(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■7154 / inTopicNo.13)  Re[61]: 十牛図
  
□投稿者/ minori -(2020/09/27(Sun) 20:20:03)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >>おそらくですが、それが本来の意識の状態なんだと思います。
    >>「私・個人」に纏わる不要ともいえる思考にまみれちゃってるので、それらに隠されているだけなのでしょう。
    >>青空と雲。 衆生本来仏なり。
    >>仏 に 手足が付くと 私 。
    >
    > 思考によって「私」が生じる。冷蔵庫の庫内灯である「私」を灯すのは思考かもしれません。

    そうですね。
    思考が記憶となり「私」(自我意識)を持つようになり、年齢を重ねるにつれ堅牢になっていくのだと思います。

    > 〈私〉は本来のあるがままの意識の状態に近いでしょうね。

    ここは、「なるほど」になります。
    〈私〉というのはそういうものでもあるのですね。

    > >>あと言葉を覚える前の幼少期の混沌とした自我に近いという話も聞いたことがありまあす。
    >
    >>こちらについては、よく分からないところもあります。
    >>大人の場合、「私」がないと明晰だと思うんですね。 クリアーということです。
    >>幼少期の子が明晰、クリアーなのだとしたら、それは言えるのでしょうけれど、確かめようがないので・・・。
    >>言語習得前の子に「私」がないのは、もちろんなのですが・・・。
    >
    > 言語を習得する主体が〈私〉であり、〈私〉は言語に先んじて存在します。

    先言ですものね。

    > 言語とは思考であり、言語によって形成されるのが無我の対象となる「私」であると今のところは考えています。

    なるほど。 言語によって形成されるのが無我の対象となる「私」。
    というようにパニチェさんは、考えられているのですね。

    無我の対象となる「私」というところの意味合いが分かりかねるのですが・・・。
     (スルーしていただいても大丈夫です。)

引用返信/返信 削除キー/
■7150 / inTopicNo.14)  Re[60]: 十牛図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/27(Sun) 18:35:04)
    こんにちはminoriさん、レスありがとうございます。

    No7147に返信(minoriさんの記事)

    >>見性体験が禅定に限らず、例えば作務の時に底が抜けたり、鐘の音でストンと落ちたりするとか言われるのは、見性と忘我が近似であるためだと思います。

    > はい。そのように思います。
    > 「私・個人」に纏わる思考がない意識の静寂に、音だけが突然現れる。
    > 「私」はいなくて、「意識」と「音」だけが一体としてそこにあります。

    > これについても、実は多くの人が体験していると思いますよ。
    > 体験している、ということにさえ気づかない体験だと思います。

    > おそらくですが、それが本来の意識の状態なんだと思います。
    > 「私・個人」に纏わる不要ともいえる思考にまみれちゃってるので、それらに隠されているだけなのでしょう。
    > 青空と雲。 衆生本来仏なり。
    > 仏 に 手足が付くと 私 。

    思考によって「私」が生じる。冷蔵庫の庫内灯である「私」を灯すのは思考かもしれません。
    〈私〉は本来のあるがままの意識の状態に近いでしょうね。

    >>あと言葉を覚える前の幼少期の混沌とした自我に近いという話も聞いたことがありまあす。

    > こちらについては、よく分からないところもあります。
    > 大人の場合、「私」がないと明晰だと思うんですね。 クリアーということです。
    > 幼少期の子が明晰、クリアーなのだとしたら、それは言えるのでしょうけれど、確かめようがないので・・・。
    > 言語習得前の子に「私」がないのは、もちろんなのですが・・・。

    言語を習得する主体が〈私〉であり、〈私〉は言語に先んじて存在します。
    言語とは思考であり、言語によって形成されるのが無我の対象となる「私」であると今のところは考えています。

引用返信/返信 削除キー/
■7149 / inTopicNo.15)  Re[57]: :分類の仕方
□投稿者/ flora -(2020/09/27(Sun) 17:08:20)
    悪魔ちゃん、こんにちは

    >主語がない言葉<
    っていうのもおもしろい。
    「主」を「私」としてない、っていうことなのかしら?

