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■6315 / inTopicNo.49)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ 時 -(2020/09/07(Mon) 21:01:12)
    悪魔ちゃん。こんにちは。返信をありがとうございます。

    > >仏陀の説いた<
    > から
    > >ここで捨てるという意思が入った行為が起こるのではなくて、最終的に全てが捨てられるのですね。筏の譬えです。もう仏陀の教え自体が必要がなくなると言う事です。ですので自然に教えに対しての執着がなくなります。<
    > へと展開されてるみたいだけど、「仏陀の教え自体が必要がなくなる」、言い換えると「ゴータマ=シッダルタっていうっていう紀元前に生きていた人間が思ったこと自体が必要でなくなる」っていうことでいい?でも、それはどこから?

    失礼しました。ここは私の勘違いでレスしましたので、一回目の修正で削除しました。

    > >涅槃は、一応の定義上では(三毒の滅=貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅)です<
    > って誰が定義したの?

    比丘達よ、では、涅槃とは何であろうか?
    比丘達よ、貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃と言うのである。という一文が原始仏典内にはあるのですね。ですので、原始仏典内での記載での私の理解で定義としました。

    > >一切とは六処(眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法)の事ですが、同時に、一切は悪魔の領域だと説かれます。(相応部有偈篇悪魔相応第二品「耕作者」)一切よりの渡し場あり・・と言う事は、この悪魔の領域からは出られますよという意味ですね。それが涅槃の域であり、解脱と言う事でしょう。<
    > 眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法が悪魔の領域?

    > 時様は、人は悪魔である、って言っている、っていうことでいい?

    いいえ。人は悪魔である、とは言っていません。
引用返信/返信 削除キー/
■6307 / inTopicNo.50)  Re[31]: 教え
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/07(Mon) 20:31:05)
    お邪魔します。

    時さま、なんか詳しそうなので、時さまに質問。
    わたしの参考書では、
    〔仏陀Buddha:前463頃〜前383(没諸説あり、他の有力説は前563頃〜前483頃)仏教の開祖。本名はゴータマ=シッダルタ。釈迦・釈迦牟尼・釈尊・世尊・如来などとも呼ばれる。〕
    ってある。

    時さまは
    >仏陀の説いた<
    から
    >ここで捨てるという意思が入った行為が起こるのではなくて、最終的に全てが捨てられるのですね。筏の譬えです。もう仏陀の教え自体が必要がなくなると言う事です。ですので自然に教えに対しての執着がなくなります。<
    へと展開されてるみたいだけど、「仏陀の教え自体が必要がなくなる」、言い換えると「ゴータマ=シッダルタっていうっていう紀元前に生きていた人間が思ったこと自体が必要でなくなる」っていうことでいい?でも、それはどこから?

    >涅槃は、一応の定義上では(三毒の滅=貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅)です<
    って誰が定義したの?

    >一切とは六処(眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法)の事ですが、同時に、一切は悪魔の領域だと説かれます。(相応部有偈篇悪魔相応第二品「耕作者」)一切よりの渡し場あり・・と言う事は、この悪魔の領域からは出られますよという意味ですね。それが涅槃の域であり、解脱と言う事でしょう。<
    眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法が悪魔の領域?

    時様は、人は悪魔である、って言っている、っていうことでいい?





引用返信/返信 削除キー/
■6300 / inTopicNo.51)  Re[29]: ピピットさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/09/07(Mon) 19:55:18)
    こんばんは、ピピットさん

    No6291に返信(pipitさんの記事)

    > パニチェさん、
    > こんにちは、いつもお世話になっています

    こちらこそ。^^

    > 後を引かない、って、すごいことですよね。
    > まずはその境地を目指したいと思いました。

    私も同じです。

    > まだ全然だけど、仏教を知って、触れて?
    > 以前よりは、持ち直す?のが早くなった気がしてます。

    > それぞれの機縁があると思うのですが、
    > わたしは、仏教に出会えて、本当に嬉しく思っています。

    同じです。
    私はニーチェという劇薬を仏教でもって中和し、多少マイルドにしたうえで体内に注入している感じです(笑)。

    > でも、キリスト教の方などが、ボランティア精神あふれる行いをなさってる姿などをテレビでみて、すてきだなぁと心が清々しくなることもあります。

    > きっと、○○教、というより、
    > 一人一人の人間、という、見方を忘れないようにしないといけないのかな、と、
    > 今このコメントを書きながら思いました。

    仏教徒であろうと、クリスチャンであろうと、利他的な行為は美しいです。

    > いつもありがとうございます。

    こちらこそ♪
引用返信/返信 削除キー/
■6295 / inTopicNo.52)  pipitさんへ
□投稿者/ 時 -(2020/09/07(Mon) 18:53:45)
    2020/09/07(Mon) 20:38:02 編集(投稿者)
    2020/09/07(Mon) 20:26:33 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちは。返信をありがとうございます。

    > 観には、考察が残ってるんですね、
    > 止には、考察がないのですね、

    はい。ですので、仏陀の説いた八支聖道の中の正念である(一部、四無量心の瞑想や)四念処の瞑想、続く正定(四禅定の一部)は観瞑想になります。そして有尋有伺定と無尋無伺定の中間的な感覚を表現したものが無尋有伺定と呼称しているように思います。とりあえずは、明確な区切りはないようで、例えばの虹の状態を赤だ黄色だと色を分けていうのですが、実際にはその境目はないようにスペクトラム状の状態をあえてと言う事で表現したものだろうと思いますが、有尋有伺と無尋無伺は、はっきりと違いますね。

    > ちょっと気になったんですけど、
    > 『二種考経』の経文では、第四禅定になったときに、宿住随念智に心を転じさせました、と続きますね。
    > それが第一の明智、と説かれ、
    > そのあと、有情死生智に心を転じさせ、それが第二の明智で、
    > そのあと、漏尽智に心を転じさせ、解脱する、という流れにわたしには読めました。

    解脱は一つだけではありませんで、数個の状態が表現されています。
    倶解脱、慧解脱、心解脱等々です。言葉的にはどうでもよいのですが、解脱は一つではありません。

    宿住随念智は以前に少し出しましたが、過去生を思い出すという六神通の一つですね。これは私には会得できませんでした。

    それと、八支聖道を一応にでもマスターできると、心解脱ではなく、慧解脱に至ります。智慧での解脱という意味です。これは、相応部因縁遍因縁相応「スシーマ経」に記載がありますが、慧解脱のみの比丘のお話も書かれています。

    智慧での解脱を目指す行が、八支聖道の正定で、そこまででも十分に解脱(慧解脱)ですが、その正定(四禅定)から続いて止瞑想が説かれています。これは九次第定と言いますが、無色界の瞑想になるようです。仏典内では、これらが明確に分類して書かれていませんので、混乱しますね。読み解くしかありません。

    九次第定(初禅・第二禅・第三禅・第四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処・想受滅)ですが、この最初の方には四禅定がありますね。そして続く、空無辺処、識無辺処、無所有処・・・と止瞑想が進むと、最終的には想受滅に至ると言う事ですね。これができれば、心解脱です。

    上記の慧解脱と心解脱の両方をマスターしたものが、倶解脱です。

    そして仏陀が無学(もう学ばなくてよい)ですよと言っているのが、倶解脱の比丘と慧解脱の比丘です。これは、中部70経「キーターギリ経」に記載があります。ご確認いただければと思います。

    ですので、

    > 第四禅定になったときに、宿住随念智に心を転じさせました、と続きますね。
    > 第四禅定が、漏尽智への下準備のようにもみえます。

    というのは、四禅定(正定)の続きで止瞑想に入っていくという解釈が正解ではないでしょうか。つまりはこの場合は、倶解脱を目指す方法と言う事になります。同時に色界定から無色界定に入っていくと言う事ですね。

    > 第四禅定にいたれば、自動的にに明智へと至るのかなぁ?それとも、心を向ける因はいるのかな?と、その箇所に心が引っかかりました。

    私自身は、明智とか解脱したとかにという言葉には全く拘りを持たないようにしていますので、言葉的に説明ができない場合がありますが、とりあえず、言葉的には慧解脱を目標にされればよいのかな?と思いました。

    > 八支聖道は有為、とか。
    > (まだ悟る前の修行ですもんね)

    はい。有為の教え、行ですね。世間での教えです。これをマスターできれば出世間です。(^^)v

    > 出入息が身行であり、尋思が語行であり、〈想〉と〈受〉が心行、とか。

    はい。呼吸は身行ですし。思考した事は言葉になりますので語行であり、想いや感じる感触それ自体は、心の行ですね。

    > 受は三つ。
    > 楽受、苦受、不苦不楽受、
    > 潜在する煩悩は、そして捨てられるべき煩悩は、各受に対応して、
    > 貪、瞋、痴(無明)。

    > !

    この ! は良いですね。

    > あらゆる、受において、これを捨てられるべきというわけではない、
    > これを、禅定において捨てる !!

    はい。この場合はその通りかと思います。

    > そこに三毒が潜在しない状態で、、、
    > ちょっとそこがわからないけど、自動的になのか、心を傾注させるのかわからないけど、
    > 無明が捨てられ→明智→解脱→涅槃

    > わあ、(O_O)

    涅槃は、一応の定義上では(三毒の滅=貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅)です。

    涅槃は不可見、無辺にして、一切よりの渡し場あり。(長部11経「ケーヴァッタ経」)とあります。一切よりの渡し場あり と言う事は、色界からでも無色界からでも涅槃体現はできますよという意味だと思います。

    一切とは六処(眼と色・耳と声・鼻と香・舌と味・身と接触・意と法)の事ですが、同時に、一切は悪魔の領域だと説かれます。(相応部有偈篇悪魔相応第二品「耕作者」)

    一切よりの渡し場あり・・と言う事は、この悪魔の領域からは出られますよという意味ですね。それが涅槃の域であり、解脱と言う事でしょう。

    > 個人的には、比丘尼さまの説法で励まされる気持ちになるし、
    > あまり考えたことない着目点などもたくさんでてきて、読めて嬉しいです、
    > ありがとうございます。

    いえいえ、pipitさんのやる気がそれを現象させていると思います。(^^)/

    色界にいる者どもも、無色界にいる者どもも、その止滅を知らないので、再び迷いの生存にもどってくるのです。(相応部有偈篇比丘尼相応「チャーラー尼」)

    > 時さん、ありがとうございます (^人^)

    いえいえ、息抜きしながらでも頑張ってくださいね。m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■6293 / inTopicNo.53)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/07(Mon) 17:38:01)
    こんにちは!
    いろいろコメントありがとうです (^O^)/

    考えて、また返事書きますね

    おつかれさまです (^_^)v
引用返信/返信 削除キー/
■6292 / inTopicNo.54)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/07(Mon) 17:33:19)
    こんにちは!

    そうだと思うけど、pipit自身、涅槃がなにかはちゃんとわかってなくて(^_^;)

    No6265に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > piptさま
    > 「涅槃」って「仏教」のことでいい?
引用返信/返信 削除キー/
■6291 / inTopicNo.55)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/07(Mon) 17:26:45)
    No.6192
    パニチェさん、
    こんにちは、いつもお世話になっています

    後を引かない、って、すごいことですよね。

    まずはその境地を目指したいと思いました。

    まだ全然だけど、仏教を知って、触れて?
    以前よりは、持ち直す?のが早くなった気がしてます。

    それぞれの機縁があると思うのですが、
    わたしは、仏教に出会えて、本当に嬉しく思っています。

    でも、キリスト教の方などが、ボランティア精神あふれる行いをなさってる姿などをテレビでみて、すてきだなぁと心が清々しくなることもあります。

    きっと、○○教、というより、
    一人一人の人間、という、見方を忘れないようにしないといけないのかな、と、
    今このコメントを書きながら思いました。

    いつもありがとうございます。
    おつかれさまです !

引用返信/返信 削除キー/
■6289 / inTopicNo.56)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/07(Mon) 17:15:49)
    こんにちは!
    いろいろお気遣いありがとうございます(#^.^#)

    赤ちゃんのように、まずは、欲や怒りに、気づいてあげてるのがいいかもしれませんね(o^^o)

    なんでやねーん、なんでやねーん、ってpipitの、言ってそうです o(`ω´ )o

    よしよし ♪


引用返信/返信 削除キー/
■6288 / inTopicNo.57)  アドレス
□投稿者/ pipit -(2020/09/07(Mon) 17:00:38)
引用返信/返信 削除キー/
■6287 / inTopicNo.58)  Re[25]: 時さんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/07(Mon) 16:48:45)
    No.6188

    時さん、こんにちは

    整理されたわかりやすいご説明をありがとうございます。
    有尋有伺定が初禅、
    無尋無伺定が第二禅定、
    観瞑想は、有尋有伺定、無尋有伺定、
    止瞑想は、無尋無伺定、

    観には、考察が残ってるんですね、
    止には、考察がないのですね、


    二種考経を、ネットで読ませていただいています。
    すごく興味深いです。

    https://komyojikyozo.web.fc2.com/
    中部 > 根本五十篇 > 獅子吼品 > 双尋経

    Dvedhavitakka Sutta: Two Sorts of Thinking - translated by Thanissaro Bhikkhu - 英訳


    ちょっと気になったんですけど、
    『二種考経』の経文では、第四禅定になったときに、宿住随念智に心を転じさせました、と続きますね。
    それが第一の明智、と説かれ、
    そのあと、有情死生智に心を転じさせ、それが第二の明智で、
    そのあと、漏尽智に心を転じさせ、解脱する、

    という流れにわたしには読めました。

    第四禅定が、漏尽智への下準備のようにもみえます。

    第四禅定にいたれば、自動的にに明智へと至るのかなぁ?それとも、心を向ける因はいるのかな?と、その箇所に心が引っかかりました。


    > これで涅槃(三毒の滅=貪欲の滅、瞋恚の滅、愚痴の滅)の体現が可能になると思います。
    >
    > そして、いつからどこから始めてもよいとは思いますが、正定(四禅定)に深く入る前には、四念処や四無量心の観瞑想(有尋有伺定、無尋有伺定)が必要になるような気がします。
    >
    > 四念処は一言でいうと、自身の心を正知(そのまま観る)ことで、中部10経「念処経」等に詳細が記載されています。同時にこれは、八支聖道の正念にあたります。
    >
    > 四無量心は、梵天界への道とも表現されているようですが、中部97経「ダナンジャーニ経」や(長部13経「三明経」)に記載があるようです。
    >
    > 今回は、三受(楽・苦・不苦不楽)と三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)と四禅定(初禅・二禅・三禅・四禅)の関係を大まかにでも把握されれば良いように思いました。<

    ありがとうございます、すごく勉強になります。

    > 三毒と四禅定の関係等は、中部44経「小有明経」に記載があるようですよ。
    >
    > 老婆心ながら。<

    アドバイスくださってとても嬉しいです。
    『小有明経』、比丘尼さまのお経なんですね!

    しかも内容がとてもおもしろいです。

    八支聖道は有為、とか。
    (まだ悟る前の修行ですもんね)


    出入息が身行であり、尋思が語行であり、〈想〉と〈受〉が心行、とか。

    https://komyojikyozo.web.fc2.com/
    中部 > 根本五十篇 > 小双品 > 小有明経

    Culavedalla Sutta: The Shorter Set of Questions-and-Answers - translated by Thanissaro Bhikkhu - 英訳

    受は三つ。
    楽受、苦受、不苦不楽受、
    潜在する煩悩は、そして捨てられるべき煩悩は、各受に対応して、
    貪、瞋、痴(無明)。



    あらゆる、受において、これを捨てられるべきというわけではない、
    これを、禅定において捨てる !!

    そうかぁ、

    そこに三毒が潜在しない状態で、、、
    ちょっとそこがわからないけど、自動的になのか、心を傾注させるのかわからないけど、
    無明が捨てられ→明智→解脱→涅槃

    わあ、(O_O)

    個人的には、比丘尼さまの説法で励まされる気持ちになるし、
    あまり考えたことない着目点などもたくさんでてきて、読めて嬉しいです、
    ありがとうございます。

    わたしは全然瞑想してないも同然なのですが、この経文読むと、
    禅定は実践に基本として組み込まれたものなんだなぁ、と、思わされました。

    時さん、ありがとうございます (^人^)








引用返信/返信 削除キー/
■6285 / inTopicNo.59)  Re[29]: pipitさんへ
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/07(Mon) 13:24:44)
    三毒の治し方(仮)

    定かじゃないけど

    マジモンは社会に出てから、まず、強欲(貪欲)を治したんだ。
    理由は不純で、資金を減らしたくなかったからです。
    ようは、物を買わなければ、金は減らないと思いました。

    強欲や貪欲になると、地球丸ごと買ってやるという精神になるよ。

    じゃ、金を使わず、事を成す方法は何か、それは推測する事です。
    そして、足りない状態から足りる状態に持っていく感覚です。
    すると、自動的に「痴」も治っていくよ。貪と痴はセットだね。

    アインシュタインが、相対性理論を打ち立てたんだけど、
    彼はきっと、書物・情報などを頼りにしないで、
    思考実験・想像力で成し遂げたと思います。

    三毒のイメージは、蜜と毒のイメージが強い。
    蜜を舐めると、喜ぶんだけど、その感覚は消えてしまう。
    ああ、あの蜜をもう一度舐めたい!となって、どつぼにはまっていくイメージ。

    蜜が毒なのか?となっていき、私の場合、薬を考えた。
    蜜、毒、薬かな?だけど、薬はなかったね。

    私が生まれ、幼児の頃、無償の愛で世界はいっぱいだった。
    イメージ的には、母乳だね。貪りの元凶といってもおかしくないと思うよ。

    しかし、成長するにしたがって、
    その濃厚だった無償の愛がどんどんと希薄になっていくんだ。
    死の直前なんて、その愛は透明になっているんじゃなかろうか?と思う。
    蜜と毒、その毒の正体は、
    おそらく、蜜と愛を勘違いしている事なのではないだろうか?と思います。


    一方、「怒り」

    貪と痴はセットだけど、この怒りは別物。

    社会に期待すると怒ります。
    また、教育熱心の家庭に育ち、一番を強要された子ほど、良く怒ります。
    怒りの沸点が速いんです。

    じゃ、怒りの沸点が遅い子というのは、
    別に一番でなくてもいい、二番でも、三番でもいいと
    ありのままの姿を愛された子が、怒りの沸点が遅い。

    なんだかんだ、愛なんですな。

    しかし、世の中にはもっと怒りがあるんだよ。
    それは、人は人を蹴落とす時に怒るらしい、俺にはないからわからない。
    よく喫茶店にいくと、爺さんたちが集団で井戸端会議をしているだろ。
    あの精神らしい、よくわからんが…。
    ま〜意味もなく怒って、それが子供に影響しちゃうパターンかな。

    貪欲と痴がセット、欲しいモノが手に入らない時に怒る?的なこと?



    ま、私は政治や宗教を一番遠ざけている人間なので、上述の事は定かではありません。あくまでも参考程度にしてください。
引用返信/返信 削除キー/
■6280 / inTopicNo.60)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/09/07(Mon) 11:59:02)
    私がした6190の投稿についてですが。
    質問の形式になってるんだけど・・・
    センシティブな部分にも関わる質問になるのかも、って感じたんですね。
    (今になって)

    そんなふうに私が感じるだけで、もしかしたらpipitさんはぜんぜんそんなふうにも感じていらっしゃらない可能性もあるんだけど・・・

    そんなこんなで、レスについてはお気になさらないでくださいね。
引用返信/返信 削除キー/

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