| ☆妹君ちゃんが言われるように、私も「古池や〜」の静寂は、写生句ではなく、人工的な、シンボリックな創造句だと思っています。(ここも具体例が要望でしたら補足します。)
☆ (具体例) ジョン・ケージという音楽家がいました。
彼は「無響室」に入った経験があり、その中に於いても、神経の働く音と血液が流れる音が聞こえたと言いました。(何故か、呼吸音と心臓の鼓動音については言いませんでした。
その経験を持って、ある実験的な演奏会を開きます。
これは、全世界を震撼させた「4分33秒」のことです。
まぁ、一言で言えば、演奏会でありながら、全く演奏しなかったのですね。
ジョン・ケージはそこで、聴衆の息遣い、ざわめき等を聞き、世界に無音は無いのだという「無響室」での体験を再確認します。
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エフ哥哥、おはようございます♪
なに?なに?「神経の働く音」って。
なんかすごいなぁ。
・・・あ。いけない。話が横横しちゃう。
>私も「古池や〜」の静寂は、写生句ではなく、人工的な、シンボリックな創造句だと思っています。
説明、ありがとうございました。 納得です。
ただ、「古池や〜」の句で「静寂」を芭蕉さんは提示していないというか、 言っていないと思うのですが、 なぜ、その句を聞いた人たちは「静寂」という概念を自分の中から引き出してくるのか? そこが「人工的な、シンボリックな創造句」と哥哥が言われるところかも知れないなと。
ここで私が思うことは二つありまして、 (自分でも面倒くさいな、と思うのですが) 「人が聞く、聴く」とはどのようなことであるか? 「シンボル」とはなんであるのか?
「人が(音、話を)聞く、聴く」については私たちは日常の中で意図せず音を選択して聞いている。 (雑踏の中で自分を呼ぶ知人の声を聞き分ける。) 意図せずといったけれども、意図している、意図していることを気が付かないだけかなと。 ということは、選択しない音も無数にあるのだろうなと。 「聞く・聴く」ということがとても意識的な行為であるならば、「静寂」を聞くこともあるのだろうなと。
「シンボル」については、よくわからないであります。 どうも、わからない。 「エンブレム」ならわかるのだけれど。
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