(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■5429 / inTopicNo.97)  教えてください 
  
□投稿者/ 田秋 -(2020/08/21(Fri) 18:38:16)
    flora先生!

    うちの蘇鉄ですが、これって花ですか?あんまり見た記憶がないのですが・・・


799×600 => 600×450

1598002696.jpg
/205KB
引用返信/返信 削除キー/
■5425 / inTopicNo.98)  三蔵は寅か? 
□投稿者/ 田秋 -(2020/08/21(Fri) 08:43:20)
    パニチェさん、早々の新トピック、ありがとうございます。

    4→2の順にお読みください。

    沙悟浄追記

    先日、鈴鹿にある神宮寺へ行った。ここには深沙大将がいらっしゃる。ここの深沙神(大将と同じ)はちょっと変わっていて口からヘビが出ている。身長は90センチ足らず、平安の作ということである。大概の深沙神は体のどこかにヘビを帯びている。深沙神→沙悟浄なら沙悟浄→ヘビ、こういうストレートで単純な図式のほうが難解な論理を経て沙悟浄→ヘビ(巳)を抽出するより庶民的で優れているのではないだろうか。

    最初に西遊記暦と直交軸を再掲する。

630×1600 => 236×600

1597967000.jpg
/311KB
引用返信/返信 削除キー/
■5424 / inTopicNo.99)  Re[2]: 三蔵は寅か? 2
□投稿者/ 田秋 -(2020/08/21(Fri) 08:37:48)
    2020/08/21(Fri) 09:35:34 編集(投稿者)

    【三蔵の干支】
    前回の考察で、直交軸の指し示す4方向のうち残る一つは三蔵ではないかという仮説が浮かび上がった。復習のため簡単に言えば、直交軸が指し示す方向は亥、寅、巳、申で、亥=八戒、巳=悟浄、申=悟空で、残ったのが寅、西遊記の主要な登場人物で残っているのが三蔵、故に寅=三蔵ではないか?という論法である。かなり荒唐無稽な仮説ではある。しかし荒唐無稽を理由に却下されるのであれば、そもそも西遊記そのものが却下されねばなるまい。

    どのような説明がなされれば、三蔵=寅が納得できるか?元々三蔵は人間であるから実は三蔵は虎だったという結論を導き出すのは如何に荒唐無稽の世界でも難しい。で、まず思いつくのは三蔵の干支がどうか?である。仮に三蔵の干支が寅であればそれを理由に三蔵=寅と言い張ることは可能である。

    三蔵と言っても現実世界と西遊記世界の二人の三蔵がいる。どちらかが寅年生まれだったら調べた甲斐があったといもの、万が一西遊記の三蔵が寅年であったなら、作者の意図は明白である。まず、現実世界の三蔵を調べる。多くのウェブサイトでは三蔵の生年を602年としているが、実は確定はされていない(安易なコピペが横行しているような気がする)。薬師寺の公式サイトでは600年或いは602年としている。599〜602としているサイトもある。筆者が作成した西遊記暦にはリアルの年表も一部付けてあるのでそれで逆算していくと599〜602は己未、庚申、辛酉、壬戌となり寅はない。では西遊記中の三蔵はどうか。物語中に三蔵の生年や干支を直接示したところはない。しかしそれを類推できる記述はある。第93回は天竺国にせ公主事件、時は既に貞観27年になっている。P98で三蔵は「四十五歳です」と言っている。注意すべきことはこの西遊記が書かれた時代の年齢は数えで表すということである。生まれたら1歳である。西遊記暦の貞観27年を45歳として逆算していくと1歳の時は己亥となる。

    己亥!直交軸のうち最初に引いた貞観13年のリアル=西遊記軸のリアル側の干支である。
    ここはしばし横道に逸れる以外にない。寅でなかったことは残念である。作者は取経の旅出立を貞観13年己巳とし、リアル貞観13年の干支己亥、それを改めて西遊記暦に置きなおした年、即ち西遊記暦の西暦609年(西遊記暦で隋の大業5年)に三蔵が生まれたという設定にしたのだ。これをただの偶然とするか?いや作者の意図だと解釈する方が余程説得力がある。
    逸れついでにもう一つ指摘しておくことがある。取経の旅に出立した貞観13年のとき、三蔵は何歳であったか?これも西遊記暦で簡単に調べることができる。31歳である。13と31、数字が逆にならんでおり、これも作者の趣向と解釈することが可能である。

    【虎を伴った行脚僧】
    話を三蔵は寅か?に戻す。三蔵への干支からのアプローチはうまくいかなかった。しかしアプローチの方法はまだ他にもあり、そちらが本筋と言える。前回紹介した《虎を伴った行脚僧》である。下に掲げた写真はいずれも虎を伴った行脚僧をいう題材を扱っており、共通点をいくつか指摘できる。

    1. 虎を伴っている。
    2. 小さな仏さまが描かれている(最初の写真の行脚僧は自身が仏。光輪が描かれている)
    3. お経を背負っている。
    4. 左に向かっている。

    お経を背負っているということは帰り道を表す。通常の感覚では左は西であるが、この場合は東を表している。何故なら「天子は南面す」と言われるように皇帝は南を向いて座る。そうすると天子からみると左手は東になるのである。であるのでこれらの絵は天竺でお経を頂いた僧侶が中国(東)に向かって帰っている姿を描いている、ということになる。

    これらの絵はいずれも20世紀初頭、敦煌莫高窟で見つかったもので、上二つの絵は絹本で高価なものであるが、下二つは紙に描いたもので庶民にも容易く手に入るお札のようなものである。ということは敦煌あたりではこの題材はよく知られていたことになる。最初に掲げた絹本は権威筋の研究ではこの行脚僧は玄奘三蔵ではないかという結論に傾いている。

600×900 => 400×600

1597966668.jpg
/224KB
引用返信/返信 削除キー/
■5423 / inTopicNo.100)  三蔵は寅か? 3
□投稿者/ 田秋 -(2020/08/21(Fri) 08:31:37)
    【降龍羅漢】
    何故行脚僧は虎を従えているのか?この問題も掘り下げ始めるとかなり深くて簡単に答えることは出来ないが大まかに言えば
    1. 西方最強の動物である虎に守ってもらう。
    2. 五行思想で西に配当される動物(神獣)は虎である。
    3. 虎を従える羅漢
    などを挙げる事ができる。地上最強の動物となると象ということになるらしいが中国にはいない。犀やライオンも野生では中国にいない。中国で知られている動物で最強は虎ということになる。その強さ故に神格化され五行では霊獣白虎として西に配当された。虎以外は龍、朱雀、玄武といった空想の産物である。

    さてここでは3.羅漢との関係を見ていく。羅漢とは修行中ではあるがかなり尊敬の域に達した僧のことであり、十六羅漢や五百羅漢が有名である。五百羅漢はさておき、「大阿羅漢難提密多羅諸説法住記」に十六羅漢のことが書かれている。これを著したのがタイトルにもみえる難提密多羅、ナンディミトラ或いは慶友と呼ばれる僧であり、漢訳したのが玄奘である。中野氏は、玄奘の訳業により十六羅漢は人の知るところとなり、やがて著者の慶友と訳者の玄奘が共に羅漢崇められ、十六羅漢に加えられいつしか十八羅漢となった、と指摘している。

    ナンディミトラには次のような逸話がある。昔竜王が洪水をおこしマガタ国を沈め経典を竜宮に隠すという悪さをした。その竜王を下し経典を持ち帰ったのがナンディミトラで、以後降龍羅漢と呼ばれるようになったというのである。他方、玄奘には虎を退治したというような逸話はない。竜虎は五行思想の影響もあり対で語られることが多い。古来中国では南北軸より東西軸に重きを置く傾向があり、五行でも南北の玄武=朱雀より東西の龍=虎が人口に膾炙した。そのため龍と虎を含む言い回しも多い。そういう状況下で羅漢に加えられた慶友と玄奘のうち一方が降龍羅漢と呼ばれたため、玄奘が伏虎羅漢と呼ばれるようになった可能性はある。慶友と玄奘がペア、龍と虎もペア、慶友が龍なら玄奘は虎だという図式である。そしてそのことが虎を伴う行脚僧に影響したに違いない、というのが中野美代子氏の主張するところである。

    【横たわる難問】
    《虎を伴う行脚僧》と《十八羅漢》の考察から玄奘が虎と深い関わりを持っているという仮説はかなり信ぴょう性を帯びてきた。しかしこれをもってしてもなお作者が直交軸の虎に三蔵を当て嵌めたとは言い切れない。何故か。

    《虎を伴う行脚僧》は敦煌莫高窟で1900年に発見されたが、西夏がこの地を占領した頃に、大量の文章や絵画が塗り込められた壁の向こうの小窟に隠され、以降約900年の間忘れ去られていた。だから明末に生きた作者はこの絵の存在は知らないのである。では同様の構図の絵が明末の中国に残っていたか?中野氏によればこの構図の絵は敦煌を中心とする西北地方において描かれるようになり、さらにひろがったのであろう、ということだ。

    この絵が発見されて以降、様々な研究がなされているが、他の地域で保管されている同様の絵との比較研究というものが無いところをみると現在他の地域には同様の構図の絵は無いと推察できる。そこで次の疑問はどこまで拡がりいつ頃散逸してしまったのかであるが、管見ではそのような絵がどこそこにあったという文献、或いは昔誰それが日本に持ち帰ったという話を知らない。要は作者が虎を伴った行脚僧を知っていたかどうかを判断する材料がないのである。

    敦煌が寂れた後も修行僧はそこで修業を続け、礼拝者もあったとスタインの記録にある。作者が生きた16世紀、西域のトルファンが勢力を拡大し、それまで明の管轄下にあったハミや敦煌を占領してしまい、1524年に明は嘉峪関を閉ざし、敦煌はトルファンの支配下となった。だから作者が敦煌には行ったことはなかったろう。しかしそういう構図のお札のようなものが敦煌あたりにある(まだあればの話だが)、という伝聞さえも耳に入らなかったとは断言できない。

    次に《十八羅漢》であるが、中野氏が指摘するように増えた二人が最初は慶友と玄奘だったとして、それを作者が知っていたか?という疑問が残る。清代第6代皇帝乾隆帝は17番目を大迦葉、18番目を弥勒菩薩としている。皇帝が2羅漢を任命したわけだが、おそらく当時増えた2羅漢は誰か?という話題があり、「では朕が選ぶ」ということだったのではなかろうか。乾隆帝の在位は1735〜1796年、世本(1592年出版の世徳堂本)西遊記から150〜200年ほど後のことだが、その当時既に玄奘羅漢説は主流ではなかったのであろう。
    虎を伴った行脚僧も十八羅漢も三蔵と虎の関わりが深かったことを示す好材料ではあるが、そもそもそれを作者が知らなかったならば「三蔵=寅」仮説には使えないのである。

    作者はこれを知っていたか?これが今現在究極の問いとなるのだが、私は知っていたように思う。第14回に次のようなエピソードがある。悟空両界山で仕留めた虎の皮をはぎ自分の腰に巻き付けるのである。これは虎を伴った行脚僧の再現ではなかろうか?また掲載の行脚僧中、下の2例は雲に乗っている。これも西遊記の三蔵が帰りは雲に乗って長安に帰ったのと一致している。

    最後に西遊記中、三蔵と虎が関係している例を三つ紹介しておく。一つは黄袍怪事件で三蔵は虎に変えられてしまう。二つめ、車遅国事件の術比べで虎力大仙と戦ったのは三蔵である。三つめ、取経の旅14年間のうち寅年が一度ある。それは貞観22年の戊寅である。他方、三蔵が自分の年齢に言及する箇所が第93回の天竺国にせ公主事件(貞観27年)の他もう一か所ある。第64回荊棘嶺事件のときである。この事件は三蔵が木の精たちに攫われ、始めは和やかに詩のやり取りをしているが最後は杏の精に結婚を迫られるという事件である。自己紹介する場面で三蔵は「四十年前生まれ出て」(P150)と言う。貞観27年で45歳であったからこの時はそれより5歳若いから貞観22年ということになる。即ち寅年である。この回に虎は現れないが事件の主人公は三蔵である。この年の事件はこれだけであり、作者が意図的に寅年に三蔵が主人公になる話を据えたかどうか・・・この回にわざわざ三蔵に年齢を語らせ、今貞観22年戊寅であることを読者にそれとなく喚起させたのではないか?

    以上の考察から三蔵=寅の決定的な根拠を示すには至らなかったが、悟空が腰に巻いた虎の皮などは作者が虎を伴った行脚僧を知っていたことを窺わせる。虎と三蔵をなんらかの形で結びつけるというアイデアを作者が持っていたと考えることはあながち突飛な発想でもないように思う。

引用返信/返信 削除キー/
■5392 / inTopicNo.101)  田秋総合研究所 4
□投稿者/ パニチェ -(2020/08/18(Tue) 20:58:13)
    トピ主:田秋さん

    No3536に返信(田秋さんの記事)

    > 田秋=Turkey=おマヌケ(?) 総合=なんでも、研究所=酒の肴にする

    とのことです。

    少し早目ですが作っておきました。

    引き続きよろしくお願いします。


引用返信/返信 削除キー/

<前の12件

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -