人のパニチェさんに、こういうトピ立てをお願いします、と、お願いすれば、パニチェさんの時間のあるときに(お仕事されててお忙しそうです)、新トピをたててくださると思います。
    >
    > あとで、『ニークラについて(トピ作成依頼など)2』にpipitが投稿して、スレッド自体を上げさせてもらいますね
    > もしトピ立てを希望されるなら、パニチェさん宛に、書き込みされるといいと思います(^O^)/
    >
    > たーぼーさんの投稿、読み応えありそうだけど、今から仕事行く準備で離れますね。
    > おつかれさまです!
    >
    >

    Pipit さん、おはようございます。
    もう一通り聞きたいことを聞いたので大丈夫です。
    相変わらずpipitさんは明るくていいですね^^
    横レスしてすいませんでした。
    次に何か聞きたいときは自分のスレッド作ります
    お仕事頑張って下さいね🐱
引用返信/返信 削除キー/
■6621 / inTopicNo.66)  時さんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/14(Mon) 07:57:58)
    色々お聞かせ頂きありがとうございましたm0m

    参考にさせていただきます^^
引用返信/返信 削除キー/
■6619 / inTopicNo.67)  たーぼーさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/09/14(Mon) 07:29:14)
    たーぼーさんへ。返信をありがとうございます。

    > 慧解脱すれば心解脱してなくても、もう仏教を学ばなくていいのでしょうか?
    > 心解脱っていうのは、つまり自我心の消滅ですよね?
    > この心解脱と涅槃寂静の区別が分かりません。

    この場合、仏陀の教えは2つに分類されます。有学と無学です。有学は八支聖道や四念処や善法とは不善法とは等々を学んでいる最中の時期の事で、無学とは、解脱を果たした、言わば、学業の終了した人のことを言います。

    例えば、小学生の九九を学んでいる間は有学で、それをマスターしきれば無学です。これはもう有学ではないと言う事なのですね。その理由が、私はこの比丘へ「もはや不放逸になすべきことなし」と言います。それはなぜか。彼には既にに不放逸になされており、彼が放逸となる事はあり得ないからです。とその理由が仏典内で語られています。

    不放逸とは、怠けることなく、今の瞬間に気づいている状態を維持している事。だという風に私は理解しています。つまりは、無学に至れば、もう誰に聞くこともなく、自ら怠けることなくその状態を維持できていると言う事ですね。九九をマスターすれば、それに関してもう誰にも聞かなくても忘れないでしょ?

    九次第定における心解脱は、想受滅の体現です。九次第定(初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の最後の事です。

    涅槃は(三毒の滅=貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅)の状態です。

    > この心解脱は出家しないで日常生活を送りながら可能でしょうか?

    九次第定(初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)の場合の心解脱は、私には不可能でした。しかし、できる方にはできるのかもしれませんが。

    > 出来ない石を置いてるだけと言われるかもしれませんが、無色界に入って仕事などに支障がないか心配です。

    これは、全く心配ないと思いますよ。

    > 一番大きいのは他者の目を気にしないでいられるかということだと思います。
    > どうしても他者の目を気にしてしまいそうなんですが。。。

    瞑想は、一人の時に落ち着いて行いますので、そこに他人の目はありません。と言いますか、他人の目のないところで行いますね。

    > 時さんは一人でやったそうですが、他者の目は気にしませんでしたか?

    一人で行いましたので、気になりません。(いても家族ですので)

    > 心解脱は智慧でジャンプすることは出来ないのでしょうか?
    > 智慧=梵天の住所は初禅の第3天だと理解しているんですが、慧解脱のようにジャンプするわけにはいかないのでしょうか。
    > 四無量心の捨が平静という解釈なのは、この心解脱をさしているのかと思うんですが。
    > ただこれだと自然ではないから九次第定の方が好ましいとは思ってます。

    四無量心と九次第定は全く別ものですよ。それと、九次第定のジャンプは不可能だと思います。

    > 色々込み入った事をお聞きしてすいません。
    > なにしろ大事了畢の方向性が決まらないというか、間違っていたら大変だと思い大乗など色々な文献を調べるうちに迷いの袋小路に入ってます。

    どの経典群でもよいと思いますので、まずは、1つのまとまりある経典群を参考にされればよいのではないでしょうか。読んで理解してやってみる。また、再度読んで再度理解したかを確認してやってみる。の繰り返しだと思います。頑張ってくださいね。
引用返信/返信 削除キー/
■6617 / inTopicNo.68)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/14(Mon) 07:06:59)
    たーぼーさん、おはようございます !!
    おぼえてますよ〜(o^^o)
    書き込みしていただいてとても嬉しいです、お久しぶりです!!

