(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■7197 / inTopicNo.13)  Re[50]: 自己を磨けば仏性が輝きだす。
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/29(Tue) 21:09:26)
    こんばんは、ななしさん。レスありがとうございます。

    No7183に返信(ななしさんの記事)

    > 内山先生の本の中には、さらに、
    > 「いま ここで生きている永遠」という言葉があり、
    > 「それは、もはや人類一般、自己一般というような概念の地盤に属することではありません。 むしろ それは「いきいきした自己」の地盤においてのみ見出されるべきです。」
    > そして、これを基に、人類の進歩、科学技術の発展もある。
    > 生命という地盤に事故を自覚することだとのこと。
    > あれっ、これって現象学的で実存主義的でニーチェの永劫回帰、運命愛、超人へのプロセスのような感じがしました。

    同意です。
    道元禅師の言葉を借りれば「而今:今に生きる」ですし、ニーチェの永劫回帰の教訓的な意味は「同じ生の繰り返しでも“然り”と肯定できるような生き方や決断をしろ」という意味と、哲学的な時間論としては永遠と一瞬が一如となる(一即一切、一切即一)ような時間概念でもあると思います。

    ニーチェは静養先のスイスのシルス・マリア滞在中にシルヴァプラナ湖畔を散策した際、ある種の見性体験とともに永劫回帰を受胎します。

    その時のニーチェの記述と道元禅師の「正法眼蔵 画餅」は共通するところがあります。多分、仏教的な見性にかすったんだと思います。

    No7184に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん、でも、自己を磨くことは難しいですね。
    > 超人への修行も。
    > そういう意味では、「狭き門」のようです。

    修証一等です。
    「修行と悟りは別物ではない」という言葉が励みになります。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7195 / inTopicNo.14)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/29(Tue) 20:36:22)
    レスありがとうございます。

    No7190に返信(minoriさんの記事)

    > 思索、研究して言語化する、という仕事。
    > 好きなことが仕事になる、というのは幸福かも。^^

    哲学者は分かりませんが趣味を仕事にしている人は二手に分かれるようですね。
    一方はminoriさんの言う通りですが、他方は趣味を仕事にしたため自分の好きなようにはできなくなり葛藤が生まれるみたいです。

    > たしかに、若気の至り では、ニーチェにもイエスに対する言葉としては、安すぎて失礼ですね。('◇')ゞ
    > 純粋・・そうですね、いろいろと許せないという思いや、不遇な人々への愛、神への純粋な愛、そうしたものを合理的な形で表現することが、もっと長生きしてたらあるいはできたのかもしれない、そんなふうにニーチェは考えていたのかな、と改めて想像しました。

    同意です。
    イエスとは異なり、パウロや原罪を持ち込んだアウグスティヌス、教会には手厳しいアフォリズムが残ってます。

    『彼(パウロ)は、異教の世界の大きな欲求を理解しており、キリストの生と死の事実からまったく勝手気ままな選りごのみをして、すべてのものをあらためて強調しなおし、いたるところで重点をおきかえた・・・彼は原始キリスト教を無効にしてしまったのである・・・僧侶や神学者を暗殺するたくらみが、こうしたパウロのおかげで、一つの新しい僧侶階級や神学をうむことで終わった──ひとつの支配階級を、一つの教会をも。(力への意志 第167番)』

    『陰にこもった復讐欲が、卑小な嫉妬が主となったのである!すべての憐れむべきもの、おのれ自身で苦しむもの、劣悪な感情に悩まされるものが、魂のユダヤ人街的全世界が一挙に上位をしめてしまったのである!──なんたる汚らわしい徒輩がこれらで上位をしめてしまったのかをとらえるためには、嗅ぎだすためには、キリスト教の煽動者のうちの誰かを、たとえば聖アスグスティヌスを読みさえすればよい。キリスト教運動の指導者たちには悟性になんらかの欠陥があったのだと前提するなら、まるまる詐欺にかかっていると言うべきであろう(アンチクリスト第59番)』

    『──教会こそ、イエスがそれに反対して説教し──またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである──(力への意志 第168番)』

引用返信/返信 削除キー/
■7190 / inTopicNo.15)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/29(Tue) 08:11:49)
    パニチェさん、ありがとうございます。

    > やっぱ哲学も他の職業と同じように哲学者にとっては仕事なんでしょうね。
    > でも、まぁ人生を通しての大仕事だとは思いますが。。。。

    思索、研究して言語化する、という仕事。
    好きなことが仕事になる、というのは幸福かも。^^

    >>イエスの行動が若気の至りみたいに、ニーチェには感じられた部分もあったのかな、とminori的想像をしてみました。
    >
    > 若気の至りというか純粋過ぎたのではないか、もっと多様な価値を創出できたのではないか、みたいなところだと勝手に想像してます。^^

    たしかに、若気の至り では、ニーチェにもイエスに対する言葉としては、安すぎて失礼ですね。('◇')ゞ

    純粋・・そうですね、いろいろと許せないという思いや、不遇な人々への愛、神への純粋な愛、そうしたものを合理的な形で表現することが、もっと長生きしてたらあるいはできたのかもしれない、そんなふうにニーチェは考えていたのかな、と改めて想像しました。

引用返信/返信 削除キー/
■7184 / inTopicNo.16)  自己を磨けば仏性が輝きだす。
□投稿者/ ななし -(2020/09/28(Mon) 21:35:13)
    パニチェさん、でも、自己を磨くことは難しいですね。

    超人への修行も。

    そういう意味では、「狭き門」のようです。


引用返信/返信 削除キー/
■7183 / inTopicNo.17)  Re[48]: パニチェさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/09/28(Mon) 21:30:44)
    内山先生の本の中には、さらに、

    「いま ここで生きている永遠」という言葉があり、

    「それは、もはや人類一般、自己一般というような概念の地盤に属することではありません。 むしろ それは「いきいきした自己」の地盤においてのみ見出されるべきです。」

    そして、これを基に、人類の進歩、科学技術の発展もある。

    生命という地盤に事故を自覚することだとのこと。

    あれっ、これって現象学的で実存主義的でニーチェの永劫回帰、運命愛、超人へのプロセスのような感じがしました。






引用返信/返信 削除キー/
■7179 / inTopicNo.18)  minoriさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/28(Mon) 20:08:52)
    No7166に返信(minoriさんの記事)

    > ニーチェの素顔についてのエピソードを教えていただいてありがとうございます。

    どういたしまして。

    > 気さくに人に接して、人からも愛される人だったのですね。
    > 偉大な有名人の素顔を知る、というのは楽しいです。^^

    やっぱ哲学も他の職業と同じように哲学者にとっては仕事なんでしょうね。
    でも、まぁ人生を通しての大仕事だとは思いますが。。。。

    > パニチェさんのお部屋に「好奇心は子どもだけの特権ではない」とあり。
    > そうそう^^、と思ったところです。
    > 余談ですが、先日録画しといた古墳についての番組を観ておもしろく感じたところです。
    > 子どもの頃、古代史が好きで図鑑を何度も見てました。

    いいですねぇ〜。そそ、好奇心を失くしたら老け込むだけです(笑)。

    > ありがとうございます。
    > 一部分を引用させていただきます。

    > 『彼──ヘブライ人イエスは、まだヘブライ人の涙と憂愁、ならびに善にして義なる者たちの憎しみしか知らなかった。そこで死への憧憬が彼を襲ったのだ。彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかっていたなら!おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを学んだであろう──さらには、笑うことも!わたしの言うことを信ぜよ、わたしたちの兄弟たちよ!彼はあまりに早く死んだのだ。もし彼がわたしの年齢まで生き延びていたなら、彼は自らの教えを撤回したことであろうに!彼はそういう撤回をなしうるほど高貴であったのだ!だが彼はまた成熟するところまではいかなかった。(ツァラトゥストラ 自由な死について)』

    > ニーチェは、イエスが早くに亡くなったことを残念に思っていますね。

    > 別の文章には、
    > ゆるやかな死を説教する者たちがあがめるあのヘブライ人は、あまりにも早く死んだ。
    > そのことが多数の者たちにとっても悲運となった。

    > とありました。

    > イエスの行動が若気の至りみたいに、ニーチェには感じられた部分もあったのかな、とminori的想像をしてみました。

    若気の至りというか純粋過ぎたのではないか、もっと多様な価値を創出できたのではないか、みたいなところだと勝手に想像してます。^^

引用返信/返信 削除キー/
■7175 / inTopicNo.19)  Re[53]: 自灯明と法灯明
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/28(Mon) 19:53:31)
    こんばんは、ななしさん。

    No7159に返信(ななしさんの記事)
    > 〈仏教3.0〉を哲学する バージョンIIを読んでから内山興正 (著)「進みと安らい: 自己の世界」を読んでいます。

    ななしさんも読書家ですね。^^

    > その中に、自灯明と法灯明について、山田竜城先生の『大乗仏教成立論 序説』を引用し「この場合、『自に帰依すべし』という言葉は、『法に帰依する』ことによって裏づけられて いる。それはすなわち『法通りの自』『法においてある自』の意味でなければならない。
    > つまり『法の自覚された自』であり、『法を自覚し得べき自』である」と。
    > 自分と同じ見解が記載されていたのです。
    > 社会や世界と切り離された自分がいるわけではなくて、そうした世界の中の自分、
    > 法の中の自分が、まるで部分集合の要素のように「法を自覚する自」であるということ。
    > そして、「法」とは、・・・「あらゆるもの、一切」という意味があります。それでこの「あらゆるもの、一切」と「われ」とが「一体」 になった【梵我一如】のところの生命を生きる教えこそが、「仏法」なのだと。

    そうでしょうね。自己を磨けば仏性が輝きだす。
    仏性が法イコール自ですね。

    > ここで、私は、やはり、法が二重予定説の因果律で確率的決定論だとすれば、そうした、ままならないドゥフカ(苦)という大きな集合の中で自ら、その要素として「正見」し、諦めることが修行なのかなと思いました。

    ご存知だとは思いますが仏教用語の「諦める」は四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)での用法と同じく「あきらかに見究める」ってことですね。
引用返信/返信 削除キー/
■7166 / inTopicNo.20)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/28(Mon) 07:46:19)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    ニーチェの素顔についてのエピソードを教えていただいてありがとうございます。
    気さくに人に接して、人からも愛される人だったのですね。
    偉大な有名人の素顔を知る、というのは楽しいです。^^

    パニチェさんのお部屋に「好奇心は子どもだけの特権ではない」とあり。
    そうそう^^、と思ったところです。
    余談ですが、先日録画しといた古墳についての番組を観ておもしろく感じたところです。
    子どもの頃、古代史が好きで図鑑を何度も見てました。


    >>ニーチェは、イエスキリストについては好ましく思ってた、という話をどこかで聞いた気がするのです。
    >>そのあたりはいかがですか? イエスについても否定的だったのでしょうか。
    >
    > ニーチェの批判の矛先はキリスト教会とそのドグマです。
    > イエス個人については未熟であったという評価もしていますが、ほぼ好意的なアフォリズムが残っています。
    > 詳しくは「Panietzsche Room>ニーチェT>第二章アンチクリスト>1.キリスト表(1)&(2)」にまとめてあります。
    > もし興味がありましたらどうぞ。

    ありがとうございます。
    一部分を引用させていただきます。

    『彼──ヘブライ人イエスは、まだヘブライ人の涙と憂愁、ならびに善にして義なる者たちの憎しみしか知らなかった。そこで死への憧憬が彼を襲ったのだ。彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかっていたなら!おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを学んだであろう──さらには、笑うことも!わたしの言うことを信ぜよ、わたしたちの兄弟たちよ!彼はあまりに早く死んだのだ。もし彼がわたしの年齢まで生き延びていたなら、彼は自らの教えを撤回したことであろうに!彼はそういう撤回をなしうるほど高貴であったのだ!だが彼はまた成熟するところまではいかなかった。(ツァラトゥストラ 自由な死について)』

    ニーチェは、イエスが早くに亡くなったことを残念に思っていますね。

    別の文章には、

    ゆるやかな死を説教する者たちがあがめるあのヘブライ人は、あまりにも早く死んだ。
    そのことが多数の者たちにとっても悲運となった。

    とありました。

    イエスの行動が若気の至りみたいに、ニーチェには感じられた部分もあったのかな、とminori的想像をしてみました。
引用返信/返信 削除キー/
■7159 / inTopicNo.21)  自灯明と法灯明
□投稿者/ ななし -(2020/09/27(Sun) 21:05:10)
    パニチェさん、こんばんは。

    〈仏教3.0〉を哲学する バージョンIIを読んでから内山興正 (著)「進みと安らい: 自己の世界」を読んでいます。

    その中に、自灯明と法灯明について、山田竜城先生の『大乗仏教成立論 序説』を引用し「この場合、『自に帰依すべし』という言葉は、『法に帰依する』ことによって裏づけられて いる。それはすなわち『法通りの自』『法においてある自』の意味でなければならない。
    つまり『法の自覚された自』であり、『法を自覚し得べき自』である」と。
    自分と同じ見解が記載されていたのです。

    社会や世界と切り離された自分がいるわけではなくて、そうした世界の中の自分、
    法の中の自分が、まるで部分集合の要素のように「法を自覚する自」であるということ。

    そして、「法」とは、・・・「あらゆるもの、一切」という意味があります。それでこの「あらゆるもの、一切」と「われ」とが「一体」 になった【梵我一如】のところの生命を生きる教えこそが、「仏法」なのだと。

    ここで、私は、やはり、法が二重予定説の因果律で確率的決定論だとすれば、そうした、ままならないドゥフカ(苦)という大きな集合の中で自ら、その要素として「正見」し、諦めることが修行なのかなと思いました。






引用返信/返信 削除キー/
■7142 / inTopicNo.22)  Re[52]: 第五図
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/27(Sun) 14:04:35)
    こんにちは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No7132に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 「哲学する仏教」サンガ の276pです。春秋社の2冊とは別にサンガから出た方です。さすがに3冊買って読むことは誰にもおすすめできないので、読む人はいないだろうとページ数を記しませんでした(笑)。ただし引用文の前後は非常に興味深い内容なので、打ち込んでみなさんに紹介しようかという気持ちもあります。

    ありがとうございます。そうなんですね。
    しっかしknowing itselfさんもよく本を読んでおられまあすねぇ〜。^^

    No7134に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 第五図は十牛図だと、第八図だと思います。第九と第十図が内山図だと第六図でしょう。
    > 第五図を現実に展開していくのが第六図。

    なるほど。たーぼーさんと同じ見解ですね。
    この状態での主体の問題はたーぼーさんとのレス交換を引き続きロムさせてもらいます。


引用返信/返信 削除キー/
■7138 / inTopicNo.23)  Re[51]: たーぼーさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/27(Sun) 13:46:34)
    No7128に返信(たーぼーさんの記事)

    > ありがとうございます。
    > 今のところは自分で何か特別にトピを立てたいこともないです。
    > また何かトピを立てたくなれば、その時お願いします。

    了解しました。気が向かれましたら、いつでもどうぞ。

    > だからここが難しいところなんですよ。
    > 普通は認識するためには主体と客体が必要ですよね。
    > あっちとこっちがなければ認識出来ないのが普通です。
    > でも第五図のとこでは一隻眼なんですよ。
    > 自他の分別なくぶっ続きで見てるんです。
    > でもその事を何で私が知ってるのかという疑問があるわけ(笑)
    > ですから本当は認識する主体はあって、今の私と同じ主体なんだけど、そうは思えないっていうのが正確な言い方だと思います。
    > それがknowing itselfさんが書いてくれた↓だと思います。

    > ただ、その忘我の中でも働いていた主体と日常に戻ってきたときの主体がまったく同じ主体だという、そういう意味もあると思っています。普通人が日常で生きるときは自我の殻で覆われていて、瞑想の時の深い体験とは別の主体としか思えないものですが、実は同じ主体なんだと

    > ですからこれも同じで三昧でも認識する主体はあるんだけど、それが今の私とは別の主体に思えてしまうということです。
    > だって慈悲があるって私が自分で書いているんですから、私は知ってるわけです(笑)

    夢を見ている時には明晰夢でない限りは、ただ見ている(あるいは見せられている)だけになります。
    目覚めた後に(覚えていれば)夢を見ていた状態だったことが分かるわけで、このことから何が言えるのかに似ています。
    夢を見ている主体がなければ覚えようがないわけで、確かに夢を見ていたのは他の誰でもない私だから主体があったことになる。
    でも目覚めた時の主体とは明らかに違う、むしろminoriさんがレスしているような「ゾーンに入る」状態、あるいは何かに集中して忘我(対象と一体)に近いかもしれません。
    そういう意味では夢を見ている状態は主客もなく夢と我が一体になっていると言えなくもないのかな、と考えてみました。

引用返信/返信 削除キー/
■7134 / inTopicNo.24)  第五図
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/27(Sun) 12:55:18)
    こんにちは

    第五図は十牛図だと、第八図だと思います。第九と第十図が内山図だと第六図でしょう。
    第五図を現実に展開していくのが第六図。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -