| 悪魔ちゃん、こんにちは
>主語がない言葉< っていうのもおもしろい。 「主」を「私」としてない、っていうことなのかしら?
「私」と「他人」という相対関係がないのだと思います。 世界の運動のすべては 例えば, インディアンの神が動かしているとかそんな感じのような気がします。
>わたしが『野生の思考』から見ようとしている別の一つを抜粋して見ますね。
>【私は、人間学(1)(人類学)の哲学的基礎に関する若干の点について、自分がサルトルとは見解を異にすることを表明せざるをえないと考えるに至った。しかしそれは、サルトルのある著作を何度も読みかえし、1960−61学年度に高等研究で聴講者とともに多くの回数をかけてその検討おこなった末の決断である。これだけの手数をかけてでき上ったこの批判は、避け難い見解の相違を超えて、われわれ全員の賛美と尊敬の間接的表現であるとサルトルが理解してくれることを期待する。】
>(1)の訳注には 〔「人間学」と「人類学」がどちらもanthropologieであることことに、本書ではとくに留意する必要がある。〕
意味が分からないのですが、フランス語のanthropologieには「人間学」と「人類学」の二つの意味があるってことですか? 実際二つの意味がありますが。
>客観的に見れば私はとっても小さな人間かもしれないけど、主観的に見れば私は私にとってとっても大きな存在。
まさに『パンセ』ブランシュビック版の断章347ではないですか?
「人間は自然の中で最も弱い葦に過ぎないが、それは考える葦である。全宇宙がそれを押しつぶすために武装する必要はない:蒸気、一滴の水がそれを殺すのに十分である。しかし、宇宙が彼を押しつぶすとき、人間は、彼が死ぬことを知っているので、彼を殺すものよりもさらに高貴なものになるだろうし、彼は宇宙が彼よりも優位に立つことを知っているが、宇宙はそれについて何も知らない。」
私は個人的には、大きな存在とか小さな存在とか、どうでもいいと思っています。 淡々と生きていくこと、それだけです。
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