(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■6933 / inTopicNo.37)  Re[48]: 意識と無意識
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 17:20:18)
    こんにちは、minoriさん。レスありがとうございます。

    No6920に返信(minoriさんの記事)

    > 理解力、思考力が続くうちに(今もあまりないけど  ´艸`)、ヴィトゲンシュタインの入門書をそのうち読めたらいいな、と思ったことがあります。

    独我論や〈私〉を絡めるなら永井均著「ウィトゲンシュタイン入門」がお薦めです。
    一般的な解説書なら鬼界彰夫著「ウィトゲンシュタインはこう考えた」でしょうか。
    野矢茂樹氏や入不二基義氏も有名ですね。

    > 脳は必要に応じて自動的に活動する部位を発火させている、んですね。
    > 若い女性と老婆の二通りに見える絵、ってありますよね。
    > ああいうのが浮かびました。 フッサールの現象学を少しネットで調べてたら出てきて、以前もその図は見たことあって、その時は、若い女性と老婆の両方を確認できたのに、最近見たその時には、若い女性しか確認できなかったんです。。
    > 頭の中が老婆になってるからかも。(笑)

    経験や体験も一長一短ありますね。
    応用の幅は広かる反面、ものの見方が固定的というか、先入見によって限定的となり柔軟性を失ったり。

    > 人間の意識というのは果てしないというか謎ですね。

    同意です。〈私〉も含めて最も身近であるにもかかわらず最も不可思議。
    100光年先の天体より未知の領域が大かもしれませんね。

    > 信仰の始まりというのは、安心感を得たいからという理由である場合ってけっこうあるのでは、と思うんですね。
    > 委ねて安心する、ということ。 しかし、ある時、「最初から委ねていたのだ、どうしたって委ねていた、それしかなかった」がわかるのだと思うんですね。
    > 仏の家に投げ入れてたんだ(自らそうしようとしなくても既にそうだった)、ってことでもあるのかな、と。
    > このあたりはあくまで私見です。

    同意です。浄土系の教えは上記に近いですね。

    > 愚さんは、喜んでもらえることが喜び というのもあるように感じるんですね。
    > 人様の心中を想像しては失礼なのですが、動画やコメントを拝見するとそのように感じます。

    同意です。

    > ツァラトゥストラの貼っていただいた文章では、語っている人(主人公)は、太陽を讃えているのだというのはわかるのですが、自身も太陽になっちゃってるという感じなのですか?
    > 無知の解釈ですみません。 

    とんでもないです。^^
    太陽が自分に対してそうであったように、今度は自分も太陽のように人々に贈与し分与する側になろうと決心し、山籠もりを解いて人々の住むところへ下山(下る=没落と表現します)しようという意思表明だと思います。

    > それにしてもニーチェの「圧」はすごい。。

    ですね。^^

引用返信/返信 削除キー/
■6932 / inTopicNo.38)  お彼岸に想う
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 17:03:27)
    pipitさんのご家族やおじいちゃん、おばあちゃん、お母さん・・・
    みんな優しい人なんだろうな(だったんだろうな)って思います。

    私も昨日は息子と、亡き父のお墓参りしてきました。
    父はアルコール依存症ぎみで、勝気だった私はよく喧嘩してたんだけど、孫はとても可愛がってくれました。

引用返信/返信 削除キー/
■6929 / inTopicNo.39)  Re[50]: 会ったことないおじいちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/21(Mon) 16:03:38)
    たまたま、今日は、敬老の日だった。

    おじいちゃん、ありがとう。おつかれさま。きっと、会えたら、大好きだったと思うよ。
引用返信/返信 削除キー/
■6928 / inTopicNo.40)  会ったことないおじいちゃん
□投稿者/ pipit -(2020/09/21(Mon) 16:01:59)
    母の父が自殺して亡くなったそうです。
    母は4人兄弟で、母が小学校高学年の時だったと記憶してます。
    詳細は知りませんが、
    おばあちゃんは、女手一つで、子供全員高校まで卒業させて、1人は専門学校、1人は短大にも行かせてもらったそうです。

    おばあちゃん、がんばったね。

    おじいちゃんのことを責めるような言葉は、母からは、聞いた覚えがありません。
    おばあちゃんからは、おじいちゃんの話題そのものを聞いたことありません。

    理由は、人それぞれでしょう。

    何かの苦しみから、もう、逃げたかったのでしょう





引用返信/返信 削除キー/
■6922 / inTopicNo.41)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 10:32:46)
    横レスで失礼します。 書いてみたくなったのでそうしますが、返信はお気遣いなく。^^

    > 自殺した人はどうして自殺したの?、っていうことが、わたしの問題。
    > 自殺っていうの、精神が身体を殺す、っていまのところ見てます。
    > ふつう精神がおかしくなっちゃたから、っていうけど、どのようにおかしくなっちゃてるから?っていう問い。
    >
    > 身体を自分の力で動かすことができない人は自殺することはできない。
    > もともと精神に不具合がある人は自殺するのかしら?
    > いわゆるふつうの精神だった人の精神がどうにかなって自殺しちゃうんじゃないかしら?
    >
    > なんていろいろ考えてる。

    自殺したくなってしまう原因というのは様々で、一つに絞り切れはしないようには思います。
    その人の性格や精神力の強弱、人生においての経験値(世間に慣れてるか否かみたいな)が関係すると思うし、また、どういうものと出会うか(出会う人、環境)によっては、強靭な精神力の人でも死にたくなるかもしれません。

    私が思うには・・・。嫌なこと苦しいことと、楽しい嬉しいことの両方が生きてれば起きてくるけれど、苦のほうが圧倒的に楽より多いと感じてしまった時、その人は生きることが苦痛になり死を選んでしまうのかな、と。


    > 自殺することはよくないことだ。ってすると、自殺してしまった人はよくないことをしてしまった人。っていうことになる?

    そのあたりは、人によって解釈が違うのでは。


    > 自殺した人の魂がどうなるかを、神、仏はなんか言ってるのかしら。

    神、仏は直接には何も言わないけど(いるかいないかそもそもわからないし)、神仏の言葉を伝える書(聖書とか仏典)には、そのあたりをほのめかす記述があるかもですね。
    私はそのあたりあまり興味がなく知らないんだけど。


引用返信/返信 削除キー/
■6921 / inTopicNo.42)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 10:18:29)
    純理トピからパニチェさんのトピに、コピーしていただいての返信をありがとうございます。
    私も可能であれば、別のどこか(パニチェさんか私のここのトピ)で、それについては続けるとしたらそうしたほうがいいように感じましたので、ありがたく思います。
    後日また、そちらにレスさせていただきますね。
引用返信/返信 削除キー/
■6920 / inTopicNo.43)  Re[47]: 意識と無意識
□投稿者/ minori -(2020/09/21(Mon) 10:15:39)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>禅の公案も正解は一つだけに限定されているものではなく、おおよその正解らしさの方向性はありながらも、その人がナマの命としてどう表現するか、を見られるものなのかな、とか、ふと浮かびました。
    >
    > ほんとその通りだと思います。公案の目的は悟りへの誘導ですから、それを妨げるような回答は否定されますが、数学みたいに正解はひとつではないはずです。

    はい。公案、おもしろいなと思うものもありますが、難しいです。
    とはいっても真剣に取り組んだというのではなく、興味本位で考えてみたりしただけですが・・・。

    >>〈私〉を言語化しようとすると、完全には無理なのである意味、妥協したところでの表現をしているのだな、と考えると、おもしろいです。
    >
    > 同感です。言葉は便利ですが、その反面、ある意味で私たちは言葉に依存し過ぎていて振り回されているところもあるんでしょうね。

    理解力、思考力が続くうちに(今もあまりないけど  ´艸`)、ヴィトゲンシュタインの入門書をそのうち読めたらいいな、と思ったことがあります。

    >>パニチェさんは、その分野にもお詳しくいろいろと書かれていますよね。
    >>私には難しくてわからない部分が多いです。
    >>ただ、意識って脳だけに収まっているものなのだろうか、というのは考えます。
    >>パニチェさんは、意識のありかについてはどのようにお考えですか?
    >>もしよかったら簡単にでいいですので教えてください。
    >
    > 無意識も含めれば身体性全体だと思います。
    > 言葉によって器官とか臓器ってバラバラに認識されがちですが人体ってそもそも分離できない全体性、部分の寄せ集め以上の機能を有するゲシュタルト構造なんだと思います。

    はい、同意です。

    > 脳や神経系は身体全体であり、例えば私たちのような脳を持たないアメフラシのような生物にも学習能力があることは確認されています。

    はい。

    > 意識よりも無意識の方がはるかに広大で、意識と無意識も線引きできるようなものではなく、色彩のグラデーションの如く無意識から意識的活動になるのだと思います。

    ああ、なるほど。そうなんだろうな、と思います。

    > 脳科学的には以下のように説明されています。
    >
    > 『意識のもとはガンマ波だと強く主張しているは、DNAの螺旋構造を発見してノーベル賞を共同受賞した生物学者のフランシス・クリックと、同僚のクリストフ・コッホである。数多くの実験で確認されているが、被験者が意識を伴った経験を報告するとき、その脳ではかならず40ヘルツの活動が検知される。しかも40ヘルツの活動が起こる領域は、意識的なその経験に関係あると思われる領域と重なっているのだ。通常の注意状態──完全に目が覚めていて、いまどういう状況にあるかを自覚しているが、特定の何かに意識が集中しているわけではない──では、神経細胞が40ヘルツの速さで発火する領域がたくさんある。ところが、ひとつのことに注意が向くと、全体的な発火頻度は落ちて、対象に関係が深い領域だけ40ヘルツを保つ。たとえば暗闇で道に迷ったときに草むらで物音が聞こえたら、五感で情報を拾う領域だけ40ヘルツで発火するが、それ以外の場所は15〜30ヘルツと静かになる。どうやら40ヘルツという発火頻度は、脳が積極的に「使われている」状態であり、それ以外の場所はオフラインになっているらしい。そうすると、脳が40ヘルツで活動することが意識的な経験だと考えたくなる。・・・しかし当然のことながら、やはり話はそう単純ではない。・・・40ヘルツの脳波は、麻酔で眠っている人間にも確認されている。・・・麻酔をかけた患者にロビンソン・クルーソーとフライデーの物語をテープで聞かせて、脳波を調べた実験がある。すると一部の患者に40ヘルツの脳波が見られた。・・・この脳波が出た患者だけは、テープで聞いた話を「取りこんで」いることがわかった。ただし物語の意識的な記憶が意識上にあるわけではない。「フライデー」という言葉から何を連想するかと聞かれて、「ロビンソン・クルーソー」と答えていただけである。40ヘルツの脳波が記録されなかった患者からは、この名前は出てこなかった。記憶は潜在的なもので、本人はそのことを意識していないが、実際の行動には影響を及ぼした。(原書房刊 リタ・カーター著 養老孟司監修 『脳と意識の地形図』より引用)』
    >
    > ニューロンの発火がある一定範囲以上になった時に後付けで意識的な活動になるということですね。
    > 脳や身体性は敏感(可塑的)で外部刺激にすぐ反応します。

    脳は必要に応じて自動的に活動する部位を発火させている、んですね。
    若い女性と老婆の二通りに見える絵、ってありますよね。
    ああいうのが浮かびました。 フッサールの現象学を少しネットで調べてたら出てきて、以前もその図は見たことあって、その時は、若い女性と老婆の両方を確認できたのに、最近見たその時には、若い女性しか確認できなかったんです。。
    頭の中が老婆になってるからかも。(笑)

    全身麻酔下での40ヘルツの脳波と、麻酔下でも一部の人には記憶能力が発生しているという話も興味深いですね。

    人間の意識というのは果てしないというか謎ですね。

    > 言われてみれば、ほんとそうですね。
    > あと返信する際に思い浮かんだんだのですが、浄土門は難しい話(教義)を抜きにして人格神信仰に近いところもありますから、「唯我独尊」を額面通りに解釈しても信仰対象とすることに安心感は得られる言葉かもしれません。

    信仰の始まりというのは、安心感を得たいからという理由である場合ってけっこうあるのでは、と思うんですね。
    委ねて安心する、ということ。 しかし、ある時、「最初から委ねていたのだ、どうしたって委ねていた、それしかなかった」がわかるのだと思うんですね。
    仏の家に投げ入れてたんだ(自らそうしようとしなくても既にそうだった)、ってことでもあるのかな、と。
    このあたりはあくまで私見です。

    > 利他行を苦もなくこなしている人(菩薩)を見るとツァラトゥストラの次の言葉が浮かびます。
    >
    > 『そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1)』
    >
    > 溢れ出る蜜(波羅蜜で体得した佛智)を他者に与えたいという衝動にかられるのかなぁ〜。^^

    愚さんは、喜んでもらえることが喜び というのもあるように感じるんですね。
    人様の心中を想像しては失礼なのですが、動画やコメントを拝見するとそのように感じます。

    ツァラトゥストラの貼っていただいた文章では、語っている人(主人公)は、太陽を讃えているのだというのはわかるのですが、自身も太陽になっちゃってるという感じなのですか?
    無知の解釈ですみません。 それにしてもニーチェの「圧」はすごい。。


    > いやぁ〜、そんなええもんではなく、身に余り過ぎる言葉でもあり、買い被りですが、ありがとうございます。
    > 穴があったら、埋まりたい(笑)。

    ますます確信する今日この頃です。
引用返信/返信 削除キー/
■6893 / inTopicNo.44)  Re[48]: 意識と無意識
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 17:37:44)
    No6891に返信(minoriさんの記事)
    > パニチェさん、貴重なレスをありがとうございました。

    どういたしまして。

    > 難しいところもありますので、じっくりと拝見してから返信いたしますね。

    はぁ〜い。ほんと気が向かれたらの返信で結構ですよ。^^
引用返信/返信 削除キー/
■6891 / inTopicNo.45)  Re[47]: 意識と無意識
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 16:49:31)
    パニチェさん、貴重なレスをありがとうございました。
    難しいところもありますので、じっくりと拝見してから返信いたしますね。
引用返信/返信 削除キー/
■6863 / inTopicNo.46)  意識と無意識
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 09:26:56)
    2020/09/20(Sun) 09:41:10 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。
    レスありがとうございます。

    No6859に返信(minoriさんの記事)

    > 禅の公案も正解は一つだけに限定されているものではなく、おおよその正解らしさの方向性はありながらも、その人がナマの命としてどう表現するか、を見られるものなのかな、とか、ふと浮かびました。

    ほんとその通りだと思います。公案の目的は悟りへの誘導ですから、それを妨げるような回答は否定されますが、数学みたいに正解はひとつではないはずです。

    > 〈私〉を言語化しようとすると、完全には無理なのである意味、妥協したところでの表現をしているのだな、と考えると、おもしろいです。

    同感です。言葉は便利ですが、その反面、ある意味で私たちは言葉に依存し過ぎていて振り回されているところもあるんでしょうね。

    > >>縁ってすごいな、って思います。
    > >>テキストリームでの縁からニーチェクラブへ繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    > >>そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    > >>西洋と東洋の出会いなのかな、と。
    >>禿同です。私もそのように考えていますし、更にこのテーマは脳科学や認知科学とも出会います。

    > パニチェさんは、その分野にもお詳しくいろいろと書かれていますよね。
    > 私には難しくてわからない部分が多いです。
    > ただ、意識って脳だけに収まっているものなのだろうか、というのは考えます。
    > パニチェさんは、意識のありかについてはどのようにお考えですか?
    > もしよかったら簡単にでいいですので教えてください。

    無意識も含めれば身体性全体だと思います。
    言葉によって器官とか臓器ってバラバラに認識されがちですが人体ってそもそも分離できない全体性、部分の寄せ集め以上の機能を有するゲシュタルト構造なんだと思います。
    脳や神経系は身体全体であり、例えば私たちのような脳を持たないアメフラシのような生物にも学習能力があることは確認されています。
    意識よりも無意識の方がはるかに広大で、意識と無意識も線引きできるようなものではなく、色彩のグラデーションの如く無意識から意識的活動になるのだと思います。
    脳科学的には以下のように説明されています。

    『意識のもとはガンマ波だと強く主張しているは、DNAの螺旋構造を発見してノーベル賞を共同受賞した生物学者のフランシス・クリックと、同僚のクリストフ・コッホである。数多くの実験で確認されているが、被験者が意識を伴った経験を報告するとき、その脳ではかならず40ヘルツの活動が検知される。しかも40ヘルツの活動が起こる領域は、意識的なその経験に関係あると思われる領域と重なっているのだ。通常の注意状態──完全に目が覚めていて、いまどういう状況にあるかを自覚しているが、特定の何かに意識が集中しているわけではない──では、神経細胞が40ヘルツの速さで発火する領域がたくさんある。ところが、ひとつのことに注意が向くと、全体的な発火頻度は落ちて、対象に関係が深い領域だけ40ヘルツを保つ。たとえば暗闇で道に迷ったときに草むらで物音が聞こえたら、五感で情報を拾う領域だけ40ヘルツで発火するが、それ以外の場所は15〜30ヘルツと静かになる。どうやら40ヘルツという発火頻度は、脳が積極的に「使われている」状態であり、それ以外の場所はオフラインになっているらしい。そうすると、脳が40ヘルツで活動することが意識的な経験だと考えたくなる。・・・しかし当然のことながら、やはり話はそう単純ではない。・・・40ヘルツの脳波は、麻酔で眠っている人間にも確認されている。・・・麻酔をかけた患者にロビンソン・クルーソーとフライデーの物語をテープで聞かせて、脳波を調べた実験がある。すると一部の患者に40ヘルツの脳波が見られた。・・・この脳波が出た患者だけは、テープで聞いた話を「取りこんで」いることがわかった。ただし物語の意識的な記憶が意識上にあるわけではない。「フライデー」という言葉から何を連想するかと聞かれて、「ロビンソン・クルーソー」と答えていただけである。40ヘルツの脳波が記録されなかった患者からは、この名前は出てこなかった。記憶は潜在的なもので、本人はそのことを意識していないが、実際の行動には影響を及ぼした。(原書房刊 リタ・カーター著 養老孟司監修 『脳と意識の地形図』より引用)』

    ニューロンの発火がある一定範囲以上になった時に後付けで意識的な活動になるということですね。
    脳や身体性は敏感(可塑的)で外部刺激にすぐ反応します。


    No6860に返信(minoriさんの記事)

    > なるほど。 自他の分別を超えたところの「我」と「独」が「唯我独尊」であり、意味としては、「一切衆生悉有仏性」とも通じてくる、という解釈になるのですね。
    > そして、そうしたことを認識できる人間であることの尊さを表現している、と。
    > 人間の持つ善性を讃えている言葉とも言えるのかな。
    > 絶滅危惧種の暴走族の背中に書かれてそうな「唯我独尊」が、仏性を本性として生まれてきた人間賛歌を意味するというのは、すでに「一切衆生悉有仏性」なのかも、って感じてしまいました。(意味不明かもですみません。でも、ふざけているのではなく・・・伝わるといいな、という思いでいます。)

    言われてみれば、ほんとそうですね。
    あと返信する際に思い浮かんだんだのですが、浄土門は難しい話(教義)を抜きにして人格神信仰に近いところもありますから、「唯我独尊」を額面通りに解釈しても信仰対象とすることに安心感は得られる言葉かもしれません。
    中東から起こった全知全能、唯一無二の絶対的存在である神に対する信仰と同じく。。。

    > パニチェさんももちろんご存じだと思う愚さんが、現在はブログとリンクしたYouTubeで活動されてるんですね。
    > ブログのコメント欄は、特定の数名のコメントで連日すごい数です。
    > 普通、ブログにだらだらコメント入れられたら嫌だと思うんですが、愚さんは厭わずたまに返信もしてるんですよね。
    > パニチェさんが書いたくださった解説で、愚さんのブログの状況が浮かんできました。

    確かに、そうですね。講演することも、それをYouTubeで提供することも、質問に回答することも、愚さんにとってはある意味で利他行なんでしょう。
    愚さんは底が抜けているので、修行によって自身の悟りがさらに深まることで、全体性にもよい影響を与えると考えておられるところもあるようです。

    利他行を苦もなくこなしている人(菩薩)を見るとツァラトゥストラの次の言葉が浮かびます。

    『そして或る朝、彼は曙光とともに起きて、太陽の前に歩み寄り、太陽に向かって次のように語った。「おまえ、大いなる天体よ!もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、お前の幸福はどうなることであろう!十年間おまえはここへわたしの洞窟に向かって昇ってきた。わたしとわたしのワシとわたしのヘビとがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの道とに飽き果てたことであろう。だが、わたしたちは毎朝おまえを待ち、おまえからおまえの過剰を奪い取り、その代わりにおまえを祝福した。見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1)』

    溢れ出る蜜(波羅蜜で体得した佛智)を他者に与えたいという衝動にかられるのかなぁ〜。^^

    > パニチェさんは、人としての深みがすでにすごい(この語彙力のなさ、すみません。)と思うんです。
    > 率直で裏表がないのに愛があるのが文面からわかります

    いやぁ〜、そんなええもんではなく、身に余り過ぎる言葉でもあり、買い被りですが、ありがとうございます。
    穴があったら、埋まりたい(笑)。

引用返信/返信 削除キー/
■6860 / inTopicNo.47)  Re[45]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 06:31:28)

    > >>パニチェ的には〈私〉は多くの人が見落としている実相でもあるんですけどね。
    >
    >>天上天下唯我独尊がありましたね。 これ、〈私〉に近いのかもしれないと、ふと思いました。
    >>なんと、お釈迦様が〈私〉を・・・になるのかな。
    >>それともちょっと違うのでしょうか。
    >>私にはわからなくてすみません。
    >
    > いえいえ、とんでもないです。^^
    > 以下はパニチェ的な我流解釈による「天上天下唯我独尊」です。
    >
    > まずエピソードとしての「天上天下唯我独尊」は後世の創作です。
    > で、教義としての意味は仏性を自己の本性としてこの世に生まれ出た人間賛歌であると解釈しています。
    > この「唯我独尊」は自他の分別を越えたところの「我」と「独」であることから「一切衆生悉有仏性」を指し、それを認識できる人間であることの尊さを表現した言葉であるように思います。

    なるほど。 自他の分別を超えたところの「我」と「独」が「唯我独尊」であり、意味としては、「一切衆生悉有仏性」とも通じてくる、という解釈になるのですね。
    そして、そうしたことを認識できる人間であることの尊さを表現している、と。
    人間の持つ善性を讃えている言葉とも言えるのかな。
    絶滅危惧種の暴走族の背中に書かれてそうな「唯我独尊」が、仏性を本性として生まれてきた人間賛歌を意味するというのは、すでに「一切衆生悉有仏性」なのかも、って感じてしまいました。(意味不明かもですみません。でも、ふざけているのではなく・・・伝わるといいな、という思いでいます。)

    パニチェさんももちろんご存じだと思う愚さんが、現在はブログとリンクしたYouTubeで活動されてるんですね。
    ブログのコメント欄は、特定の数名のコメントで連日すごい数です。
    普通、ブログにだらだらコメント入れられたら嫌だと思うんですが、愚さんは厭わずたまに返信もしてるんですよね。
    パニチェさんが書いたくださった解説で、愚さんのブログの状況が浮かんできました。


    >>それから、禅語の「主人公」。本来の自己のことなのだそうですが、本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているといえるのではないか、と思いました。
    >>いずれにしても、無我、非我、空でいったん否定されてから蘇る東洋哲学での「私」と、もともと自我として備わる西洋哲学の「私」の違い、というのはあるのかもしれません。
    >
    > 本来の自己は真我とか無位の真人なんかもそうですね。

    はい、そうですよね。

    > 本来の自己に気づいた後の〈私〉は、さらに深くなっているかどうかは、パニチェの底が抜けてからでないと返信できないところです。
    > 分かりませぬ、すまそ。。。^^

    パニチェさんは、人としての深みがすでにすごい(この語彙力のなさ、すみません。)と思うんです。
    率直で裏表がないのに愛があるのが文面からわかります。
引用返信/返信 削除キー/
■6859 / inTopicNo.48)  Re[44]: 第五図
□投稿者/ minori -(2020/09/20(Sun) 06:00:47)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>仏教の言葉、出されている「無我」であるとかですが、おっしゃるように何が無我なのかはっきりしない(なので人により解釈もわかれる)というのはありますよね。
    >>西洋哲学の例えばカント哲学の解釈も、人によって多少違うというのはあるようですけど、それは、カントならカント研究の中での相違であって、仏教のように原始仏教と大乗仏教ではだいぶ違うというような違いとはまた別ですものね。
    >
    > 同意です。
    > 悟りの内実が言語道断とか不立文字(教外別伝)、勝義諦と表記される言語化できないものであるから尚更ですね。
    > そもそも自己自体である〈私〉が言語化できないことも関連するとは思いますが、ここのところは未だ探究中です。

    禅の公案も正解は一つだけに限定されているものではなく、おおよその正解らしさの方向性はありながらも、その人がナマの命としてどう表現するか、を見られるものなのかな、とか、ふと浮かびました。

    〈私〉を言語化しようとすると、完全には無理なのである意味、妥協したところでの表現をしているのだな、と考えると、おもしろいです。

    >>縁ってすごいな、って思います。
    >>テキストリームでの縁からニーチェクラブへと繋がり、パニチェさんに〈私〉を教えていただいて、なんとかそれを理解できるようになり・・・。
    >>そうした縁(縁起)からなる全体性から、救い上げられる〈私〉。
    >>西洋と東洋の出会いなのかな、と。
    >
    > 禿同です。私もそのように考えていますし、更にこのテーマは脳科学や認知科学とも出会います。

    パニチェさんは、その分野にもお詳しくいろいろと書かれていますよね。
    私には難しくてわからない部分が多いです。
    ただ、意識って脳だけに収まっているものなのだろうか、というのは考えます。
    パニチェさんは、意識のありかについてはどのようにお考えですか?
    もしよかったら簡単にでいいですので教えてください。

    >>〈私〉は、仏教で言うと「諸法実相」で表わされるもの、でいいのでしょうか?
    >>そうであれば、仏教でもまったく扱ってはいないわけでもないのかな、と思いました。
    >
    > ここ厳密には探究途上でペンディングです。
    > 少なくとも現段階でのパニチェにとってこれ以上の実相はないというのが〈私〉ではあるんですが、諸法実相との合一は未だ為しえておりません。

    はい。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -