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■6829 / inTopicNo.49)  Re[44]: 第五図
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 16:57:02)
    No6827に返信(minoriさんの記事)

    >>パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。

    > 天上天下唯我独尊がありましたね。 これ、〈私〉に近いのかもしれないと、ふと思いました。
    > なんと、お釈迦様が〈私〉を・・・になるのかな。
    > それともちょっと違うのでしょうか。
    > 私にはわからなくてすみません。

    いえいえ、とんでもないです。^^
    以下はパニチェ的な我流解釈による「天上天下唯我独尊」です。

    まずエピソードとしての「天上天下唯我独尊」は後世の創作です。
    で、教義としての意味は仏性を自己の本性としてこの世に生まれ出た人間賛歌であると解釈しています。
    この「唯我独尊」は自他の分別を越えたところの「我」と「独」であることから「一切衆生悉有仏性」を指し、それを認識できる人間であることの尊さを表現した言葉であるように思います。

    > それから、禅語の「主人公」。本来の自己のことなのだそうですが、本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているといえるのではないか、と思いました。
    > いずれにしても、無我、非我、空でいったん否定されてから蘇る東洋哲学での「私」と、もともと自我として備わる西洋哲学の「私」の違い、というのはあるのかもしれません。

    本来の自己は真我とか無位の真人なんかもそうですね。
    本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているかどうかは、パニチェの底が抜けてからでないと返信できないところです。
    分かりませぬ、すまそ。。。^^

引用返信/返信 削除キー/
■6828 / inTopicNo.50)  Re[43]: 第五図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 16:42:20)
    minoriさん、レスありがとうございます。

    No6817に返信(minoriさんの記事)

    > 私は仏教にも西洋哲学にもまったく詳しくないので、僭越な意見になってしまうことを皆様にお許し頂いて書くとすると・・・
    > 仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。
    > 西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。

    同意です。
    悟りの内実が言語道断とか不立文字(教外別伝)、勝義諦と表記される言語化できないものであるから尚更ですね。
    そもそも自己自体である〈私〉が言語化できないことも関連するとは思いますが、ここのところは未だ探究中です。

    > はい、それもあるでしょうし、西洋哲学まで手が回らない人が多いというのもあるんじゃないでしょうか。

    なるほど。

    > 縁ってすごいな、って思います。
    > テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    > そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    > 西洋と東洋の出会いなのかな、と。

    禿同です。私もそのように考えていますし、更にこのテーマは脳科学や認知科学とも出会います。

    > 〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか?
    > そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。

    ここ厳密には探究途上でペンディングです。
    少なくとも現段階でのパニチェにとってこれ以上の実相はないというのが〈私〉ではあるんですが、諸法実相との合一は未だ為しえておりません。

引用返信/返信 削除キー/
■6827 / inTopicNo.51)  Re[43]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 16:39:29)
    ふと思い出したので追加させてください。


    > パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。

    天上天下唯我独尊がありましたね。 これ、〈私〉に近いのかもしれないと、ふと思いました。
    なんと、お釈迦様が〈私〉を・・・になるのかな。
    それともちょっと違うのでしょうか。
    私にはわからなくてすみません。

    それから、禅語の「主人公」。本来の自己のことなのだそうですが、本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているといえるのではないか、と思いました。

    いずれにしても、無我、非我、空でいったん否定されてから蘇る東洋哲学での「私」と、もともと自我として備わる西洋哲学の「私」の違い、というのはあるのかもしれません。

引用返信/返信 削除キー/
■6817 / inTopicNo.52)  Re[42]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 13:24:27)
    No6815に返信(パニチェさんの記事)
    > 2020/09/19(Sat) 12:32:19 編集(投稿者)
    >
    > こんにちは、横レス失礼します。