    「私」と「他人」という相対関係がないのだと思います。 世界の運動のすべては
    例えば, インディアンの神が動かしているとかそんな感じのような気がします。

    >わたしが『野生の思考』から見ようとしている別の一つを抜粋して見ますね。

    >【私は、人間学(1)(人類学)の哲学的基礎に関する若干の点について、自分がサルトルとは見解を異にすることを表明せざるをえないと考えるに至った。しかしそれは、サルトルのある著作を何度も読みかえし、1960−61学年度に高等研究で聴講者とともに多くの回数をかけてその検討おこなった末の決断である。これだけの手数をかけてでき上ったこの批判は、避け難い見解の相違を超えて、われわれ全員の賛美と尊敬の間接的表現であるとサルトルが理解してくれることを期待する。】

    >(1)の訳注には
    〔「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologieであることことに、本書ではとくに留意する必要がある。〕

    意味が分からないのですが、フランス語のanthropologieには「人間学」と「人類学」の二つの意味があるってことですか? 実際二つの意味がありますが。

    >客観的に見れば私はとっても小さな人間かもしれないけど、主観的に見れば私は私にとってとっても大きな存在。

    まさに『パンセ』ブランシュビック版の断章347ではないですか?

    「人間は自然の中で最も弱い葦に過ぎないが、それは考える葦である。全宇宙がそれを押しつぶすために武装する必要はない:蒸気、一滴の水がそれを殺すのに十分である。しかし、宇宙が彼を押しつぶすとき、人間は、彼が死ぬことを知っているので、彼を殺すものよりもさらに高貴なものになるだろうし、彼は宇宙が彼よりも優位に立つことを知っているが、宇宙はそれについて何も知らない。」

    私は個人的には、大きな存在とか小さな存在とか、どうでもいいと思っています。
    淡々と生きていくこと、それだけです。


引用返信/返信 削除キー/
■7148 / inTopicNo.16)  Re[60]: 十牛図
□投稿者/ minori -(2020/09/27(Sun) 16:36:54)
    >>仏 に 手足が付くと 私 。


    これについては、思いつきで書いてみただけです。
    根拠はありません。_(._.)_
引用返信/返信 削除キー/
■7147 / inTopicNo.17)  Re[59]: 十牛図
□投稿者/ minori -(2020/09/27(Sun) 16:26:45)
    パニチェさん、こんにちは。 レスありがとうございます。


    >>十牛図の第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)。
    >
    >>実は誰でもが、この意識にいる時というのが普通にあるのだと、あくまで私はですが思うのです。
    >
    >>いわゆる「ゾーンにいる」という時です。
    >>「私」という意識が消えていて、対象と一体化しています。
    >>私は、運転している時などそんな感じになってます。
    >>スポーツ選手がプレー中には「ゾーンにいる」のが普通だと思います。
    >
    >>純粋意識という言葉で表されたりもしますね。
    >
    >>特別なものではなく、多くの人が経験しているものだと思います。
    >
    >>「意識」というものの「ありか、存在場所」については、脳と呼ばれる部位が関係していることは、現代の科学をもとに考えれば間違いなく。
    >>(しかし、物自体の世界からすればですが、もしかしたら「脳」というものさえ、分離したものではないのかもしれませんが。)
    >>「ゾーンにいる」時というのは、その意識の中での「私、個人」に関する部分の働きが弱いがゆえに、「対象との一体化」が顕著なものに感じられるのだと思います。
    >
    >>そして、「対象との一体化」が常日頃当たり前の世界、それが十牛図の第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)なのではないかと考えます。
    >
    >>以上、私見です。


    >>「ゾーンにいる」時というのは、その意識の中での「私、個人」に関する部分の働きが弱いがゆえに、「対象との一体化」が顕著なものに感じられるのだと思います。

    私が先ほどに書いたここなのですが、「意識の中に、私・個人に関わる、流れてくる思考がほとんどない、若しくはとても少ない状態、または全くない状態が「ゾーンにいる」という方が正確な気がするのでそのように訂正します。
    つまり、意識自体はなんら変化していなく、そこに現れてくるもの流れてくるものの変化がある、ということです。

    私たちは普段、気づかないものも含め、絶えずのように思考が流れているし(、こちらについては、一種の瞑想状態で過ごすと日常でもわかります。)気づかないノイズもうごめいていると聞きます。

    > 同意します。
    > 見性体験が禅定に限らず、例えば作務の時に底が抜けたり、鐘の音でストンと落ちたりするとか言われるのは、見性と忘我が近似であるためだと思います。

    はい。そのように思います。
    「私・個人」に纏わる思考がない意識の静寂に、音だけが突然現れる。
    「私」はいなくて、「意識」と「音」だけが一体としてそこにあります。

