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■6663 / inTopicNo.49)  みのりさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/09/15(Tue) 15:26:57)
    こんにちは。
    テーラワーダのお坊さまも、十二因縁の説明は、多角的にされます。
    時間軸でも(連続性の因縁関係)、瞬間の成り立ち(同時性の因縁関係)としても、いろいろな説明がなされているかんじです。


    この事態を、私が昔、ネットの他掲示板で教えてもらった例えとしては、
    筆で白い点を書いていっても、画面全体でも白となる、
    そのように、十二因縁はどこにでも働いている、と言ってもらった覚えがあります。

    今回をきっかけに、『ブッダの実践心理学第六巻縁起の分析』スマナサーラ長老、藤本晃先生の共著、サンガ、をパラパラと開いてみました。

    『では、どうしてこの十二項目のリストを作ったかというと、十二支を見ることによって、簡単に取れるものが見つかるからなのです。
    (略)
    そのように項目を一つ一つ見ると、コントロールできるものと、できないものを見出すことができます。(略)』p238.239より抜粋引用

    とありました。
    みのりさんが紹介してくれたページの方も、苦しみを滅するためにターゲットにできる項目をあげてられますね。

    ちなみになんですけど、
    パーリ経典では、四聖諦の苦として、生老病死があげられてて、
    その生老病死の説明として、割とはっきり定義が記されてます。
    片山一良先生の『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』大法輪閣
    p191〜194 の中で、パーリ仏典を訳された箇所を抜粋引用します。

    『では、比丘たちよ、「苦という聖なる真理」とは何か。
    生まれは苦です。老いも苦です。死も苦です。愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みも苦です。
    愛さない者たちと結ばれるのも苦です。愛する者たちと結ばれないのも苦です。
    求めて得られないのも苦です。要するに五取蘊は苦です。

    では、比丘たちよ、「生まれ」とは何か。それぞれの生けるものたちの、それぞれの生けるものの類における生まれ、誕生、入胎、発生、諸蘊の出現・諸処の獲得です。
    比丘たちよ、これが生まれと言われます。

    また、比丘たちよ、「老い」とは何か。それぞれの生けるものたちの、それぞれの生けるものの類における老・老衰・歯の欠落・白髪の生え・皺の寄り・寿命の減少・諸器官の老熟です。比丘たちよ、これが老いと言われます。

    また、比丘たちよ、「死」とは何か。それぞれの生けるものたちの、それぞれの生けるものの類からの死去・死没・破壊・滅没・死死・命終、諸蘊の破壊・身体の放棄・命根の断絶です。比丘たちよ、これが死と言われます。』
    パーリ仏典、長部第22経『大念処経』第16〜19節


    No6654に返信(minoriさんの記事)
    > pipitさん、お邪魔します。
    >
    >
    > https://sites.google.com/site/butsudonyumon/home/3
    >
    >
    > リンクフリー、ご自由にどうぞ、とあるサイトからお借りしてきた、十二縁起の解説です。
    > 以前にも見たことのあるサイトなんです。
    >
    > でね。この方は、生死を人が生まれること、ではなく、老死を老いて死ぬこと、ではなく解釈してるんですね。
    > きわめて現代的に誰にでも理解できるようなものとして解釈していると思うんですね。
    > よかったら見てください。^^
    >
    > 私は仏教にもまったく詳しくはないのですが、「いつも気づいている瞑想(あらためて時間を取って行う瞑想ではなく、日常生活中で自然に行うもの)」を、努めるようにはしているので、その意味では、貼らせていただいた十二縁起の解釈は、私のしているものとまったくの別物ではない、と感じるのですね。
    >
    >
    > pipitさんの十二縁起の解釈とはまったく違う物ですか?
    > もしそうだとしても、私が貼らせていただいたもののほうが正しいでしょ? とか、言うつもりはないので、感想を教えていただけると嬉しいです。<

    感想としては、
    苦しみを減らすための方法を、十二因縁に則って、説こうとされてるのだな、と思いました。
    わたしの解釈は、いろんなところに十二因縁は説明として当てはめられる、と、思っているのですが、
    例えばスッタニパータの724から始まる『二種の観察』などをチラチラと読むだけでも
    (岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』中村元先生訳、p156〜)
    苦の滅尽を説かれてるので、断言的に苦の滅尽を否定されてる方がいるとすると、少なくとも、その方はパーリ仏典のことは気にしてない方なんだなー、と、思っています。

    中村元先生の訳から引用します
    『苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、ーーー
    かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
    かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
    かれらは実に生と老いとを受ける。

    しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、ーーー
    かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
    かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
    かれらは生と老いとを受けることがない。』
    スッタニパータ724〜727

    中村先生は、(輪廻を)と書いてられるので、原文には、輪廻という単語はないのかもしれませんね。



引用返信/返信 削除キー/
■6659 / inTopicNo.50)  無題
□投稿者/ minori -(2020/09/15(Tue) 10:14:03)
    プラユキ・ナラテボーさんで検索したら出て来たので・・・。

    『悩み、苦しみ、そこにこそダンマの顕現がある
    「貪り」が育成力、「怒り」が改善力、
    「痴」が創造力になっていく
    スピリチュアル・アルケミー(煩悩を転じる錬金術)
    を起こす、仏教の癒すを発見する。』


    『仏教サイコロジー』という本。 藤田一照さんとプラユキ・ナラテボーさんの対談本なのだそうです。

    なんだか、煩悩即菩提を思い浮かべそう。
    買って読もうとは思わないけど、言わんとされるところはなんとなくわかる気がします。

    煩悩をただただ悪いものだけとせず、錬金術させて安楽に向かわせる、という発想、個性を殺す必要はなく活かしつつ、という発想なのかな。

引用返信/返信 削除キー/
■6658 / inTopicNo.51)  Re[15]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/15(Tue) 09:40:37)
    Pipitさん、おはようございます^^


    > 今のわたしの中のイメージでは、四聖諦の苦集滅道でいえば
    > pipitの現状、と、pipitの現状の原因、と、涅槃、と、涅槃へ至る道、かな〜?と思っています。


    pipitさん、現状が苦しいの?
    でも私も含めて皆ある程度は苦しいと思うなぁ。
    個体としての自分がある限りみんな苦しいと思う。
    それは無常で無量が本来なのに、自分という塊を持ってしまう苦しさだと思う。


    > 初期仏教では、ブッダは、涅槃へ至る道は八正道と説かれているとpipitは思っているのですが、
    > たーぼーさんは、八正道についてはどう思われていますか?

    これは大事だと思ってます。
    でも八正道の難しさは最初の正見を持てるかどうかが一番難しいと思ってます。
    色々な余計な知識を捨てていかないと中々正しい物の見方(智慧)にならないように思います。
    正見が持てれば、八正道は涅槃に至る道ではなく、道が涅槃になると思ってます。

    > たーぼーさんにとって、瞑想は、八正道の一つとして実践されてるのか、
    > 瞑想単独での実践を目指されてるのか、どっちかなあ?とお聞きしたくなりました。

    私はそんな改めて自宅で座ってとかではなく、常に内省して自分の心の動きを観察するようにしてます。
    十二縁起でいうと、受・渇愛・取が重要だと思ってます。
    この受で快と不快に分けてると思うんだけど、内省的なポジションで生活してると気づくんですよ。
    内省的なポジションでないと気づかないうちに、快から渇愛へ不快から嫌悪へ簡単に巻き込まれてしまう。
    快感でも喜ばず=渇愛に移行させず、不快でも嫌悪せず、常に一定の精神状態を持ってると少しずつ我が弱くなってきて楽になっていくように思ってます。
    十二縁起の最初の無明→行→識は認識以前のところだから難しいなぁと思ってます。
    これは何か特殊な体験をした人向きなような気がしてます。
    あくまで私の自己流解釈ですから。
    十二縁起も色々な解釈がありますから、minoriさんのも参考にされたらいかがでしょうか。


引用返信/返信 削除キー/
■6656 / inTopicNo.52)  Re[16]: pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/15(Tue) 09:02:49)
    ダーナ マインドフルな毎日 というサイトに、プラユキ・ナラテボーさんが十二因縁の解説を載せていらっしゃいます。
    リンクフリーとされていないので、貼ることは控えます。
    検索で出てくると思うのですが・・・。

