| フローラさん、おはようございます。
> そうです。普通は読み手とその対象が二極化していると思いますが、芭蕉は禅僧ですから、彼という個体が読み手ではなく、起こったことを全体の運動として表現されていると思います。ですから、とてもさらっと淡々とした感じがするのだと思います。止まらず、全部流れていくような・・・私=全体=宇宙(これは、神でも仏でも全体としての意味ならばなんでもいいらしいです=愚さんという方の受け売りです)。全体が全体を描写しているという感じでしょうか・・・芭蕉=古池=かわず=ぽちゃん。 説明が下手ですみません・・・・
芭蕉が個人として世界?を描写しているわけではなく、 芭蕉が全体として(全体に同化して?全体の一部として?)起こったことの全体を描写している。
なので作品から「私」が感じられないというわけなのですね。
親切な説明をありがとうございました。 お手数をおかけして申し訳ありませんでした。感謝です。
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