    これについても、実は多くの人が体験していると思いますよ。
    体験している、ということにさえ気づかない体験だと思います。

    おそらくですが、それが本来の意識の状態なんだと思います。
    「私・個人」に纏わる不要ともいえる思考にまみれちゃってるので、それらに隠されているだけなのでしょう。
    青空と雲。 衆生本来仏なり。
    仏 に 手足が付くと 私 。

    > あと言葉を覚える前の幼少期の混沌とした自我に近いという話も聞いたことがありまあす。

    こちらについては、よく分からないところもあります。

    大人の場合、「私」がないと明晰だと思うんですね。 クリアーということです。
    幼少期の子が明晰、クリアーなのだとしたら、それは言えるのでしょうけれど、確かめようがないので・・・。
    言語習得前の子に「私」がないのは、もちろんなのですが・・・。

引用返信/返信 削除キー/
■7141 / inTopicNo.18)  十牛図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/27(Sun) 13:51:43)
    2020/09/27(Sun) 14:54:36 編集(投稿者)

    こんにちは、minoriさん。

    No7131に返信(minoriさんの記事)
    > 十牛図の第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)。

    > 実は誰でもが、この意識にいる時というのが普通にあるのだと、あくまで私はですが思うのです。

    > いわゆる「ゾーンにいる」という時です。
    > 「私」という意識が消えていて、対象と一体化しています。
    > 私は、運転している時などそんな感じになってます。
    > スポーツ選手がプレー中には「ゾーンにいる」のが普通だと思います。

    > 純粋意識という言葉で表されたりもしますね。

    > 特別なものではなく、多くの人が経験しているものだと思います。

    > 「意識」というものの「ありか、存在場所」については、脳と呼ばれる部位が関係していることは、現代の科学をもとに考えれば間違いなく。
    > (しかし、物自体の世界からすればですが、もしかしたら「脳」というものさえ、分離したものではないのかもしれませんが。)
    > 「ゾーンにいる」時というのは、その意識の中での「私、個人」に関する部分の働きが弱いがゆえに、「対象との一体化」が顕著なものに感じられるのだと思います。

    > そして、「対象との一体化」が常日頃当たり前の世界、それが十牛図の第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)なのではないかと考えます。

    > 以上、私見です。

    同意します。
    見性体験が禅定に限らず、例えば作務の時に底が抜けたり、鐘の音でストンと落ちたりするとか言われるのは、見性と忘我が近似であるためだと思います。
    あと言葉を覚える前の幼少期の混沌とした自我に近いという話も聞いたことがありまあす。
引用返信/返信 削除キー/
■7131 / inTopicNo.19)  無題
□投稿者/ minori -(2020/09/27(Sun) 12:14:06)
    十牛図の第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)。

    実は誰でもが、この意識にいる時というのが普通にあるのだと、あくまで私はですが思うのです。

    いわゆる「ゾーンにいる」という時です。
    「私」という意識が消えていて、対象と一体化しています。
    私は、運転している時などそんな感じになってます。
    スポーツ選手がプレー中には「ゾーンにいる」のが普通だと思います。

    純粋意識という言葉で表されたりもしますね。

    特別なものではなく、多くの人が経験しているものだと思います。

    「意識」というものの「ありか、存在場所」については、脳と呼ばれる部位が関係していることは、現代の科学をもとに考えれば間違いなく。
    (しかし、物自体の世界からすればですが、もしかしたら「脳」というものさえ、分離したものではないのかもしれませんが。)
    「ゾーンにいる」時というのは、その意識の中での「私、個人」に関する部分の働きが弱いがゆえに、「対象との一体化」が顕著なものに感じられるのだと思います。

    そして、「対象との一体化」が常日頃当たり前の世界、それが十牛図の第八図「人牛倶忘」(にんぎゅうぐぼう)なのではないかと考えます。

    以上、私見です。


引用返信/返信 削除キー/
■7109 / inTopicNo.20)  Re[56]: :分類の仕方
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/26(Sat) 20:01:26)
    フローラさまが
    >これ面白いですね<
    って思った?ところ、わたしもそう思ったよ。
    ありがと。

    >主語がない言葉<
    っていうのもおもしろい。
    「主」を「私」としてない、っていうことなのかしら?