    たーぼーさんは、textreamに書き込みされていたパニチェさんはご存知かな?
    このニーチェクラブは、パニチェさんのホームページで、
    掲示板の管理人もパニチェさんがされています。
    (感謝です!)

    新トピ(スレッド)をたてたいときは、今なら『ニークラについて(トピ作成依頼など)2』というスレッドで、管理人のパニチェさんに、こういうトピ立てをお願いします、と、お願いすれば、パニチェさんの時間のあるときに(お仕事されててお忙しそうです)、新トピをたててくださると思います。

    あとで、『ニークラについて(トピ作成依頼など)2』にpipitが投稿して、スレッド自体を上げさせてもらいますね
    もしトピ立てを希望されるなら、パニチェさん宛に、書き込みされるといいと思います(^O^)/

    たーぼーさんの投稿、読み応えありそうだけど、今から仕事行く準備で離れますね。
    おつかれさまです!



    No6610に返信(たーぼーさんの記事)
    > Pipitさん、お久しぶりです。(**)/
    > ショーシャンクさんとこで一緒になりました。
    > 覚えてますか? 
    > どうやってトピックを立てればいいのでしょうか? <
引用返信/返信 削除キー/
■6616 / inTopicNo.69)  時さんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/14(Mon) 06:47:19)
    時さん返信ありがとうございます。参考にします。
    まだ質問があります。

    時さんの投稿&#8681;
    それと、八支聖道を一応にでもマスターできると、心解脱ではなく、慧解脱に至ります。智慧での解脱という意味です。これは、相応部因縁遍因縁相応「スシーマ経」に記載がありますが、慧解脱のみの比丘のお話も書かれています。

    智慧での解脱を目指す行が、八支聖道の正定で、そこまででも十分に解脱(慧解脱)ですが、その正定(四禅定)から続いて止瞑想が説かれています。これは九次第定と言いますが、無色界の瞑想になるようです。仏典内では、これらが明確に分類して書かれていませんので、混乱しますね。読み解くしかありません。


    上記の慧解脱と心解脱の両方をマスターしたものが、倶解脱です。

    そして仏陀が無学(もう学ばなくてよい)ですよと言っているのが、倶解脱の比丘と慧解脱の比丘です。これは、中部70経「キーターギリ経」に記載があります。ご確認いただければと思います。



    慧解脱すれば心解脱してなくても、もう仏教を学ばなくていいのでしょうか?
    心解脱っていうのは、つまり自我心の消滅ですよね?
    この心解脱と涅槃寂静の区別が分かりません。

    九次第定(初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)ですが、この最初の方には四禅定がありますね。そして続く、空無辺処、識無辺処、無所有処・・・と止瞑想が進むと、最終的には想受滅に至ると言う事ですね。これができれば、心解脱です。


    この心解脱は出家しないで日常生活を送りながら可能でしょうか?
    出来ない石を置いてるだけと言われるかもしれませんが、無色界に入って仕事などに支障がないか心配です。
    一番大きいのは他者の目を気にしないでいられるかということだと思います。
    どうしても他者の目を気にしてしまいそうなんですが。。。
    時さんは一人でやったそうですが、他者の目は気にしませんでしたか?
    心解脱は智慧でジャンプすることは出来ないのでしょうか?
    智慧=梵天の住所は初禅の第3天だと理解しているんですが、慧解脱のようにジャンプするわけにはいかないのでしょうか。
    四無量心の捨が平静という解釈なのは、この心解脱をさしているのかと思うんですが。
    ただこれだと自然ではないから九次第定の方が好ましいとは思ってます。

    色々込み入った事をお聞きしてすいません。
    なにしろ大事了畢の方向性が決まらないというか、間違っていたら大変だと思い大乗など色々な文献を調べるうちに迷いの袋小路に入ってます。
引用返信/返信 削除キー/
■6615 / inTopicNo.70)  たーぼーさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/09/14(Mon) 06:31:54)
    たーぼーさんへ。

    > 更に時さんに質問です。四禅をwikiで調べると
    > パーリ語経典長部『大般涅槃経』では、釈迦の入滅の様子が、「初禅から滅想受まで、「九次第定」を段々と上がって行き、そこから初禅まで段々と下って行き、そこから再び四禅まで上がったところで入滅した」と描写されており、第四禅定をして涅槃とする根拠とされた。同経には釈迦が涅槃に入る前に座禅したとは説かれておらず、涅槃図は一般に右手を枕にして横になる姿勢で表わされる。なお、色界の次を無色界と呼ぶ[要出典]。

    > これが涅槃の根拠になってるそうです。

    ちょっとこれでは、何が涅槃の根拠なのか私には意味が分かりませんね。

    > ここで質問ですが、仏陀は最後の肉体が死ぬまで涅槃に赴かなかったのではないかと思うんですが、時さんはどう考えられますか?

    スッタニパータ267には、修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。とあります。

    体得とは、十分会得して自分のものとすること。(広辞苑)とありますので、これを肉体が死ぬ時の事とすると無理があるように思えます。

    > つまり復活して最低限の生存欲は最後まで維持してたのではないかと思うんです。
    > それはこの虚仮の現象世界と迷える衆生を見捨てたくないからじゃないかと。
    > スッパニパータなどを読むと生存の矢を抜いた、これが最後の体であると記述されているし、生存の矢を抜いた人はあの世とこの世を共に捨て去るなどとも書かれています。
    > まぁそんなタイミング良く入滅に涅槃寂静を合わせるのも難しいと思うんですが、仏陀ならそのくらいやったのではないかとも思うんですが。

    「如来の般涅槃は、久しからずして起こる事でしょう。三ヶ月後、如来は般涅槃する事でしょう。そして、如来が再度、生命の為にそれを取り消すという、そのような道理は存在しません。(長部16経「大般涅槃経」)

    これは、過去に弟子のアーナンダにそれとなく如来自身の死期を伝え、アーナンダの返答次第では、それを伸ばすことも可能だったという事が描かれたもので、その時アーナンダは、明確に如来の延命を望む言葉を伝えませんでした。ですので、それはアーナンダ、あなたの過失であり、今延命を望んでもそれを取り消すと言う事はできませんよというような内容だったと記憶しています。ですので、仏陀は、それまでには多少にかかわらず自らの欲望を滅尽しているはずで、最低限の生存欲すらもすでになかったのではないでしょうか。

    生存の内の恐怖及び生存から離脱する事を求める人々の生存とを見て、わたしは生存を尊重せず、いかなる喜びにも執着しません。(中部49経「梵天招請経」)

    上記の仏典記載があるようですが、生存を尊重せずと言っている仏陀自身に生存欲はあった(維持していた)と思われるでしょうか。

    > 涅槃の定義も八正道の道が涅槃であり、涅槃に至る道はないという方もいます。
    > これは世間ではなく、出世間になれば涅槃なんだということなんだと思いますが、これについてはどう思いますか?

    比丘よ、以前に無知であった彼には、無明・迷妄がありましたが、彼のそれは捨断され、根を断たれており、基礎なきターラ樹のようになされ、虚ろなものとなされ、将来に生じない法となります。
    それゆえ比丘よ、そのように具足した者は、かの最上の寂静住処を具足した者となるのです。なぜなら比丘よ、これは最上の聖なる寂静だからです。すなわち、貪欲・瞋恚・愚痴の寂静は。(中部140経「界分別経」)

    涅槃(最上の聖なる寂静)は、貪欲、瞋恚、愚痴の寂静(滅尽)と言う事で、涅槃の一つの定義です。

    かの八支聖道が梵行です。すなわち、正見解・正思惟・正語・正行為・正生活・正精進・正念・正定です。比丘よ、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽。これが梵行の完成です。(相応部大篇45-06)

    友等よ、いかなるものが眼をなし、智をなし、寂止、神通、等覚、涅槃のために作用する中道なのでしょうか。それは八支聖道です。すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。友等よ、これがその、眼をなし、智をなし、寂止、神通、等覚、涅槃のために作用する中道なのです。(中部3経「法相続経」)

    八支聖道は、梵行の事であり、中道の1つの意味でもありますね。

    ですので、梵行であり中道でもある八支聖道の完成で、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽の境地である涅槃の体現になると思います。

    > 道元のいう一生の參学ここに終わりぬという、完結ではなくて道が涅槃なんだという考えです。
    > そうしないと諸法実相であっても仏陀の説いた三法印の諸行無常にならないと思うんですが。
    > 諸法実相なんて仏陀は説いてませんよね。

    申し訳ありませんが、大乗仏教でのお話は私には分かりません。原始仏典では、諸法実相等は説かれていないと思います。大きなお世話かもしれませんが、ごちゃまぜにはされないほうが良いと思いますよ。^^
引用返信/返信 削除キー/
■6614 / inTopicNo.71)  たーぼーさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/09/14(Mon) 02:47:47)
    たーぼーさんへ。初めまして。よろしくお願いします。

    > これは時さんの投稿ですが、輪廻するのは[識とは、六識身の事で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の6つです] と書かれてますがこれだと十二縁起の六入ではないのでしょうか?
    > 六入=六根(目、耳、鼻、舌、身、意)とはまた違うのでしょうか?

    比丘たちよ、これら六識身です。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。比丘たちよ、これが識と言われるのです。(相応部因縁篇12-1-2)

    上記仏典の記載をもって、識とは六識身(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の事です。と書きました。

    それと「六入」を少し調べてみましたが、六処と同じ意味のようですね。

    六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)+六境(色・音・香・味・触・法)=六処(眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法)です。

    ですので、六入≠六根で、六入=六処ですね。

    No6611

    > 時さんの投稿

    これは、時の投稿ではないようですよ。^^
引用返信/返信 削除キー/
■6611 / inTopicNo.72)  Re[13]: 時さんに質問
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/14(Mon) 02:29:37)
    時さんの投稿
    自身の機根に合わせてさまざままに用意された乗り物や道のりを選択し、山頂である涅槃寂静を目指して歩む道が仏道(仏修行)であると考えています。


    更に時さんに質問です。四禅をwikiで調べると
    パーリ語経典長部『大般涅槃経』では、釈迦の入滅の様子が、「初禅から滅想受まで、「九次第定」を段々と上がって行き、そこから初禅まで段々と下って行き、そこから再び四禅まで上がったところで入滅した」と描写されており、第四禅定をして涅槃とする根拠とされた。同経には釈迦が涅槃に入る前に座禅したとは説かれておらず、涅槃図は一般に右手を枕にして横になる姿勢で表わされる。なお、色界の次を無色界と呼ぶ[要出典]。

    これが涅槃の根拠になってるそうです。
    ここで質問ですが、仏陀は最後の肉体が死ぬまで涅槃に赴かなかったのではないかと思うんですが、時さんはどう考えられますか?
    つまり復活して最低限の生存欲は最後まで維持してたのではないかと思うんです。
    それはこの虚仮の現象世界と迷える衆生を見捨てたくないからじゃないかと。
    スッパニパータなどを読むと生存の矢を抜いた、これが最後の体であると記述されているし、
    生存の矢を抜いた人はあの世とこの世を共に捨て去るなどとも書かれています。
    まぁそんなタイミング良く入滅に涅槃寂静を合わせるのも難しいと思うんですが、仏陀ならそのくらいやったのではないかとも思うんですが。
    涅槃の定義も八正道の道が涅槃であり、涅槃に至る道はないという方もいます。
    これは世間ではなく、出世間になれば涅槃なんだということなんだと思いますが、これについてはどう思いますか?
    道元のいう一生の參学ここに終わりぬという、完結ではなくて道が涅槃なんだという考えです。
    そうしないと諸法実相であっても仏陀の説いた三法印の諸行無常にならないと思うんですが。
    諸法実相なんて仏陀は説いてませんよね。
引用返信/返信 削除キー/

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