    やはり、プラユキ・ナラテボーさんの解説も、現代的で理解しやすいものになっています。
    過去世がどうの、生まれてくる時の苦しみがどうの、のような解説にはなっていないですね。
    温かみの感じられる、さすがな解説になってます。

    仏教の解説書にある十二縁起、因縁って、「それ知ったとして何か役に立つの?」というぐらい縄文土器化したものになってて、学術的にはもちろん価値があるんだろうけど、実際の生活には活かせないんじゃないか、と思われる記述だと思うんですね。
    実際、現代人は、陶器だったり場合によっては、プラ食器で食事します。

    もちろん、本の趣旨の違いからそういう記述になってるのだから、しかたないのですが。
引用返信/返信 削除キー/
■6654 / inTopicNo.53)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/15(Tue) 07:53:38)
    pipitさん、お邪魔します。


    https://sites.google.com/site/butsudonyumon/home/3


    リンクフリー、ご自由にどうぞ、とあるサイトからお借りしてきた、十二縁起の解説です。
    以前にも見たことのあるサイトなんです。

    でね。この方は、生死を人が生まれること、ではなく、老死を老いて死ぬこと、ではなく解釈してるんですね。
    きわめて現代的に誰にでも理解できるようなものとして解釈していると思うんですね。
    よかったら見てください。^^

    私は仏教にもまったく詳しくはないのですが、「いつも気づいている瞑想(あらためて時間を取って行う瞑想ではなく、日常生活中で自然に行うもの)」を、努めるようにはしているので、その意味では、貼らせていただいた十二縁起の解釈は、私のしているものとまったくの別物ではない、と感じるのですね。


    pipitさんの十二縁起の解釈とはまったく違う物ですか?
    もしそうだとしても、私が貼らせていただいたもののほうが正しいでしょ? とか、言うつもりはないので、感想を教えていただけると嬉しいです。
引用返信/返信 削除キー/
■6653 / inTopicNo.54)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/15(Tue) 07:33:15)
    おはようございます(^_^)


    > 正直そこは分からないです。
    > 認識する自己(小さい方の自分)がないから記憶がないんですよ。
    > 今今今で立ち止まらないから記憶がないんです。
    > 物心つく前の記憶ってないですよね?
    > あれと全く同じで、その時に識が転生してたかどうかわからないですよ。
    > ただ十二縁起では無明が滅すると行が滅して識も滅すると言われてますね。
    > だから仏陀は余程に微細な処まで突っ込んで瞑想したんだと思います。<



    今のわたしの中のイメージでは、四聖諦の苦集滅道でいえば
    pipitの現状、と、pipitの現状の原因、と、涅槃、と、涅槃へ至る道、かな〜?と思っています。

    初期仏教では、ブッダは、涅槃へ至る道は八正道と説かれているとpipitは思っているのですが、
    たーぼーさんは、八正道についてはどう思われていますか?

    たーぼーさんにとって、瞑想は、八正道の一つとして実践されてるのか、
    瞑想単独での実践を目指されてるのか、どっちかなあ?とお聞きしたくなりました。

引用返信/返信 削除キー/
■6650 / inTopicNo.55)  Re[18]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/15(Tue) 06:27:08)

    > 十二因縁は、
    > 無明に依りて、、、で、識が生じて、
    > 無明が滅すると、、、識も滅する、ですよね?
    >
    > たーぼーさんは、無明が滅すると、識も滅する、と思われてるのですか?


    Pipitさん、おはようございます。
    正直そこは分からないです。
    認識する自己(小さい方の自分)がないから記憶がないんですよ。
    今今今で立ち止まらないから記憶がないんです。
    物心つく前の記憶ってないですよね?
    あれと全く同じで、その時に識が転生してたかどうかわからないですよ。
    ただ十二縁起では無明が滅すると行が滅して識も滅すると言われてますね。
    だから仏陀は余程に微細な処まで突っ込んで瞑想したんだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■6646 / inTopicNo.56)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/14(Mon) 21:58:06)
    レスありがとうございます。

    No6644に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 人間が理性的な理由は人間が理性的な動物だからという思考はしていないと思います。

    あ、そうですか。それは失礼しました。

    > 人間の理性というものも、単純に肯定するのではなく、いかに理性が限界を孕んでいるかという、理性批判の契機も徹底的に探求するのがカントでしょう。

    カントの場合、神は道徳や自由意志との関連ででてくるのでしょうか?
    コペルニクス的転回が偉業であるのは理解できるのですが、どうも実践理性批判が解説書を読んでもよく分かりません。
引用返信/返信 削除キー/
■6645 / inTopicNo.57)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/14(Mon) 21:50:59)
    たーぼーさん、こんばんは
    書き込み嬉しいです、ありがとうございます。

    > 私はカントって読んだことないんだけど、カントの物自体って時さんへ書いた↓じゃないのかなと思ってます。
    >
    > 私の理解だと十二縁起の識は三番目で名色=五蘊と、六処=六根+六境の前にあることから、西田幾多郎の純粋認識のようなものを想定していました。
    > 通常の凡夫の認識ではなく、認識する前の頭で理解する前の認識のようなものです。
    >
    > 六根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根)+六境(色・音・香・味・触・法)=六処(眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法)です。
    >
    > 時さんが書いた↓の文章は重要なことで、この世の実相なんです。
    > 識が母胎に入ります。そして識という縁により名色があります。このことは、ご存じの十二支縁起の一部ですね。十二支縁起(無明・諸行・識・名色・六処・触・受・渇愛・取・有・生・老死)の一部(3番目と4番目)です。これは、長部15経「大因縁経」に記載があります。
    >
    > 簡単に言えば認識している自分(小さい方の自分)がないから認識出来ないんです。
    > 識が母胎に入るとは空(大きい方の自分)に入るということです。
    > 悟りがあるうちはダメだと言われるのは、認識している自分(小さい方の自分)があるから。<

    十二因縁は、
    無明に依りて、、、で、識が生じて、
    無明が滅すると、、、識も滅する、ですよね?

    たーぼーさんは、無明が滅すると、識も滅する、と思われてるのですか?
引用返信/返信 削除キー/
■6644 / inTopicNo.58)  パニチェさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/14(Mon) 21:49:22)
    こんばんは

    > >>最終的にカントは人間が理性的な理由というか根拠は何だと主張しているのでしょうか。
    >
    >>私もよく分かりませんが、おそらくそうでは思っていることを述べると、カントは人間理性そのものが根拠だという立場です。
    >
    > やっぱそうですか。
    > 解説書やニーチェを通して知るカントは人間が理性的な理由は人間が理性的な動物だから、みたいな説明があって、それって何も説明してないやん、と思ってしまったのでした。

    人間が理性的な理由は人間が理性的な動物だからという思考はしていないと思います。

    人間の理性というものも、単純に肯定するのではなく、いかに理性が限界を孕んでいるかという、理性批判の契機も徹底的に探求するのがカントでしょう。




引用返信/返信 削除キー/
■6642 / inTopicNo.59)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/14(Mon) 21:37:44)
    こんばんは。レスありがとうございます。

    > knowing itselfさんからのコメント読むと、
    > 「そう言われれば、そうですね」と思うことが多くて、自分の至らなさに恥ずかしくなりながらも(^_^;)、とてもありがたいです。
    >
    > 今回も、私は、私の好みで、偏見つくりかけてましたね。
    >
    > いつも、pipitの偏向に気づかせてもらいまして、感謝しています。
    >
    > pipitの思考の傾向性ともいえるかもしれませんね。
    >
    > 不自由です !

    わたし自身も自分の好みや偏向でカントを歪めている可能性大だと思います。カントは単純過ぎる要約や気の利いたつもりの図式化には収まりきらない深さが身上ですね。それでも間違いを恐れずに思い切って思考することしか、理解を深める道はないでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■6639 / inTopicNo.60)  Re[17]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/14(Mon) 21:07:40)
    おそらくニーチェがカントを批判したのは俯瞰してないから。
    空にも人空と法空がある。
    人空は小さい方の自分がなくなるだけ。
    法空はそれプラス天界に入る。
    そうすると人空と法空ではこの世を見る世界観が違ってくる。
    諸法実相とは人空。仏陀は諸法実相とは言わず諸行無常と言った。
    道元曰く、色即是空の転法華あり、空即是色の転法華あり
    諸法実相は空即是色の転法華ありの方
引用返信/返信 削除キー/

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