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■6936 / inTopicNo.61)  Re[36]: 〈仏教3.0〉を哲学すると無我
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 17:40:49)
    No6930に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、私も読みました。

    あ、そうですか。バージョンUもありますが最初に出版された方でしょうか。

    > ただ、この本は、もちろん瞑想法に基づいたことでしょうが、根幹は、「正見」の「無我」からスタートしないといけないなと思いました。
    > ここがブレると肝心のものが掴みそこなうと思いました。

    正見って八正道の最終目的という説もありますから、正見で始まり正見で終わるというのもあるんでしょうね。

    > ますます、物事が予定説や因果律の決定論的に見えてきて、「ドゥフカ」ままならないこと「苦」というものが見えた気がします。
    > 「無我」や「空」は、どちらも仏様が慈悲心で人々に示された慈悲の言葉です。
    > 囚われの自分から「青空としてのわたし」に気づくことなのだと思います。
    > 思索と実践を繰り返して見えない自分が見えてくるようなものでしょうか。
    > 「比類なき私」が既に「無我」であるとする永井さんの独特の独我論は、ある意味、大変、分かりやすいです。
    > クリスチャンでも祈りが祈りになるためには、無我のこの場所に立たないといけないかもしれませんね。

    パニチェの「比類なき先言の<私>」というのは永井均氏とは全く別個に幼い頃から探究してきたテーマで、たまたま永井氏やウィトゲンシュタインも同じテーマを探究しているということをYahoo!掲示板時代にある方から教わりました。
    そんな物好きな人が自分以外にもいるんだとビックリしましたが。。。
    上記の書籍も含めて永井均氏の著書は10冊以上読んでいますが、未だに私は探究中です。

    「〈仏教3.0〉を哲学する」関連で言うと無我と〈私〉の整合性は全くとれておらず、距離が縮まっているのか遠ざかっているのかさえ分からない状況です。
    この書籍は同意できるところと、疑義や反論したいところが半々といったところです。^^

引用返信/返信 削除キー/
■6930 / inTopicNo.62)  〈仏教3.0〉を哲学すると無我
□投稿者/ ななし -(2020/09/21(Mon) 16:28:34)
    パニチェさん、私も読みました。

    ただ、この本は、もちろん瞑想法に基づいたことでしょうが、根幹は、「正見」の「無我」からスタートしないといけないなと思いました。

    ここがブレると肝心のものが掴みそこなうと思いました。

    ますます、物事が予定説や因果律の決定論的に見えてきて、「ドゥフカ」ままならないこと「苦」というものが見えた気がします。

    「無我」や「空」は、どちらも仏様が慈悲心で人々に示された慈悲の言葉です。

    囚われの自分から「青空としてのわたし」に気づくことなのだと思います。

    思索と実践を繰り返して見えない自分が見えてくるようなものでしょうか。

    「比類なき私」が既に「無我」であるとする永井さんの独特の独我論は、ある意味、大変、分かりやすいです。

    クリスチャンでも祈りが祈りになるためには、無我のこの場所に立たないといけないかもしれませんね。





引用返信/返信 削除キー/
■6918 / inTopicNo.63)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 08:47:17)
    2020/09/21(Mon) 08:52:06 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。
    勝手ながら、こちらのトピに移動させてもらいました。もし不都合があればご指摘下さい。

    No6916に返信(minoriさんの記事)
    >>〈私〉は何も映っていないスクリーン、あるいは鏡面のようなものだと考えています。
    >>そこに何か映ればそれは「私」となります。

    > いや〜、もうびっくり、驚きです。 上記がパニチェさんがおっしゃる〈私〉であるなら、私がよく書いてる非二元の「気づき」ととても似通っています・・・。
    > 私が自トピに、おとといだったか一人でつらつらと何投稿かしたのですが、その内容を読んでいただけたなら、理解していただけるかもしれません。

    読みました!シンクロしてますね。^^

    >>何故なら伝えなければ私秘性を保ったままであっても(厳密に言えば私秘性を保つという表現は不自然ではありますが)他者もその状態がありえるからです。
    >>一方、〈私〉は他者がその状態であることはありえない、パニチェにとってはその状態というか存在様相しかありえないものであるからです。
    >>〈私〉を意識した時、冷蔵庫に灯る庫内灯のように、意識した時点(灯った時点)で少し元の〈私〉は変質してしまうような存在かもしれませんが、ここらは未だ探究中です。

