(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■6779 / inTopicNo.13)  Re[27]: たーぼーさんへ
  
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/18(Fri) 14:54:47)

    > 添付した画像の中の第四図・第五図になります。
    > この画像の出典は内山興正著「進みと安らい」ですが、他の書籍にも載っているようです。図の背景や意味についてはknowing itselfさんがお詳しいです。

    おくたがわさん、ありがとうございます。
    親切な方ですね。
    これはもう内山老師のお書きになっている通りです。

    スッパニパータで仏陀がなんて言ってるかと言うと、

    最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
    【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。

    さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。

    それを解明するには、『ダンマパダ』の
    【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。


    死王も彼を見ることがないと言ってるんですよ。
    今の特に臨済宗系(名誉のために言うと全てではないと思います)の見性至上主義とは全く正反対なんです。
    仏陀は見性などしないほうがいいと言ってるんですよ。
    それは何故かと言えば悟るより悟りを落とす方が何倍も大変だからです。
    それは目の前のpcが私だったというならすぐ忘れられるかもしれないけど、本来の見性は腰抜かすようなとてつもない世界なんです。
    それを(小さい方の自分)が抱え込んでしまうんですよ。
    空とは無常であるのに抱え込んでしまうと自分のところで止まってしまうんです(笑)
    そうすると身動きが取れなくなるんです。
    悟りを自分の物にしてしまうんです。無常で苦で非我なのに(笑)
    だから苦しむから仏陀は二元対立の世界(内山老師の図で言うと第三図)
    に帰って来なければ死の王を見ることはないと言ってるんです。
    第五図の頭で展開する根本の世界は、第三図(第四図ではないと思う)の二元対立の世界まで戻らないと思い出せません。
    だから本当の悟りの部分は内山老師図にはないけど第六図なんです。自己を忘れきったところ。
    第六図もしくは(頑張って第七図?)いって、また第四図に帰ってきて第一話が終わりです。

    だから印可2個持ちの方とか無事禅は悟りがないとか良く批判してたけど、この構造を分かってないんですよ。物足りないし、やっぱり神のお姿を見たいけど、悟りがないから無事なんです(笑)


引用返信/返信 削除キー/
■6775 / inTopicNo.14)  Re[26]: たーぼーさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2020/09/18(Fri) 11:01:30)
    No6774に返信(たーぼーさんの記事)
    初めまして。横からすみません。

    > この第五図と第四図というのは何でしょうか?
    > 何処の本に載ってるとか、なるべく具体的に教えてほしいのですが。

    添付した画像の中の第四図・第五図になります。
    この画像の出典は内山興正著「進みと安らい」ですが、他の書籍にも載っているようです。図の背景や意味についてはknowing itselfさんがお詳しいです。
1377×859 => 600×374

zu4.5.png
/773KB
引用返信/返信 削除キー/
■6774 / inTopicNo.15)  knowing itselfさん
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/18(Fri) 10:29:25)
    knowing itselfさん、初めまして。

    <第五図VS第四図は、カントによる物自体VS現象の内山興正バージョンだと思います

    Pipitさんとのお話に割り込むようで申し訳ないのですが、この第五図と第四図というのは何でしょうか?
    何処の本に載ってるとか、なるべく具体的に教えてほしいのですが。
    私のIPOD だとNo6737でpipitさんのメッセージにknowing itselfさんが返信したレスから始まっていてpipit さんがknowing itselfさんに送ったレスが見当たりません。

    何か気になるもんで。少しでもお力になれたらと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■6759 / inTopicNo.16)  こんばんは
□投稿者/ pipit -(2020/09/17(Thu) 22:04:21)
    みなさま、こんばんは、コメントありがとうございます!

    今日は用事が入ってしまったので、また、ゆっくり読ませていただいて、
    返信させていただきます。

    ありがとうございます!

    悪魔ちゃん、後半部分への返信は、また明日以降に書きますね〜

    ひとまず失礼します m(_ _)m

    おつかれさまです (o^^o)
引用返信/返信 削除キー/
■6758 / inTopicNo.17)  Re[20]: カントの現象
□投稿者/ pipit -(2020/09/17(Thu) 21:55:31)
    No6707

    悪魔ちゃん、こんばんは(^O^)/

    > 中島義道さんによると、カントの「現象」はあくま「正しい現れ」のこと。
    > もしそうだとするなら、カントの「現象」で見てゆこうとするなら、まずこの前提をおさえておいて、って思うんだけどわたしのばあい。
    >
    > 現象学の「現象」はカントの「現象(正しい現れ)」だけを相手にしてないとわたし思ってるから、ちょっと書いてるのね。<

    ちょっとね、ここらへん、ちょっとややこしそうだぞ?って、思ってるよ。


    pipitの今の私見書くね。

    例えば、
    私が手品使って、悪魔ちゃんとpipitの間で、ボールが宙に浮いたとするよ。

    中ちゃん先生の言う現象って、
    2人の間でボールが宙に浮き、その状態には何かしらの理由がある、
    みたいなことかと、思ってるんだ(もちろん大きく間違えてるかも、その場合はごめん!)

    2人の間で、そういう現象を「知る」ことが共有できる。
    2人とも、原因があり、その結果として、宙に浮くボール、という現象を「知る」
    ここまでが、中ちゃん先生の言う、正しい現れ、なんかなーって。

    そして、そうなってる、そう見えている、理由を、2人で、話し合うことができる。
    それが、黒ちゃん先生の言う、経験の地平の確定、なんじゃないかなーって。
    (黒ちゃん先生の文章を後で引用するね。)
    「pipitの超能力だよ〜」とpipitが嘘をついても、
    手品の仕掛けを悪魔ちゃんが見つけて、
    「嘘ついちゃだめ!物理的仕掛けみつけたよ!」
    って、2人で(本当のこと)を探求することができ得る。

    みたいな感じで、カント哲学での現象とかを捉えてるんだけど、
    全然違ってたらごめんなさいm(_ _)m
    多分、まちがってるかな。。
    だけど、今は、そういうかんじに思ってしまってるかんじです


    先に言ってた、黒ちゃん先生の〈経験の地平の確定〉などについての文章の引用です↓

    黒崎政男先生『カント『純粋理性批判学校入門』p182より引用開始
    『超越論的真理とは〈経験の地平〉の確定のこと

    このようにカントは、対象との具体的出会いに先立って、ア・プリオリに経験の〈形式〉を確定しようとする。(略)

    これは具体的な存在者との出会いをあらかじめ可能にするような〈経験の地平〉の確定、というふうに言いあらわすことができるだろう。
    この経験の地平においてのみ、我々は認識が客観的妥当性を持つことを主張しうるのである。そして、この地平の確定こそ、「超越論的真理」と呼ばれることの内実なのである。

    (略)だから、経験の個々の内容にまで立ちいって考察することは『純粋理性批判』の仕事ではない。
    つまり、個々の内容を伴った経験的認識の真理の一般基準を提示することが目的なのではない。

    (略)カントが確立した経験の地平は、したがって真なる認識も偽なる認識をも許容する、というか、むしろそれらを初めて可能にする地平なのである。
    この地平の上でのみ、我々は初めて認識の客観的妥当性を主張しうる。
    その主張はあるいは誤謬であるかもしれないが、この主張の修正・改変は、「超越論的真理」を前提にして初めて可能なのである。

    (略)さて、カントの超越論的真理が、〈経験の地平〉を確定することだとすれば、個別的、具体的な経験法則や知識は、カテゴリーから〈導出〉されてくるようなものではなくて、「経験の地平」の上で、具体的に経験を積みながら求められていくようなものでなければならない。
    カントは「すべての経験的法則は、その起源を純粋悟性概念から導出することはできない」(A127)と述べている。
    (略)、そこには、経験において「与えられる」という感性の契機がどうしても必要なのである。
    (略)
    『純粋理性批判』によれば、真理は最初から誤謬や仮象と峻別されてア・プリオリに与えられているようなものではなく、実験や経験の検証を重ねる運動のうちからえられてくるものである。
    このような真理のダイナミックな性格は、感性と悟性とをともに人間認識の不可欠な契機とし、真理の成立根拠を人間自身のうちに置くことによって、はじめて確立され、基礎づけられたものである。
    そして、この真理獲得の運動を根底からささえているのが、カントの〈超越論的真理〉ということなのである。
    真理は、ア・プリオリな形で先取的に枚挙されてり、体系性の「高い塔のうち」に存するのではなく、その存する場所は、「経験という実りゆたかな低地(Bathos)」(ともに『プロレゴメナ』付録)なのである。』
    引用終了

引用返信/返信 削除キー/
■6753 / inTopicNo.18)  Re[27]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/17(Thu) 20:28:40)

    > この無尋有伺定っていうのが八正道の中道です。
    > 世俗で生きていたら妻子があったり、色々な個人の縁があると思いますが、完全に自意識がなくなってしまうと、それはもはや仏道であって何故自分の妻子を持ってるのか分からなくなる。
    > 自意識がなくなるってことは世界中の人を平等に愛するってことですから。
    > だから世俗で生きるなら、中々一生の参学ここに終わりぬとはいかないですよ。


    たーぼーさんは、真摯すぎるぐらい真摯なんですね。

    私の場合は、苦悩も何もかも全体性から起きている、というのがわかりラクになったので、あとは、日常にそれを戻していくだけです。
    難しいことはなにもありません。

    テキストリームでは、頭どうかしてる人ってイメージの投稿が多くなってしまいましたが、実はごく普通の庶民的なおばちゃんです。
    「哲学のドアをノックする」ってトピが私が作らせていただいたトピなので、よかったら仏教以外の世間話でもなんでも、書きにきてくださいね〜。

引用返信/返信 削除キー/
■6752 / inTopicNo.19)  カント哲学の漫画化
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/17(Thu) 20:15:57)
    第五図というのは、坐禅する身体の上に第四図がそのまま乗っかっています。第四図が単に反面教師的な貪りの人生の寓意ではなく、純粋理性批判における感性と悟性による共同作業を漫画化したと読めるなら、坐禅する身体も、認識を触発する究極の源泉としての物自体とみる方が面白いと思う。第五図の本体が坐禅する身体なら、第四図と結局は同じになる。
引用返信/返信 削除キー/
■6739 / inTopicNo.20)  Re[22]: 純粋理性批判
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/17(Thu) 17:56:55)
    ねえねえ、
    カントの『純粋理性批判』って「宗教」の話なの?
引用返信/返信 削除キー/
■6738 / inTopicNo.21)  第五図と第四図の結合
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/17(Thu) 17:35:30)
    「実践理性」で神の存在が要請されることの説明。かなり端折っていますが、間違ってはいないかな。道徳法則の立法者であるかのように行為することで第五図の住民であることがわかったとしても、第四図での未来に向けての幸福な人生に繋がることはまったくない。人生はより苛烈になるのが通常のケース。まあそれでもいいとはいえる。第五図と第四図が完全に切断されても、本体の第五図に入れるならそれが究極。
    しかし、第五図と第四図の並存を認めるなら、人間は第四図での幸福を望んでもいい。厳格な道徳法則によって自律すること(これは第五図)と第四図の幸福が結びつくためには、神の存在がなければ不可能。
    第五図と第四図が架橋されバランスの取れたものになるために、神の存在が要請される。

引用返信/返信 削除キー/
■6737 / inTopicNo.22)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/17(Thu) 17:07:03)
    こんばんは レスありがとうございます

    >>第五図VS第四図は、カントによる物自体VS現象の内山興正バージョンだと思います。<
    >
    > knowing itselfさんが考えられているのは、
    >
    > 第四図は、現象界内における対象としての「あらわれたものとしての自己」、物、

    永井さんによると、カントが「純粋理性批判」で使った考え方を借用して、内山興正は第四図を捉えているそうです。私見では、現象はすべて第四図だと思います。

    > 第五図の、座禅してる身体の部分が、本体、基体、物自体
    >
    > ということかな?と思いました。

    第五図=物自体といっているのはわたしだけかもしれません。現象では捉えきれないより基底にある存在様式といえば、物自体しかないので、第五図=物自体でいいと考えます。
    物自体であれば、身体の部分がそれであることはありません。よって第五図=物自体であれば、身体と同一化できないなんらかの意識になると思います。

    >>この点には確信に近いものがありますが、カントならではの特徴は、第四図の人間が第五図(=物自体)にもあることの覚醒が可能な唯一のルートに、混じり気なしの完全に純粋な自由意志としての善意志を挙げたことでしょうか。<
    >
    > (カントにとっては)まずは単なる思考、推測として第五図の在り方を、自己に証明するのが、善意志であり、善意志により、第五図は、自己に思考されたものから、自己に確証されたものへと変わる。
    > みたいな感じかな?と思いました。

    第五図が物自体なら、物自体は感性と悟性の共同作業である認識の対象になることは不可能だというのかカントですね。善意志によって第五図が変わるのではなく、善意志だけが第五図から直接発しているのだと考えています。

    >
    >>これよくわかるような気がします。第四図というのは条件づけと関係性の世界、その外に出ることは容易なことではない。<
    >
    > そうですね。
    > 禅の場合は、カントみたいに善意志云々ではなくて、坐禅により第五図を覚知する、気づく、みたいなかんじなのかもしれませんね、?

    禅の人が第四図と第五図の二重化を認めているかといえば、そうではないような気がします。二重化を受け入れるなら、坐禅によって第五図を覚知するとなるでしょう。その場合でも、第五図の理解・解釈や覚知の基準が人によって分かれると思います。


    > いろいろ誤解してたらすみません、
    > その場合は、knowing itselfさんのお考えになられていることを教えていただけたらとても嬉しいです
    >
    > いつもありがとうございます o(^▽^)o
    >
引用返信/返信 削除キー/
■6735 / inTopicNo.23)  Re[26]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/17(Thu) 15:52:21)
    No6731に返信(minoriさんの記事)
    > たーぼーさんは、今、仏教3.0に興味をお持ちなんですね。
    >
    > 私も山下さんの本は、二冊だけですが読んでますよ。
    > それと、藤田さん、永井均さんとの対談本。
    > 対談本のほうは読んだ時にはよくわからなかったんだけど、ニーチェクラブに投稿するようになってしばらくたつ今なら、前よりは理解できてるかも・・・と言いながら、読んではないんですが。('◇')ゞ
    > (カント哲学が出てきます。)

    今は仏教3.0に興味持ってますね。
    いくらやり取りしても全然意見が合わなかった理由がやっと分かったという感じです。
    こっちは仏教2.0で話してるし、向こうは仏教1.0で話してるし、その全体像を解説してくれる山下さんのような方は貴重だと思います。
    愚さんの掲示板でも私に同調してくれる人も結構いたっていうことは、やはり大乗の感覚に違和感がある人もかなりいると思います。

    > ところでですが。たーぼーさんは、日常生活で人目が気になるであるとか、人目が気になることが悩みである、みたいなのってあるんですか?
    > 先日、時さんとやりとりされてるのを拝見してそんなふうに感じたのですが・・・
    > また違う意味合いの話でしたらすみません。
    > めんどうでしたらスルーしてくださいね。


    これについて言うと、無色界に入ると自意識が完全になくなってしまうんですよ。
    何故、仏陀が八正道が中道であると言ったかというと、そこがポイントなんです。
    八正道の中道は少し自意識を残すんですよ。

    時さんの投稿だけど↓
    そして有尋有伺定と無尋無伺定の中間的な感覚を表現したものが無尋有伺定と呼称しているように思います。とりあえずは、明確な区切りはないようで、例えばの虹の状態を赤だ黄色だと色を分けていうのですが、実際にはその境目はないようにスペクトラム状の状態をあえてと言う事で表現したものだろうと思いますが、有尋有伺と無尋無伺は、はっきりと違いますね。


    この無尋有伺定っていうのが八正道の中道です。
    世俗で生きていたら妻子があったり、色々な個人の縁があると思いますが、完全に自意識がなくなってしまうと、それはもはや仏道であって何故自分の妻子を持ってるのか分からなくなる。
    自意識がなくなるってことは世界中の人を平等に愛するってことですから。
    だから世俗で生きるなら、中々一生の参学ここに終わりぬとはいかないですよ。
引用返信/返信 削除キー/
■6732 / inTopicNo.24)  Re[26]: たーぼーさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/17(Thu) 13:18:44)
    >この心解脱は出家しないで日常生活を送りながら可能でしょうか?
    出来ない石を置いてるだけと言われるかもしれませんが、無色界に入って仕事などに支障がないか心配です。
    一番大きいのは他者の目を気にしないでいられるかということだと思います。
    どうしても他者の目を気にしてしまいそうなんですが。。。<


    今、探してきました。 ↑ こういうことだったんですね。

    また別の意味の話でしたね。


    愚さんも、「自我というのはもともとないので、そんなのなくても仕事はできる」という話を以前されてましたね。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -