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■6313 / inTopicNo.73)  ちゃぶ台
  
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/07(Mon) 20:57:18)
    2020/09/07(Mon) 21:12:33 編集(投稿者)

    私、ちゃぶ台返し、したことあります。

    高尚な芭蕉談義をディスターブしてしまいますた。m(_ _)m

    【古池や】
    現代の無機質な騒音に満ち溢れた世界を芭蕉は経験していないかもしれませんが、それでも芭蕉が経験したであろう騒々しい世界に比べ、「静かでいいなあ」とほっとしている芭蕉が目に浮かんできます。

    芭蕉は三重県出身で伊賀と柘植に生家が二つあります。松尾家は芭蕉が生まれた頃に柘植から伊賀へ引っ越ていて、芭蕉がどちらで生まれたかがはっきりしていないということのようです。
引用返信/返信 削除キー/
■6309 / inTopicNo.74)  Re[6]: しかし何だべな。
□投稿者/ flora -(2020/09/07(Mon) 20:38:16)
    No6306に返信(田秋さんの記事)
    > 横レス、すつれいしまぷ。
    >
    > >フローラさんは凄い読書量ですね。
    > 読書がちゃんと血肉になり、教養が物凄い方です。多分行動力もかなりのものと推測しています。
    >
    > 今日、用がない私とは大違いです。

    田秋所長! 冗談はやめてちゃぶ台。 それよりネットで漢検見てみましたが、何あれ、もう何もわからない!!当方 漢字力ゼロ、読解力 10/100 (誤読が多い)

引用返信/返信 削除キー/
■6306 / inTopicNo.75)  Re[5]: しかし何だべな。
□投稿者/ 田秋 -(2020/09/07(Mon) 20:29:42)
    横レス、すつれいしまぷ。

    >フローラさんは凄い読書量ですね。
    読書がちゃんと血肉になり、教養が物凄い方です。多分行動力もかなりのものと推測しています。

    今日、用がない私とは大違いです。


引用返信/返信 削除キー/
■6299 / inTopicNo.76)  Re[12]: 古池や
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/07(Mon) 19:46:23)
    こんばんは、フローラさん。レスありがとうございます。

    No6290に返信(floraさんの記事)

    >>私は詠み手は全く眼中になく、この句だけをフォーカスしてしまいます。

    > 私のパニチェさんの解釈と同じです。芭蕉は禅僧でもありましたから、読み手と読む対象という二極ではなく、あくまでも全体としての起こったことの描写だけだと思います。

    芭蕉って禅僧だったんですね。知りませんでした。
    多分、悟ってますね、芭蕉は。

    > クリシュナムルティの『生と覚醒のコメンタリー』というのがありますよね。 斜め5段飛びくらいでしか読んでいないのですが(大汗:)、この方の描写にも、「個人の私」が感じられません。
    > ただ単に淡々とした描写で、読みながら心が洗われる感じがしました。

    フローラさんは凄い読書量ですね。
    私はクリシュナムルティはD・ボームとの対話集「生の全体性」と愚さんが訳した「時間の終焉」しか読んでません。^^:
    確かに淡々とした描写ですね。

引用返信/返信 削除キー/
■6290 / inTopicNo.77)  Re[11]: 古池や
□投稿者/ flora -(2020/09/07(Mon) 17:16:26)
    2020/09/07(Mon) 17:17:11 編集(投稿者)

    パニチェさん、つばめさん、こんにちは。
    横失礼いたします。

    > 私は詠み手は全く眼中になく、この句だけをフォーカスしてしまいます。

    私のパニチェさんの解釈と同じです。芭蕉は禅僧でもありましたから、読み手と読む対象という二極ではなく、あくまでも全体としての起こったことの描写だけだと思います。

    クリシュナムルティの『生と覚醒のコメンタリー』というのがありますよね。 斜め5段飛びくらいでしか読んでいないのですが(大汗:)、この方の描写にも、「個人の私」が感じられません。
    ただ単に淡々とした描写で、読みながら心が洗われる感じがしました。

    > 何れにしても、いろんな解釈ができますね。

    それはそうですね!

引用返信/返信 削除キー/
■6244 / inTopicNo.78)  Re[10]: 古池や
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/06(Sun) 18:50:00)
    No6243に返信(つばめさんの記事)

    > いや〜〜〜ですね。
    > 確かに「古池」はやはり長い時間とか永遠を象徴しているような気もするのですが
    > と同時に実は考えすぎ、深読みのし過ぎじゃなかろうか?みたいな考えが過ることありまして・・
    > 何とも言えないのであります。
    > (得意の宙ぶらりん状態ですね。)

    なるほど。いい意味でのペンディングとかニュートラルですね。^^

    > 誤解があるかも、と思います。
    > 私はこの句静かだなと思うのですがそれを「静寂」と名付けたくないというか・・
    > だって、提示されているものは蛙が飛び込む水の音、だけです。
    > 蛙が水に飛び込んじゃったらあとはもう何もないじゃないですかぁ。
    > つまり、なにも連想することはできない。
    > ・・・わけです。
    > 句がそんなつくりになているんだろうなと。

    それはその通りですね。

    > 憧れている、というのは・・・句を読んだ人が自分の憧れている世界を句に見出そうとする、ような感じをいいました。

    詠み手が情景に理想的な世界を投影しているということですね。

    > パニチェさんは

    >>観るものと、観られるものが一体化(一如)となる。

    > と言われましたが、

    > 見るものは自分の目を通してしかものを見ることができないから、
    > 自分が見るものは自分である(見られるものと同じ)と思います。

    > ええと。
    > 自分が見るものは自分であるし、
    > 自分が聞くものは自分である。
    > そして「自分である」ということには、自分の欲望も入っている。
    > つまり、見たいものを見、聞きたいものを聞く。

    > ・・・「静寂」に憧れる精神があって「静寂」を聞く・・・みたいな。

    それはつばめさんではなく、詠み手がということですね?
    私は詠み手は全く眼中になく、この句だけをフォーカスしてしまいます。

    何れにしても、いろんな解釈ができますね。
    返信ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■6243 / inTopicNo.79)  Re[9]: 古池や
□投稿者/ つばめ -(2020/09/06(Sun) 18:19:43)

    >>私は以前は「古池や」の古池に毛越寺の池を連想したことありました。
    >>しかしだんだんその考えを離れて今は皆目わからなくなっております。(;'∀')
    >
    > なるほど。^^
    > 古池はやはり長い時間とか永遠を象徴しているような気がしますね。

    いや〜〜〜ですね。
    確かに「古池」はやはり長い時間とか永遠を象徴しているような気もするのですが
    と同時に実は考えすぎ、深読みのし過ぎじゃなかろうか?みたいな考えが過ることありまして・・
    何とも言えないのであります。
    (得意の宙ぶらりん状態ですね。)


    >>その後、静寂がやってくる。
    >>その「静寂」がまた、人工的、観念的で何とも言えないんですよ。
    >
    > それってひょっとしたらアドヴァイタの入口かもしれませんよ。
    > 能観の体(観る自分)と所観の境(観られる自分)が合体して消滅し静寂が訪れる。
    > 観念的と思えるのは自己と世界が同化してるとか。。。。


    誤解があるかも、と思います。
    私はこの句静かだなと思うのですがそれを「静寂」と名付けたくないというか・・
    だって、提示されているものは蛙が飛び込む水の音、だけです。
    蛙が水に飛び込んじゃったらあとはもう何もないじゃないですかぁ。
    つまり、なにも連想することはできない。
    ・・・わけです。

    句がそんなつくりになているんだろうなと。


    >>・・・うまく言えないのですが、
    >>・・・憧れているのだろうな、と。
    >
    > 深い句ですね。^^

    憧れている、というのは・・・句を読んだ人が自分の憧れている世界を句に見出そうとする、ような感じをいいました。

    パニチェさんは

    > 観るものと、観られるものが一体化(一如)となる。

    と言われましたが、

    見るものは自分の目を通してしかものを見ることができないから、
    自分が見るものは自分である(見られるものと同じ)と思います。

    ええと。
    自分が見るものは自分であるし、
    自分が聞くものは自分である。
    そして「自分である」ということには、自分の欲望も入っている。
    つまり、見たいものを見、聞きたいものを聞く。

    ・・・「静寂」に憧れる精神があって「静寂」を聞く・・・みたいな。


引用返信/返信 削除キー/
■6238 / inTopicNo.80)  Re[8]: 古池や
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/06(Sun) 16:20:33)
    こんにちは、つばめさん。レスありがとうございます。

    No6236に返信(つばめさんの記事)

    > パニチェさん。こんにちは♪

    >>音と場面が一体化(一如)となる。

    > 「音」は「ぽちゃん」とか「ぽちゃ」とか「ぼちゃん」かなぁ。
    > さすがに「ドボン」はいないっすよね〜。(笑)

    ドボンは私が池に落ちた時の音ですね(笑)
    個人的には「ぽちょん♪」かなぁ〜。

    > 「場面」ですが、写真ありがとうございました。素敵な場所ですね。

    ありがとうございます。
    ここを通った時に「あ、古池やの句みたいな池やん!」と思い撮りました。

    > 私は以前は「古池や」の古池に毛越寺の池を連想したことありました。
    > しかしだんだんその考えを離れて今は皆目わからなくなっております。(;'∀')

    なるほど。^^
    古池はやはり長い時間とか永遠を象徴しているような気がしますね。

    > 結論から言ってしまうと私には「音」(ぽちゃん)しか聞こえません。
    > 強いて思い浮かべれば揺れている水面ぐらいです。
    > もっと強いて何か思い浮かべようとするとかすかに水の中を泳いでいく蛙かなぁ。

    > だからパニチェさんが言われるように私も

    >>どういうわけかこの句は古池を観ている自分とか、蛙が飛び込む水の音を聞いている自分の存在がよい意味で感じられず、

    > なわけで、

    > >ただ音と場面だけが静寂と永遠の時間の一瞬(而今)として浮かび上がる。

    > わけです。

    なるほど、浮かび上がるものは違っても、能観の体(観る自分)の存在は薄いということですね。

    > ただ、わたし的にはこの句はダイレクトに私たちに自分の音(ぽちゃん)を聞かせる、
    > と同時に音を聞いている自分を観察する自分の中の観察者の存在も浮かび上がらせる。
    > そんな句と思っています。

    つばめさんは音とともに能観の体(観る自分)と所観の境(観られる自分)が浮かび上がるということですね。

    > その後、静寂がやってくる。
    > その「静寂」がまた、人工的、観念的で何とも言えないんですよ。

    それってひょっとしたらアドヴァイタの入口かもしれませんよ。
    能観の体(観る自分)と所観の境(観られる自分)が合体して消滅し静寂が訪れる。
    観念的と思えるのは自己と世界が同化してるとか。。。。

    > ・・・うまく言えないのですが、
    > ・・・憧れているのだろうな、と。

    深い句ですね。^^
引用返信/返信 削除キー/
■6236 / inTopicNo.81)  Re[7]: 古池や
□投稿者/ つばめ -(2020/09/06(Sun) 15:58:44)
    No6223に返信(パニチェさんの記事)
    > 2020/09/06(Sun) 11:45:31 編集(投稿者)
    >
    > 横レス失礼します。
    >
    > 以下は自分勝手なこの句の印象を書かせてもらいます。
    >
    > 音と場面が一体化(一如)となる。
    >
    > 観るものと、観られるものが一体化(一如)となる。
    >
    > どういうわけかこの句は古池を観ている自分とか、蛙が飛び込む水の音を聞いている自分の存在がよい意味で感じられず、ただ音と場面だけが静寂と永遠の時間の一瞬(而今)として浮かび上がる。
    >
    > これが悟りの世界なのかな、と思わせるところがあります。
    >
    > PS.写真は私の住む街の山手にある池で、この句に合う場面だと思って以前散策中に撮りました。


    ************

    パニチェさん。こんにちは♪

    > 音と場面が一体化(一如)となる。

    「音」は「ぽちゃん」とか「ぽちゃ」とか「ぼちゃん」かなぁ。
    さすがに「ドボン」はいないっすよね〜。(笑)

    「場面」ですが、写真ありがとうございました。素敵な場所ですね。
    私は以前は「古池や」の古池に毛越寺の池を連想したことありました。
    しかしだんだんその考えを離れて今は皆目わからなくなっております。(;'∀')

    結論から言ってしまうと私には「音」(ぽちゃん)しか聞こえません。
    強いて思い浮かべれば揺れている水面ぐらいです。
    もっと強いて何か思い浮かべようとするとかすかに水の中を泳いでいく蛙かなぁ。

    だからパニチェさんが言われるように私も

    > どういうわけかこの句は古池を観ている自分とか、蛙が飛び込む水の音を聞いている自分の存在がよい意味で感じられず、

    なわけで、

    >ただ音と場面だけが静寂と永遠の時間の一瞬(而今)として浮かび上がる。

    わけです。

    ただ、わたし的にはこの句はダイレクトに私たちに自分の音(ぽちゃん)を聞かせる、
    と同時に音を聞いている自分を観察する自分の中の観察者の存在も浮かび上がらせる。
    そんな句と思っています。

    その後、静寂がやってくる。
    その「静寂」がまた、人工的、観念的で何とも言えないんですよ。

    ・・・うまく言えないのですが、
    ・・・憧れているのだろうな、と。


引用返信/返信 削除キー/
■6227 / inTopicNo.82)  Re[8]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/06(Sun) 11:48:34)
    No6060に返信(エフニさんの記事)
    > >夢から醒めずに けして醒めずに 生きていけたら なんて素敵なんだろう<
    >
    > 映画「マトリックス」の世界ですね。
    >
    > あるいは、以前二人で鑑賞会をした、スペイン映画「オープン・ユア・アイズ」のハリウッドリメイク版、トム・クルーズ主演の「バニラ・スカイ」の世界ですね。
    >
    > デリダという哲学者は、「私達は、醒めることを禁じられている夢を見ている。」と言いました。
    >
    > 独我論というのですが、哥哥はこういう事を考えるのが大好きです�
    >
    > >私が日本語に不自由しているだけです。<
    >
    > と謙遜した、ヤフー掲示板至高の天才女流歌人、連歌の女王の妹君ちゃん、いつもレスくれてありがとう��

    ************

    >デリダという哲学者は、「私達は、醒めることを禁じられている夢を見ている。」と言いました。

    >独我論というのですが、哥哥はこういう事を考えるのが大好きです�


    「独我論」ですね。
    哥哥にとってはなにかとトンチンカンな私ですがいつも忍耐強く教えてくれて感謝しています。

    「私達は、醒めることを禁じられている夢を見ている。」というのはなんかしっくりします。

    例えば脳の手術の時、手術台の上で脳のどこかの部位を刺激され気持ちの良い野原にいると思い込み
    歌を歌っている患者さん・・・の話が思い出されて。

    例えば亡くなってしまった人を折に触れて思い出す時。
    当時の様子を思い出しながら以前にはあって今はない当たり前といえば当たり前のことを、
    ・・・夢のようだと思う。


    >いつもレスくれてありがとう��


    勝手に書き込みすぎて哥哥に悪いかなぁと思ったりしています。
    その時は遠慮なく教えてください♪

引用返信/返信 削除キー/
■6224 / inTopicNo.83)  Re[7]: しかし何だべな。
□投稿者/ つばめ -(2020/09/06(Sun) 11:11:00)
    No6059に返信(エフニさんの記事)
    > >今もよくわからないであります。<
    >
    > ぶちあけて言えば、哥哥もわかっていません。
    >
    > >ええと。手が生える・・・もう。うまく言えない♪<
    >
    > あ、そだ�
    >
    > オタマジャクシで思い出した。
    >
    > こんなこと、妹君ちゃんじゃなきゃ聞けない。�
    >
    > ええと、季語の蛙は春を指すのに、同じ生態で、色や鳴き声が違う「カジカ」。
    >
    > これも蛙なのに、季語として何故「夏」を指すのか分かりません。
    >
    > すんすん
    >
    > >私が日本語に不自由しているだけです。<
    >
    > 哥哥もですよ�
    >
    > ハイ、握手�

    *******************

    ☆私、俳句についてほとんど無知です。全然わかりません。
    誰か知っている人いたらいいなぁ。

    実は「カジカ」って10代のころ魚だと思っていました。
    「鳴く魚がいるんだ。」って。
    で、勝手に魚が川の中の小石かなんかの上に身を乗り出して鳴いている姿を
    なんとな〜〜くイメージしていて
    よく調べもせず不思議とも思わず、そのまま話題にすることもなく今日まで過ごしてしまいました。


    ☆河鹿について歳時記見てみました。
    夏の季語ですね。
    ついでに、雨蛙、蟇蛙も河鹿とならんで夏の季語です。
    で、蛙(かわず)は春ですね。
    芭蕉の句が一番最初に載っていました。
    それもなんだか意外でした。
    芭蕉さんの句、話せば話すほど季節感がなくなっていくようで (笑)
    原点(・・・があるとしたら)に戻れば春に分類される句なのですね。

    ☆万葉集にはどうも「河鹿」という表記はないようです。てか、見つけられませんでした。
    あるのは「かはづ」

    神岳(かむおか)に登って、山部宿祢赤人が作った歌

    324 

    みもろの 神奈備(かむなび)山に 五百枝(いおえ)さし しじに生(お)ひたる 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 玉葛(たまかずら) 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香(あすか)の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜(よ)は 川しさやけし 朝雲(あさぐも)に 鶴(たず)は乱れ 夕霧(ゆうぎり)に かはづはさわく 見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ 古(いにしえ)思へば

    ☆この場合、騒いでいる「かはづ」ちゃんたちは「秋」の「かはづ」ちゃんですね。


    かはづ鳴く井出の山吹散りにけり花のさかりにあはまし物を  詠み人しらず 古今

    ☆こっちは春の「かはづ」ちゃん。

    ☆考えてみれば俳諧〜俳句が江戸時代からなのでそれ以前に蛙と河鹿が区別されていたことはないのかも。

    俳句に詳しい人に教えを請いたいです。 


引用返信/返信 削除キー/
■6223 / inTopicNo.84)  古池や
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/06(Sun) 11:03:48)
    2020/09/06(Sun) 11:45:31 編集(投稿者)

    横レス失礼します。

    以下は自分勝手なこの句の印象を書かせてもらいます。

    音と場面が一体化(一如)となる。

    観るものと、観られるものが一体化(一如)となる。

    どういうわけかこの句は古池を観ている自分とか、蛙が飛び込む水の音を聞いている自分の存在がよい意味で感じられず、ただ音と場面だけが静寂と永遠の時間の一瞬(而今)として浮かび上がる。

    これが悟りの世界なのかな、と思わせるところがあります。

    PS.写真は私の住む街の山手にある池で、この句に合う場面だと思って以前散策中に撮りました。
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