| Pipitさんこんばんわ^^ 暖かいお言葉ありがとうございます。 すいません、書き直します。
カントの物自体のwikiから
カント哲学の基本概念。「本体」とも訳される。「物」「現象」に対する語。カントによれば,現象は認識主観によって構成されるものであり,物自体ではない。物自体はむしろ現象の根源にあるもので不可知物であるが,思惟可能な仮定であり,カントはこれを現象の背後に仮定せざるをえない思惟の要請であるとした。また彼は実践哲学においても,自由の可能性を保証するものとして物自体の世界を実践理性の要請であるとした
私はカントって読んだことないんだけど、カントの物自体って時さんへ書いた↓じゃないのかなと思ってます。
私の理解だと十二縁起の識は三番目で名色=五蘊と、六処=六根+六境の前にあることから、西田幾多郎の純粋認識のようなものを想定していました。 通常の凡夫の認識ではなく、認識する前の頭で理解する前の認識のようなものです。
六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)+六境(色・音・香・味・触・法)=六処(眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法)です。
時さんが書いた↓の文章は重要なことで、この世の実相なんです。 識が母胎に入ります。そして識という縁により名色があります。このことは、ご存じの十二支縁起の一部ですね。十二支縁起(無明・諸行・識・名色・六処・触・受・渇愛・取・有・生・老死)の一部(3番目と4番目)です。これは、長部15経「大因縁経」に記載があります。
簡単に言えば認識している自分(小さい方の自分)がないから認識出来ないんです。 識が母胎に入るとは空(大きい方の自分)に入るということです。 悟りがあるうちはダメだと言われるのは、認識している自分(小さい方の自分)があるから。
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