    わたし分類するのには何かある基準があるんじゃないかって思ってる。

    「先進国」における分類の基準には、フローラさまが言うように、
    <国の経済や技術>
    が基準になってるんだと思う。
    また、
    >経済や技術の面だけで判断すれば<
    っていう基準からすればそうなのだってわたしもそう思ってる。

    わたしが知りたいのは「世界と私と、その関係性」。

    わたしが『野生の思考』から見ようとしている別の一つを抜粋して見ますね。

    【私は、人間学(1)(人類学)の哲学的基礎に関する若干の点について、自分がサルトルとは見解を異にすることを表明せざるをえないと考えるに至った。しかしそれは、サルトルのある著作を何度も読みかえし、1960−61学年度に高等研究で聴講者とともに多くの回数をかけてその検討おこなった末の決断である。これだけの手数をかけてでき上ったこの批判は、避け難い見解の相違を超えて、われわれ全員の賛美と尊敬の間接的表現であるとサルトルが理解してくれることを期待する。】

    (1)の訳注には
    〔「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologieであることことに、本書ではとくに留意する必要がある。〕


    サルトルっていうところは別にして、レヴィ=ストロースは「人類学者」って言われてるみたいだけど、彼は「人間学」(人間を見えるようにすること)について記述しようとしているっていうところにわたし興味がる。


    こんなこと思って書いてるなかでふと浮かんできた。

    客観的に見れば私はとっても小さな人間かもしれないけど、主観的に見れば私は私にとってとっても大きな存在。

    あ、話題ズレてきっや感じ。きょうはもうヤメ。



引用返信/返信 削除キー/
■7105 / inTopicNo.21)  発展途上国
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/26(Sat) 19:24:07)
    悪魔ちゃん、横レス失礼しますす。

    昔は先進国と後進国とに分けていました。ところが後進国というのは失礼ではないか?ということになり発展途上国と言うようなりました。

    昔、こういうのがありました。
    A:「トルコは先進国でしょうか?後進国でしょうか?」
    B:「後進国です」
    A:「どうして?」
    B:トルコ行進曲、なんちゃって」

    チャンチャン(^^♪
引用返信/返信 削除キー/
■7103 / inTopicNo.22)  Re[55]: :分類の仕方
□投稿者/ flora -(2020/09/26(Sat) 19:10:05)
    こんにちは

    > わたしが『野生の思考』から見ようとしているところの一つを抜粋してみますね。

    どうもありがとうございます。

    >『たとえば北アメリカ北西部のチヌーク語は、人や物の特質や属性を示すために抽象語を多用する。「この方法は、わたしの知っている他のいかなる言語よりもチヌーク語に多い」とボアーズは述べている。「悪い男が哀れな子供を殺した」がチヌーク語では「男の悪さが子供の哀れさを殺した」となる。』

    これ面白いですね、つまりその人間の悪や欠点の部分はその人に属さず、悪だけが存在するという見方ですね。そういえばどの種族か忘れましたが、主語がない言葉を話す人々がいると読んだことがあります。 

    > 「国」っていう分け方で見たとき、「発展途上国」っていう言い方・見方、あるよね。ってすると、「発展国」っていうのもあると思うんだけど。
    > 日本国はどっちになるのかしらね?

    経済や技術の面だけで判断すれば、「先進国」(Developed country)だと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■7101 / inTopicNo.23)  Re[54]: :分類の仕方
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/26(Sat) 18:50:01)
    ■7092、フローラさんへ

    わたしが『野生の思考』から見ようとしているところの一つを抜粋してみますね。

    第一章「具体の科学」

    【動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。ところが、「未開人」(3)の抽象語の豊富さはただ文明語のみの特徴でないことを証明する他の例がいろいろあることを無視してきた。たとえば北アメリカ北西部のチヌーク語は、人や物の特質や属性を示すために抽象語を多用する。「この方法は、わたしの知っている他のいかなる言語よりもチヌーク語に多い」とボアーズは述べている。「悪い男が哀れな子供を殺した」がチヌーク語では「男の悪さが子供の哀れさを殺した」となる。また、女の使っている籠が小さすぎることを述べるのに「女は、はまぐり籠の小ささの中にエゾツルキンバイの根を入れる」という。それに、どの言語においても、語彙の穴を埋めるのに必要な手段を文脈や統辞法が提供するものである。また次の例のように、逆の場合、すなわち極めて一般的な用語の方が種名にまさって用いられる場合が、おなじく野蛮人の知的貧困の証拠として利用されることを見れば、前節にあげたような言い方の偏向性は明白となる。】

    (3)の訳注には、
    〔人間について用いられたprimitifsを「未開人」、sauvagesを「野蛮人」と訳す。Sauvagesは文明人と対立的に使った古い用語であり、現在はほとんど誰も用いないないので、本書にこの語が用いられておれば、とくに断ってなくても昔の誰かの言い方を引いているのである。それに対してprimitifsは社会進化説以来sauvagesにとって代わった用語で、現在もかなり広く用いられている。ところがレヴィ=ストロースは、進化説や自民族中心主義の臭いのあるところのprimitifsも自分の用語としては用いない。したがってコンテキストから彼自身の用語ではないことがわかる場合でなければ、括弧に入れるか、「いわゆる」をつけて用いる。なおレヴィ=ストロースがよく使っているindigénes(語源的には「その土地に生まれた人」を意味する)は、サルトル邦訳を含めてふつう「土人」、「土民」、「原住民」と訳されているが、著者の考え方を考慮して、人種的偏見とコロニアリズムの臭いのするこれらの訳語を避け、若干の無理を承知の上で一般的には「現地人」とし、「原住民」の方はオーストラリアのabrigénesやアメリカ・インディアンのように、自分の住んでいた土地を奪われてしまった人々のみに用いることにした。〕


    「国」っていう分け方で見たとき、「発展途上国」っていう言い方・見方、あるよね。ってすると、「発展国」っていうのもあると思うんだけど。
    日本国はどっちになるのかしらね?


引用返信/返信 削除キー/
■7098 / inTopicNo.24)  Re[53]: :分類の仕方
□投稿者/ minori -(2020/09/26(Sat) 17:01:15)
    フローラさん、こんにちは。 レスありがとうございます。


    > >【「カシワ」、「ブナ」、「カバノキ」などが抽象語であることは、「樹木」が抽象語であるのと同じである。二つの言語があって、その一方には「樹木」という語だけしかなく、他方には「樹木」にあたる語がなくて樹木の種類や変種を指す語が何十何百とあるとしたら、いま述べた観点からすれば概念が豊富なのは前者の言語ではなくて後者の方である。】
    > って、レヴィ=ストロースは見ているみたいです。

    > 人類が自然にいかに融合して生きていくかが、ずっと人類の課題だったと思います。自分の周りの環境を理解し、利用してきたと思います。

    そうですね。工業生産されたものがない時代、人々は身近な自然の産物をうまく利用して生活していたのですね。

    > エスキモーには雪の状態を表現する言葉が20個ほどあるそうです。一方で雪がほとんどないアフリカ中部などは雪を表現する言葉がほとんど皆無だと思います。

    見かけることのないものを言語表現する必要もないですものね。

    > 植物に関しても食用/薬草、または毒草を知る必要がありました。いかにサバイバルするかが使命なのですから。日本も中国に倣い、江戸の後期までは中国の植物に関する出版物をそのまま日本に当てはめてきたようですが、実は異なるものが結構あることに気づき、日本独自の植物図譜を出版することになったという流れのようです。また同じ日本でも地域によって呼称が異なるので、こういう部分でも異名をまとめる必要があったようです。

    貿易でのつながりのあった、そして割合に近い中国の植物図鑑であれば、日本の植物と重なるところも大きいと利用されていたのだけれど、それだけでは不足してきて日本独自の植物図鑑が作られるようになった、ということですね。
    なるほどと思いました。 ありがとうございます。^^

    > 学名に関して出てきましたが、二名法になったのは18世紀です。これも小さな地域だけではなく、広域にわたり知識を共有るということだと思います。

    そうなんですね。

    > 私が思うのは、言語の観念よりもまず、そのものが周りに存在する必要があると思いますので、単に樹木の表現の数だけで特有の言語の豊富さを語るのは、無理があると思います。

    たしかに。身近に、また、少し出歩ければ見られる樹木や草花、それそのものが存在するからこそ、それを言葉で表現して共通認識としていった、という流れになりますね。

    引用は『野生の思考』という本の一部分で、悪魔ちゃんが載せてくださったのですね。
    著書はレヴィ=ストロース。
    私はその原書ではなくその解説書を少しずつ読んでいるところなのですが、今、別の本を読み始めてしまい停まっています。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -