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■6476 / inTopicNo.13)  knowing itself さんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/09/11(Fri) 20:22:36)
    返信ありがとうございます!

    > 涅槃は究極の自由ですから、行き着く方向は同じでしょう。どこまで体験していたかはわかりませんがカントが見据えていた方向が究極の真理であることは間違いないと思います。カントが決定的な影響を受けたルソーについてなら、ルソーは禅宗の人が喜びそうな、自然との合一の至福神秘体験をしています。<

    ルソーがそのような体験をしていたことをはじめて知りました!(◎_◎;)


    > 究極の存在について認識不可知をいうのは、ソクラテスやプラトンあたりからの西洋哲学のデフォルトでしょう。徹底的な認識不可知が当然の出発点みたいな。逆に人間が何でも知り得る、理解し得るという世界観こそが異様な例外であって、近現代の一時期の科学万能主義くらいなものかと。<

    そう言われてみれば、人間が何でも知っている、と、考える方が、不自然ですね。
    失礼しましたm(_ _)m

    それにしても、knowing itselfさんの知識の幅は、私にはめちゃめちゃ広くみえて、
    いったいどうなってるんだろ〜、って感想が起きます。
    すごいなぁ

    いつもありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■6475 / inTopicNo.14)  NO TITLE
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/11(Fri) 20:21:40)
    ・knowing itselfさんの■6472のコメ、非常にわかりやすいですね。

    ・悪魔ちゃんに1票だな。カントのタイプは、経験が先やと思うね。
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■6474 / inTopicNo.15)  Re[46]: 実践理性から純粋理性批判へ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/11(Fri) 20:13:32)
    ■6449、
    >ほんとは、直接、カントの本を読むのが一番なんやろうけどなあ〜〜<
    pipitさん、カントの訳本は読んでるんよね?
    それを主にアプローチした方がいいんじゃない?○○のカントのじゃなくて。

    ちなみに、わたし、カントは純粋理性批判の前提に実践理性批判があったんだと思うよ。

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■6473 / inTopicNo.16)  マジモンさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/11(Fri) 20:12:25)
    こんばんは。
    責任道徳っぽいテーマで、とりあえず目に付いた箇所を投稿します。

    カント的区分によると、マジモンさんが「説明してくれよ〜」と一方的に言っても、
    必ずしも答える義務はない、となるみたいですよ。
    「説明してよ」「わかった、説明する。」とお互いの間で約束した場合は、説明する義務がある、という考え方みたいですよ。

    まずは、wikiの『義務論』より抜粋引用。

    『このような義務の区別がある。

    完全義務
    いかなる状況下でも従わなければならないもの。
    不完全義務
    通常従うべきだが事情によって従わないことが許容されるもの。努力義務ともいう。
    これらの区別はただただ自己の理性によって区別され、一般的に前者は法律化や被行為者による何らかの対処が認められる。』

    それから、『カント入門』石川文康先生著、p168、169から引用
    石川先生の解説
    『(略)
    2 他者に対する完全義務。たとえば、だれかとの約束を遵守したり、契約を履行すること。
    これも守って当然(ゼロ評価)、破れば責任を問われる(マイナス評価)。
    (略)
    4 他者に対する不完全義務。たとえば、他人に対して親切を施したり、こまっている人を助けること。これも、そうすれば功績になるが(プラス評価)、そうしなくても責任は問われない(ゼロ評価)。』
    引用終了

    だから、マジモンさんが一方的に、説明して、と言って、
    相手が呼応しなくても、責任は問われない、って、カント哲学ではなりそうですね。

    ちなみに、なぜ、自由から責任が導きだされるのか、は、後で引用するつもりしてます。





    No6467に返信(マジカルモンキーさんの記事)
    > じゃ、マジモンは責任道徳アプリオリは1000%ないという立場にいるよ。
引用返信/返信 削除キー/
■6472 / inTopicNo.17)  自由と道徳法則
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/11(Fri) 19:34:51)
    「実践理性批判」序文の有名な箇所、

    「自由は道徳法則の存在根拠であり、道徳法則は自由の認識根拠である」

    そんなに難しいことをいってるわけではないと思う。敷衍すると、
    そもそも道徳法則は、自由が存在しているから自由を根拠に存在しているんだ。自由から存在性を与えられるのが道徳法則。自由という基盤の上に立つのが道徳法則。

    後半部分は、自由そのものは経験的に認識できないけれど、道徳法則を媒介にして、道徳法則を目印にして、道徳法則を介して、それによって自由の存在を知ることができる。

    ようするに、カントは道徳法則マンセー、道徳法則信者ではなく、自由教だと思う。

引用返信/返信 削除キー/
■6470 / inTopicNo.18)  pipitさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/11(Fri) 19:11:49)
    こんばんは

    >>ボール運動の軌跡が「現象」、ボールに運動を起こす自由が真に成立している世界が「物自体」にあたると考えています。<
    >
    > そう思うのですが、
    > 純粋理性批判では、頑なに物自体の不可知論を説きますよね。
    >
    > カント哲学から離れれば、わたしはカントが涅槃的なものを自ら知っている可能性を思うこともあるのですが、knowing itselfさんはどう思われますか?

    涅槃は究極の自由ですから、行き着く方向は同じでしょう。どこまで体験していたかはわかりませんがカントが見据えていた方向が究極の真理であることは間違いないと思います。カントが決定的な影響を受けたルソーについてなら、ルソーは禅宗の人が喜びそうな、自然との合一の至福神秘体験をしています。

    > また、カントが、物自体の徹底的な(?)認識不可知を断定する(勘違いしてたらすみません)理由は、knowing itselfさんはどう思われますか?

    究極の存在について認識不可知をいうのは、ソクラテスやプラトンあたりからの西洋哲学のデフォルトでしょう。徹底的な認識不可知が当然の出発点みたいな。逆に人間が何でも知り得る、理解し得るという世界観こそが異様な例外であって、近現代の一時期の科学万能主義くらいなものかと。

引用返信/返信 削除キー/
■6467 / inTopicNo.19)  Re[44]: じゃ〜
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/09/11(Fri) 17:24:35)
    じゃ、マジモンは責任道徳アプリオリは1000%ないという立場にいるよ。
引用返信/返信 削除キー/
■6466 / inTopicNo.20)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/11(Fri) 16:59:24)
    みのりさん、こんにちは 〜 o(^▽^)o

    アドバイスありがとうございます!

    どちらの本も手元にあるので、見てみたら、とても有意義なこと書かれてそうで、ありがとうございます!

    これ、マジモンさんが責任道徳説明してほしい、ってつぶやいてたけど、
    責任道徳の説明にもなってる箇所みたいですね。

    また後ほど、読んでコメントしますね

    ありがとうございます(o^^o)
引用返信/返信 削除キー/
■6465 / inTopicNo.21)  knowing itself さんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/11(Fri) 16:51:58)
    こんにちは、書き込みありがとうございます!o(^▽^)o


    > 外界や対象を認識するのは、天体現象やスポーツなどを観測・観察し、そこな法則やルールを発見し当てはめていくような作業でしょう。単純化するために自然やスポーツをボール運動に置き換えて説明します。
    > カントはボール運動の軌跡を追うことよりも、ボールが運動を起こせる自由を優位に置いた哲学者でしょう。<

    そうですね、自分でおこなう科学実験とかもすごく好きだったような記述を読んだことありますけど、
    そこは哲学者、そもそも論に心は向かったかもしれませんね。

    > ボール運動の軌跡が「現象」、ボールに運動を起こす自由が真に成立している世界が「物自体」にあたると考えています。<

    そう思うのですが、
    純粋理性批判では、頑なに物自体の不可知論を説きますよね。

    カント哲学から離れれば、わたしはカントが涅槃的なものを自ら知っている可能性を思うこともあるのですが、knowing itselfさんはどう思われますか?

    また、カントが、物自体の徹底的な(?)認識不可知を断定する(勘違いしてたらすみません)理由は、knowing itselfさんはどう思われますか?

    いろいろめちゃくちゃなこと言ってたら申し訳ありませんm(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■6464 / inTopicNo.22)  Re[44]: 夏も終わりの自由研究
□投稿者/ minori -(2020/09/11(Fri) 16:10:04)
    100分deも、pipitさん、持ってらっしゃるそうなので、書いてみました。^^
引用返信/返信 削除キー/
■6463 / inTopicNo.23)  Re[43]: 夏も終わりの自由研究
□投稿者/ minori -(2020/09/11(Fri) 16:07:20)
    すみませ〜ん。(;'∀')  再度。

    100分de名著「純粋理性批判」のp87の「人間に自由はあるのか?」というところからが、石川さんのさっき紹介した部分と重なり、しかも、100分deのほうがだいぶわかりやすいようです。

    p98からの、「第四回 自由と道徳を結びつける」も、同じくわかりやすいですよ。

    道徳論のほうは興味があまりなかったので、よく読んでなかったのですが、ぱらぱらと読んでみたらわかりやすそうです。

    石川さんのほうのは、難しく、直観的に「よさそう」しかなかったけど。。。(;'∀')
引用返信/返信 削除キー/
■6458 / inTopicNo.24)  Re[42]: 夏も終わりの自由研究
□投稿者/ minori -(2020/09/11(Fri) 09:11:09)
    No6403に返信(pipitさんの記事)
    > 『純粋理性批判』から、道徳へテーマが移行する道を知りたいと思い、


    pipitさん、お邪魔します。
    石川文康さんの『カント入門』をたしか持ってらっしゃいますよね。
    第五章「自然因果の彼岸」に、第三アンチノミーの解決は、一見矛盾対立と見えるものを「小反対対立」(両方とも真)と見抜くことによる、とあります。

    時間の支配下にある感性的存在様式と、その支配を免れた英知的存在様式の両方によって、世界と人間の存在様式は完全化される、とあります。


     『カント入門』 石川文康  p138を参照させていただきました。

    このあたり、難しいですがヒントになりそうな直感が働いています。

    詳しく、かつ文章化が巧みな方なら、このあたりを理論的に表現されると思うのですが、私にはその力はありません。(´;ω;`)

    というわけで、「よさそうよ。」という部分のご紹介でした。

    (どなたか、説明してくださるととても有意義になる、という直感が働いています。)
引用返信/返信 削除キー/

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