    パニチェさん、こんにちは。 レスありがとうございました。

    > ■No6814に返信(minoriさんの記事)
    >>永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。
    >
    > 同意です。無我を目指す自己探究の起点において一般的な「私」からスタートすることはあまりにも短絡的ではないか、というような意味も含んでいるんだと思います。
    > 例えば無我にある有無、つまり「何をもって存在とするか」を問う存在論は、これだけで哲学の主要な一大テーマですからね。
    >
    > 『「無我」と言った時に、何がないのか。この「無我」って概念ははっきりしないんですね。我って言うと、分かったような気がして、我が無いんだというようなことを言うんですけど、いったい何がないのか、つまり、ないそれはいったい何であるのか、が問題です。哲学をやっている人間は、無我というような単純な表現で分かったつもりになって、それを金科玉条のようにしてしまうことを好みません。(ヴァージョン1-「〈仏教3.0〉を哲学する P.33」より引用)』


    私は仏教にも西洋哲学にもまったく詳しくないので、僭越な意見になってしまうことを皆様にお許し頂いて書くとすると・・・
    仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。
    西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。

    >>私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。
    >>なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。
    >
    > なるほど!それは気付きませんでした。
    > あと、minoriさんのレスに触発されて思ったのは。。。
    > 禅者が〈私〉をスルーしていたり、知らなかったりするのは、求道の目的でもある苦の滅却にあまり役立たない(全く役立たないということではないが、あまりにも遠回りというか本道ではない)からかもしれないとも思いました。

    はい、それもあるでしょうし、西洋哲学まで手が回らない人が多いというのもあるんじゃないでしょうか。
    どっちにも手が回ってないminoriが言うのは僭越すぎて厚顔無恥にもほどがあるのは承知の上で・・・書かないと始まらないので、皆様どうぞお許しくださいね。。。<m(__)m>

    > パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。


    縁ってすごいな、って思います。
    テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    西洋と東洋の出会いなのかな、と。

    〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか?
    そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■6815 / inTopicNo.53)  Re[41]: 第五図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/19(Sat) 12:03:35)
    2020/09/19(Sat) 12:32:19 編集(投稿者)

    こんにちは、横レス失礼します。

    No6814に返信(minoriさんの記事)
    > 永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。

    同意です。無我を目指す自己探究の起点において一般的な「私」からスタートすることはあまりにも短絡的ではないか、というような意味も含んでいるんだと思います。
    例えば無我にある有無、つまり「何をもって存在とするか」を問う存在論は、これだけで哲学の主要な一大テーマですからね。

    『「無我」と言った時に、何がないのか。この「無我」って概念ははっきりしないんですね。我って言うと、分かったような気がして、我が無いんだというようなことを言うんですけど、いったい何がないのか、つまり、ないそれはいったい何であるのか、が問題です。哲学をやっている人間は、無我というような単純な表現で分かったつもりになって、それを金科玉条のようにしてしまうことを好みません。(ヴァージョン1-「〈仏教3.0〉を哲学する P.33」より引用)』

    > 私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。
    > なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。

    なるほど!それは気付きませんでした。
    あと、minoriさんのレスに触発されて思ったのは。。。
    禅者が〈私〉をスルーしていたり、知らなかったりするのは、求道の目的でもある苦の滅却にあまり役立たない(全く役立たないということではないが、あまりにも遠回りというか本道ではない)からかもしれないとも思いました。

    パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。

引用返信/返信 削除キー/
■6814 / inTopicNo.54)  第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 10:40:23)
    内山老師が描いた「第五図」。
    師が描いたそのままの意図というのは、「ナマの命が展開する」ということなのだと思う。
    第四図で七転八倒している人間も、根柢のところではナマの命である、ということ。


    永井均さんが、仏教には〈私〉がないのがつまらない、とおっしゃるのは、唯一無二の存在である〈私〉が活かされていない、ということが言いたいのかな、と感じる。

    私が感じるには、ナマの命であった私を知ることにより、〈私〉は自然に深まるのではないか、ということ。
    なので、〈私〉は各自が取り組めばいい課題であり、仏教や非二元などでは、普遍的なものを教えるに留まるしかないのではないか、という理解をしている。
引用返信/返信 削除キー/
■6807 / inTopicNo.55)  Re[39]: 第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 09:46:07)
    ヤフーテキストリームにオリさん(マルコさん)という、カトリックの方がいて、仏教、キリスト教、アドヴァイタにも詳しい人だった。
    その人からは様々な知識を仕入れさせていただいたな、とつくづく思う。
    その人が語っていたすべてを私が知識として得ているなどということはまったくないけれど、私が知る知識の多くの部分は、その人の投稿から伝授されたものだと言える。

    さて。

引用返信/返信 削除キー/
■6802 / inTopicNo.56)  Re[38]: 第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 07:51:49)
    No6799に返信(minoriさんの記事)
    > 自己レス。
    >
    >
    >>仏教3.0の第五図というのは、非二元での「気づき」と内容として似た部分があるのではないか、と推測している。
    >>
    >>すべてのものの存在の基盤が「気づき」であり、「気づき」とともにすべてが存在している、と非二元では考える。
    >>「気づき」は、物質ではなくどこに存在する、という具体的な場所を示すことが不可能なもの。
    >>神、仏と言い換えてもいいようなもの。
    >>
    >>宇宙がなぜ存在しているのか、人間にはわかりようはない。
    >>しかし。「気づいていること」と「存在していること」は同時的事態だ。
    >
    >
    > 「気づき」というのは、映画を映し出すスクリーンと考えるとわかりやすい。
    > 一つのスクリーンに、それぞれが生きる世界の愛憎や勝敗の物語が映しだされる。
    >
    > 私たちはなぜ存在しているのか、という疑問は、宇宙はなぜ存在しているのか、という疑問に繋がるしかないけれど、その疑問も人間にはわかりようがない。
    >
    > しかし。私たち人間が宇宙の中に生きているという壮大なストーリーは、「気づいていること」と共にある、というのは、神秘を必要としない。
    > 映画が常にスクリーンと共にあるのと同じように、神秘を必要とはしない話だと言えると思う。
    >
    > 映画が第四図。スクリーンが第五図に相当する、と考えられる。
    > (もちろんこれは、非二元的にはそうだろうということであって、これだけが正解だという意味では決してないです。)
    >
    > スクリーンと映画の譬えは、物自体から触発されて現れる現象というカントの認識論とも、偶然にも通じていると言えなくもないと思う。
    >
    > 映画とスクリーンの譬えというのは、ラマナマハルシ以降、アドヴァイタ(=非二元、ノンデュアリティ)で使われる表現。
    >
    > 人間は、第四図と第五図を同時に生きているが本籍は第五図だということ。


    禅と非二元(アドヴァイタ、ノンデュアリティ)が示すもの、というのはそもそも似ているところがある。

    第四図、第五図を借りれば。
    その両方を同時に生きているのが私たちである、という観方は、禅と非二元に共通すると思う。

    私たち人間は、いついかなる時も第五図を離れてはいない。
    しかし、そのことに気づいていないだけなのだ。
    そのことに気づき(思い出し)、生きていく時、その人なりの第六図を生きるということになる。
    第六図というのは、金太郎あめみたいに紋切り型で同じような人間になる、という意味ではけしてないと思う。
    その人の個性が活かされる形で、善が表現されていくのが第六図になるのだと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■6801 / inTopicNo.57)  Re[38]: 自殺について
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 07:43:33)
    >カントのは認識論って見ているし、わたし自殺っていうの精神の問題って見てるから、まったく関係ない話題でもないと思うけど、minoriさんのいまの主題からズレちゃってるみたいでごめんね。