    > このあたりは、パニチェさんの〈私〉と、私が言う「気づき」の違うところになるようです。
    > パニチェさんの〈私〉というのは、他者との差異が明確にあるものですよね?
    > 他者の〈私〉は、〈〈私〉〉と表現して区別されています。

    「比類なき先言の<私>」についてminoriさんが理解されているという前提で返信させてもらいますと。。。(前提が違うということであれば指摘下さい)
    区別しているというよりも、例のマッハ的光景の手前は何人も何ものも並び立たない特異な地点ですし、そこに存在する〈私〉は唯一無二の比類なき存在(存在様相も含め)ですから、他者と交じり合うところが全くありません。
    それが事実あるいは自明であるとしか言いようがないというか。。。

    > 非二元での「気づき」というのは、スクリーン、鏡を比喩としていて、その役目的意味する内容は、パニチェさんの〈私〉とその部分においては同じように感じられます。
    > しかし、違うのは。 パニチェさんの〈私〉は、個人個人違うものであること。
    > 非二元では、そもそも個人というのは存在しない(世界は分離していない)と考えるので、スクリーンは、「ただ一つ」のみ存在するということになります。

    > ここからはまったくの私見なのですが・・・。
    > 第五図の、身体は坐禅していて、頭部分は、映像が映っているテレビみたいな例の絵ですね。
    > あれは。テレビそのものは、一つしかないんだけど(スクリーンは一つしかない)、そこに映される第四図の映像は一人一人違っていて、ゆえにその映像に対しての解釈も一人一人違っているので争いや愛憎が生まれるのだけれど、実は本体はテレビであって、ただ静かに静謐な意識なのだ、そしてそういうことに気づくと、世界を観る観方も変化し、慈悲もそういうところから生まれてくる、→第六図へ。
    > という絵であるように思えるのです。

    知識としてのアドヴァイタや事事無礙として上記は理解できますが、直接経験としては合点がいかない、あるいはそこまで至っていないといったところです。

    > 山下さんは、もっと深い体験を求めてミャンマーでしたっけ、に修行に行き、普通の生活をしていては体験できないような体験をされ、それをもとに山下さんの3.0
    > を考えられたのだと思います。

    そうだと思います。

    お出かけしてきます。^^

引用返信/返信 削除キー/
■6917 / inTopicNo.64)  〈仏教1.5〉
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/21(Mon) 08:23:35)
    2020/09/21(Mon) 08:34:24 編集(投稿者)

    **** 以下、「〈仏教3.0〉を哲学する」より引用 ****

    われわれ二人が出会った安泰寺という非常に例外的な修行の場の周りに広がっていた日本の主流的な仏教のあり方を〈仏教1.0〉、われわれがアメリカやミャンマーで見た仏教、そしてここ十数年の間に日本にも定着しつつあるテーラワーダ仏教のあり方を〈仏教2.0〉、そしてどのどちらとも違う、われわれ二人が現在構想し形を与えようとしている仏教のあり方を〈仏教3.0〉と、仮に呼ぶことにしたのであった。(鼎談の前にiii)

    〈仏教1.0〉はを「医師も看護師も患者も医学を信じておらず、医療行為が行われていない病院がたくさんある」、〈仏教2.0〉は「医師も看護師も患者も医学を信じていて、一生懸命に取り組んでいる」という良道さんの比喩がわかりやすいだろう。・・略・・わたしはアメリカで、良道さんはミャンマーで、仏教が熱心に学ばれ実践されている様子を目撃するうちに、〈仏教2.0〉に重大な問題があることをそれぞれ独立に認識するようになった。それは一言でいえば、そこには日常的な自我(エゴ)が主役を演じているという問題である。(同iv)

    *************** 引用終わり ***************

    檀家制度に胡坐をかき、葬式・法事・先祖供養など、死者への儀式をビジネス化し、仏教本来の今まさに生きている人々の苦に対峙し慈悲をかけようとする活動が形骸化した仏教が〈仏教1.0〉と考えるべきかもしれない。
    仏教本来の活動をしようとしている伝統仏教は〈仏教1.5〉といったところか。

