| > 添付した画像の中の第四図・第五図になります。 > この画像の出典は内山興正著「進みと安らい」ですが、他の書籍にも載っているようです。図の背景や意味についてはknowing itselfさんがお詳しいです。
おくたがわさん、ありがとうございます。 親切な方ですね。 これはもう内山老師のお書きになっている通りです。
スッパニパータで仏陀がなんて言ってるかと言うと、
最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは 【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。
さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。
それを解明するには、『ダンマパダ』の 【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。
死王も彼を見ることがないと言ってるんですよ。 今の特に臨済宗系(名誉のために言うと全てではないと思います)の見性至上主義とは全く正反対なんです。 仏陀は見性などしないほうがいいと言ってるんですよ。 それは何故かと言えば悟るより悟りを落とす方が何倍も大変だからです。 それは目の前のpcが私だったというならすぐ忘れられるかもしれないけど、本来の見性は腰抜かすようなとてつもない世界なんです。 それを(小さい方の自分)が抱え込んでしまうんですよ。 空とは無常であるのに抱え込んでしまうと自分のところで止まってしまうんです(笑) そうすると身動きが取れなくなるんです。 悟りを自分の物にしてしまうんです。無常で苦で非我なのに(笑) だから苦しむから仏陀は二元対立の世界(内山老師の図で言うと第三図) に帰って来なければ死の王を見ることはないと言ってるんです。 第五図の頭で展開する根本の世界は、第三図(第四図ではないと思う)の二元対立の世界まで戻らないと思い出せません。 だから本当の悟りの部分は内山老師図にはないけど第六図なんです。自己を忘れきったところ。 第六図もしくは(頑張って第七図?)いって、また第四図に帰ってきて第一話が終わりです。
だから印可2個持ちの方とか無事禅は悟りがないとか良く批判してたけど、この構造を分かってないんですよ。物足りないし、やっぱり神のお姿を見たいけど、悟りがないから無事なんです(笑)
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