    >もうこれについてはここでは書かないよ。


    悪魔ちゃんへ。
    田秋さんからのレスがあれば続けてもらって問題ないよ。^^
引用返信/返信 削除キー/
■6799 / inTopicNo.58)  Re[37]: 第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/19(Sat) 04:40:58)
    自己レス。


    > 仏教3.0の第五図というのは、非二元での「気づき」と内容として似た部分があるのではないか、と推測している。
    >
    > すべてのものの存在の基盤が「気づき」であり、「気づき」とともにすべてが存在している、と非二元では考える。
    > 「気づき」は、物質ではなくどこに存在する、という具体的な場所を示すことが不可能なもの。
    > 神、仏と言い換えてもいいようなもの。
    >
    > 宇宙がなぜ存在しているのか、人間にはわかりようはない。
    > しかし。「気づいていること」と「存在していること」は同時的事態だ。


    「気づき」というのは、映画を映し出すスクリーンと考えるとわかりやすい。
    一つのスクリーンに、それぞれが生きる世界の愛憎や勝敗の物語が映しだされる。

    私たちはなぜ存在しているのか、という疑問は、宇宙はなぜ存在しているのか、という疑問に繋がるしかないけれど、その疑問も人間にはわかりようがない。

    しかし。私たち人間が宇宙の中に生きているという壮大なストーリーは、「気づいていること」と共にある、というのは、神秘を必要としない。
    映画が常にスクリーンと共にあるのと同じように、神秘を必要とはしない話だと言えると思う。

    映画が第四図。スクリーンが第五図に相当する、と考えられる。
    (もちろんこれは、非二元的にはそうだろうということであって、これだけが正解だという意味では決してないです。)

    スクリーンと映画の譬えは、物自体から触発されて現れる現象というカントの認識論とも、偶然にも通じていると言えなくもないと思う。

    映画とスクリーンの譬えというのは、ラマナマハルシ以降、アドヴァイタ(=非二元、ノンデュアリティ)で使われる表現。

    人間は、第四図と第五図を同時に生きているが本籍は第五図だということ。

引用返信/返信 削除キー/
■6784 / inTopicNo.59)  Re[37]: 自殺について
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/18(Fri) 18:40:32)
    ■6760、田秋さま
    ありがとうございます。

    自殺した人はどうして自殺したの?、っていうことが、わたしの問題。
    自殺っていうの、精神が身体を殺す、っていまのところ見てます。
    ふつう精神がおかしくなっちゃたから、っていうけど、どのようにおかしくなっちゃてるから?っていう問い。

    身体を自分の力で動かすことができない人は自殺することはできない。
    もともと精神に不具合がある人は自殺するのかしら?
    いわゆるふつうの精神だった人の精神がどうにかなって自殺しちゃうんじゃないかしら?

    なんていろいろ考えてる。

    自殺することはよくないことだ。ってすると、自殺してしまった人はよくないことをしてしまった人。っていうことになる?

    自殺した人の魂がどうなるかを、神、仏はなんか言ってるのかしら。

    カントのは認識論って見ているし、わたし自殺っていうの精神の問題って見てるから、まったく関係ない話題でもないと思うけど、minoriさんのいまの主題からズレちゃってるみたいでごめんね。

    もうこれについてはここでは書かないよ。






引用返信/返信 削除キー/
■6781 / inTopicNo.60)  第五図と気づき
□投稿者/ minori -(2020/09/18(Fri) 15:19:50)
    仏教3.0の第五図というのは、非二元での「気づき」と内容として似た部分があるのではないか、と推測している。

    すべてのものの存在の基盤が「気づき」であり、「気づき」とともにすべてが存在している、と非二元では考える。
    「気づき」は、物質ではなくどこに存在する、という具体的な場所を示すことが不可能なもの。
    神、仏と言い換えてもいいようなもの。

    宇宙がなぜ存在しているのか、人間にはわかりようはない。
    しかし。「気づいていること」と「存在していることは」は同時的事態だ。

引用返信/返信 削除キー/

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