引用返信/返信 削除キー/
■6878 / inTopicNo.65)  カントの後期批判哲学
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 14:09:19)
    カントによると、感性で捉えられたものへ悟性の概念(カテゴリー)が当てはめられることによって知識が生じるとします。

    人間は、時間と空間の認識の(直観)形式と感性において捉えられたものに概念を当てはめる能力(すなわちカテゴリーを使って判断する能力)「悟性」によって事物を自分なりの仕方で知るため「物自体」は認識できないと、この発想転換は「コペルニクス的転回」と名づけられています。

    また、カントの理論のこうした特徴は「認識が対象に従うのではなく、対象が(人間の)認識に従う」と表現されます。

    人間は、自然法則に縛られているため(この辺が決定論的)観察や推論による認識というやり方では、自由意志の存在は確かめられません。

    人間の知識には無視できない限界があるのです。

    そしてカントによれば、自由意志の存在が確かめられるのは、〈知識と科学〉の自然法則を超えた〈行為と道徳〉の領域においてです。

    自然法則では、弱肉強食、本能的、動物的で損得勘定をする自己中心的だからです。

    この損得勘定の自然から自由になって初めて道徳的に生きられるのであり、神を見出せるということです。





引用返信/返信 削除キー/
■6876 / inTopicNo.66)  スルーでも結構です>ななしさん
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 13:47:16)
    ななしさんってYahoo!textream(掲示板)で投稿されてました?

    この質問にはスルーでも結構ですよ、^^
引用返信/返信 削除キー/
■6874 / inTopicNo.67)  Re[31]: 「悪人正機」
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 13:37:52)
    No6873に返信(ななしさんの記事)
    >>なるほど。
    > やはり浄土門と相通じるところがありますね。
    > ご存知だとは思いますが、浄土宗では南無阿弥陀仏と称えることによって極楽浄土に導かれることが確約されると説きます。
    >
    >>浄土真宗はさらに一歩進んで、法蔵菩薩が阿弥陀如来となったことから四十八願は全てなしえており、(称名しなくとも)万人は既に救われている。それに気付くか気付かないかだけの違いであり、自分が悪人の要素もあると手を合わせた時に救われていることに気付く(悪人正機説)という教義と類似性がありますね。
    >
    >
    > 確かに親鸞聖人の『歎異抄』には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」と、信心は、あくまで阿弥陀様から頂くものであり、己の修行で浄土へ往生するものではないことを述べています。
    >
    > しかも、「悪人正機」の思想を表す「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉は、一見しただけでは真の意味がとらえにくい言葉です。
    >
    > 「善人でさえ浄土へ往けるのだから、まして悪人はなおさらだ」という意味ですが、この言葉を表面的に解釈しようとすると、「善人」より「悪人」が浄土に往くのにふさわしい、と述べているように思われるため、倫理・道徳的な疑問が生じるはずです。
    >
    > 「悪人こそが阿弥陀仏の本願である救済の大元」ですが、阿弥陀仏とは、すべての人々をもれなく救うという誓いを立て、厳しい修行のもとに悟りを開いた仏のことで、その誓いを本願といい、「南無阿弥陀仏」とその名を呼ぶことを念仏といいます。
    >
    > そして、そこで説かれる悪人は、一般的な概念であるところの、倫理・道徳を逸脱した行為を行う人ではなく、「すべての人間の本質」を表しています。
    >
    > 煩悩にまみれ、永遠に苦しみから逃れられない人間を不憫に思い、阿弥陀仏は人々を必ず救うという本願を立てられたのであり、「悪人正機」における「悪人」とは、「人間」のことだということです。
    >
    > さらに、「善人」とは、「自力におぼれている人」、つまり阿弥陀仏に全てを頼らず、自分の力で救われようとしている人だと説明しています。このような、自らの善を誇って自分の欺瞞や邪見に気がつかず、他力をたのむ心が欠けている「善人」のことを「自力作善(じりきさぜん)」の人といって聖人は戒めています。
    >
    > つまり、「善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人はなおさらである」の真の意味とは、「他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救われないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。
    >
    > 一般的な常識で解釈しようとすると、「善人」と「悪人」の順序が逆ではないかと思われ、またそのために「悪いことをしたほうが救われる」と教えを曲解する人も現れました。
    >
    > これこそ、「後の者が先に、先の者が後に」なるような説話で人間とは、それほどに罪深い存在なのだということを言っているとも解釈できます。
    >
    > 「悪人正機」の真の意味を理解しようとするとき、私たちは親鸞聖人が暴いた人間の本質に向き合うことになるのです。

    素晴らしい!異議なし!!^^
引用返信/返信 削除キー/
■6873 / inTopicNo.68)  「悪人正機」
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 13:29:58)
    > なるほど。
    やはり浄土門と相通じるところがありますね。
    ご存知だとは思いますが、浄土宗では南無阿弥陀仏と称えることによって極楽浄土に導かれることが確約されると説きます。

    > 浄土真宗はさらに一歩進んで、法蔵菩薩が阿弥陀如来となったことから四十八願は全てなしえており、(称名しなくとも)万人は既に救われている。それに気付くか気付かないかだけの違いであり、自分が悪人の要素もあると手を合わせた時に救われていることに気付く(悪人正機説)という教義と類似性がありますね。


    確かに親鸞聖人の『歎異抄』には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」と、信心は、あくまで阿弥陀様から頂くものであり、己の修行で浄土へ往生するものではないことを述べています。

    しかも、「悪人正機」の思想を表す「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という言葉は、一見しただけでは真の意味がとらえにくい言葉です。

    「善人でさえ浄土へ往けるのだから、まして悪人はなおさらだ」という意味ですが、この言葉を表面的に解釈しようとすると、「善人」より「悪人」が浄土に往くのにふさわしい、と述べているように思われるため、倫理・道徳的な疑問が生じるはずです。

    「悪人こそが阿弥陀仏の本願である救済の大元」ですが、阿弥陀仏とは、すべての人々をもれなく救うという誓いを立て、厳しい修行のもとに悟りを開いた仏のことで、その誓いを本願といい、「南無阿弥陀仏」とその名を呼ぶことを念仏といいます。

    そして、そこで説かれる悪人は、一般的な概念であるところの、倫理・道徳を逸脱した行為を行う人ではなく、「すべての人間の本質」を表しています。

    煩悩にまみれ、永遠に苦しみから逃れられない人間を不憫に思い、阿弥陀仏は人々を必ず救うという本願を立てられたのであり、「悪人正機」における「悪人」とは、「人間」のことだということです。

    さらに、「善人」とは、「自力におぼれている人」、つまり阿弥陀仏に全てを頼らず、自分の力で救われようとしている人だと説明しています。このような、自らの善を誇って自分の欺瞞や邪見に気がつかず、他力をたのむ心が欠けている「善人」のことを「自力作善(じりきさぜん)」の人といって聖人は戒めています。

    つまり、「善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人はなおさらである」の真の意味とは、「他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救われないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。

    一般的な常識で解釈しようとすると、「善人」と「悪人」の順序が逆ではないかと思われ、またそのために「悪いことをしたほうが救われる」と教えを曲解する人も現れました。

    これこそ、「後の者が先に、先の者が後に」なるような説話で人間とは、それほどに罪深い存在なのだということを言っているとも解釈できます。

    「悪人正機」の真の意味を理解しようとするとき、私たちは親鸞聖人が暴いた人間の本質に向き合うことになるのです。





引用返信/返信 削除キー/
■6869 / inTopicNo.69)  カントの後期批判哲学
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 11:25:15)
    カントは「純粋理性批判」と「実践理性批判」の中間書籍として「人倫の形而上学の基礎づけ」を出版している。
    ここで道徳は「理性的」であり、人間が道徳的であるのは、まさに人間が理性をもった存在だからと主張しているようだ。

    では「何故、人間が理性的なのか」という問いに対してカントは論理的には説明していないように思う。
    魂の不死と神の存在が要請されるのは徳と幸福が最高善として調停される必要に迫られるから、ということになるのか。

    未だカントの後期批判は自分の中では未消化のままである。

引用返信/返信 削除キー/
■6867 / inTopicNo.70)  Re[28]: 『ぶどう園の労働者』のたとえ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/20(Sun) 10:24:41)
    おはようございます、ななしさん。
    レスありがとうございます。

    > パニチェさん、おはようございます。
    > 『ぶどう園の労働者』のたとえで、ちょっと考えてみると、
    > 朝方6時から、9時、12時、3時、5時のそれぞれの時間に雇われた人たちと比べて、私などは、午後5時に来た人どころか、それより、もっと遅い午後5時59分、つまり、賃金の支払われる一分前のギリギリに来た人間みたいなものです。
    > それでも、神様は、気の毒に思って賃金を同じように払われるのです。
    > 自分には、何ら取柄もないどころか、神の働きが何もできていないのにもかかわらずです。
    > それは、自分自身か働いた善行の報酬ではなくて、あくまで神からの一方的な贈与、プレゼントなのですから、有難い話です。
    > でも、いつ逆転劇が起きるかは分かりません。
    > なぜなら「後の者が先に、先の者が後に」なるからです。
    > 心を引き締めて行かねばならないと思います。

    なるほど。
    やはり浄土門と相通じるところがありますね。
    ご存知だとは思いますが、浄土宗では南無阿弥陀仏と称えることによって極楽浄土に導かれることが確約されると説きます。

    識字率も低く仏典に縁することもままならない、明日食べるものもないような飢餓や飢饉の状況で、庶民は苦行なんてできるはずもなく、手を合わせることぐらいしかできない、こういう時代背景もあって浄土系仏教は大衆の間で広がりました。

    浄土真宗はさらに一歩進んで、法蔵菩薩が阿弥陀如来となったことから四十八願は全てなしえており、(称名しなくとも)万人は既に救われている。それに気付くか気付かないかだけの違いであり、自分が悪人の要素もあると手を合わせた時に救われていることに気付く(悪人正機説)という教義と類似性がありますね。

    修行にとって悟りをひらく聖道門と相反するようにも思えますが、目が開いた人(覚者)からすれば、悟ろうが悟らまいが、人間のあるがままが仏性そのものであることからして、これに気付くか気付かないかの違いだけという言葉からすれば、やはり道のりや乗り物の違いであるように思います。

引用返信/返信 削除キー/
■6866 / inTopicNo.71)  Re[28]: 『ぶどう園の労働者』のたとえ
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 09:59:26)
    この例え話は、金持ちの青年がイエス様に

    「永遠の命を得るためにはどうすれば良いのですか?」と質問をし

    「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と。

    それを聞いて、お金持ちだった青年は悲しみながら立ち去って行きました。

    そして、その後にイエス様は

    「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」

    のだと仰ったのに対して、弟子たちは驚いて

    「 それでは、 だれ が 救わ れる の だろ う か」と言ったのです。

    イエス様は、「 それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。

    ここでペテロが「 わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。
    では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」とガツガツ噛みついてきたのです。

    それに対しての『ぶどう園の労働者』のたとえです。

    実は、この「後の者が先に、先の者が後に」なるとは、このペテロ自身にも向けられていたとも言えます。

    神に、祈るというか、要求する、言わばタカルことは、勝ち組と負け組が逆転することなのかもしれませんね。


引用返信/返信 削除キー/
■6864 / inTopicNo.72)  『ぶどう園の労働者』のたとえ
□投稿者/ ななし -(2020/09/20(Sun) 09:31:05)
    パニチェさん、おはようございます。

    『ぶどう園の労働者』のたとえで、ちょっと考えてみると、
    朝方6時から、9時、12時、3時、5時のそれぞれの時間に雇われた人たちと比べて、私などは、午後5時に来た人どころか、それより、もっと遅い午後5時59分、つまり、賃金の支払われる一分前のギリギリに来た人間みたいなものです。

    それでも、神様は、気の毒に思って賃金を同じように払われるのです。

    自分には、何ら取柄もないどころか、神の働きが何もできていないのにもかかわらずです。

    それは、自分自身か働いた善行の報酬ではなくて、あくまで神からの一方的な贈与、プレゼントなのですから、有難い話です。

    でも、いつ逆転劇が起きるかは分かりません。

    なぜなら「後の者が先に、先の者が後に」なるからです。

    心を引き締めて行かねばならないと思います。




引用返信/返信 削除キー/

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