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■5435 / inTopicNo.73)  Re[17]: minoriさまへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/21(Fri) 21:49:09)
    「哲学」ってなあに? っていう問いから、ドアをノックしてみた。

    コンコン、
    ドアが開いて、そこにはデカルトが立っていた。
    「やあ!よく来たね。まあ、入ってお茶でものみながら話をしていきなさいよ。」
    彼は自分の考えていることを語ってくれた。そしてわたしに問いかけてくる。
    「私はこう考えいるんだけど、あなたはどう思う?」って。

    またあるドアをノックすると、
    ドアが開いて、そこにはカントが立っていた。
    「やあ!よく来たね。まあ、入ってお茶でものみながら話をしていきなさいよ。」
    彼は自分の考えていることを語ってくれた。そしてわたしに問いかけてくる。
    「私はこう考えいるんだけど、あなたはどう思う?」って。

    ・・・

    またあるドアをノックすると、
    ドアが開いて、そこにはminpriさまが立っていた。

    >主観は、誰かが「こう観る、こう思う」こと<
    誰かの観念・思いが「主観」ね?
    じゃあ、みのりさまも「誰か」ね?





引用返信/返信 削除キー/
■5431 / inTopicNo.74)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ minori -(2020/08/21(Fri) 19:55:14)
    No5415に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > minoriさまにとっては、
    > 「主観」「客観」っていうの意味なの?


    カント関係なくでいいのかな。

    主観は、誰かが「こう観る、こう思う」こと。

    客観は、その誰かが多数で一致していること。
    つまり、主観も数多く集まれば客観になりやすい。

    そんなふうに私は考えてるよ。
引用返信/返信 削除キー/
■5415 / inTopicNo.75)  Re[15]: minoriさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/20(Thu) 21:16:22)
    minoriさまにとっては、
    「主観」「客観」っていうの意味なの?
引用返信/返信 削除キー/
■5406 / inTopicNo.76)  序文での結論
□投稿者/ minori -(2020/08/20(Thu) 09:11:21)
    私たちが思考法の変革された方法として想定するところのもの、つまり、私たちが物についてア・プリオリに認識するのは、私たちがそのうちへと置きいれるものだけである。

    これが、カントの言う〈コペルニクス的転回〉の記述である。

    ・・・・・
    『カント「純粋理性批判」入門』p29より引用


    以下、まとめます。

    物自体から直観の形式を通して触発されたものを人間は認識していて。

    その認識しているものを「現象」という言葉でカントは示している。

    「物自体」と「現象」は、峻別されなければならない。

    「物自体」は不可知である。
    「現象」の認識は、人間にとって共通の認識装置を通じて行われるという理由をもって、客観性のあるものとする。


    ☆☆☆
     暑さでレタスやキャベツがとても高いです。。。
    食べずにだめにしてしまうなんてことはできないですわ〜。
引用返信/返信 削除キー/
■5391 / inTopicNo.77)  Re[13]: 志向性
□投稿者/ minori -(2020/08/18(Tue) 20:39:12)
    悪魔ちゃん、レスありがとうございます。

    > わたしが「志向性」について知ってる?のは、フッサールの『デカルト的省察』からのもの。「志向性」についてはこの本のいろんなところにでてくるから、どこのを抜粋しようか迷ったんだけど、よさそうなところがあったので、そこを書き写してみますね。ちょっと長くなっちゃうんだけど、ごめんね。

    ありがとう〜。^^

    > 【…例えば、この机の知覚は、判断停止の後も、その前と同様に、まさにその机の知覚であるということ、このことに何ら変わらない、という点である。こうして、およそいかなる意識体験も、それ自身で何ものかについての意識である(10)。この対象となるものの正当な現実性の効力がどのような状態であれ、また、超越論的な態度をとっている者としての私が、自然的な態度(11)でもっていた効力のあれこれを差し控えるとしても、その点では変わりない。それゆえ、我思うという超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(12)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。
    >  例えば、家の知覚は家を、正確には、この個別の家としての家を思念しており、それを知覚という仕方で思念している。家の想起は想起という仕方で、家の想像は想像としという仕方で、それぞれ同じ家を思念している。また、知覚において「そこにある」その家についての述定的な判断は、その家をまさに判断という仕方で思念しているし、それに加わる価値づけはまた新しい仕方において、等々と、それぞれ思念している。意識体験を私たちが志向的と呼ぶとき、この志向性という言葉(13)は、何かについての意識であること、すなわち思うこととしてその思われたものを自らのうちに伴っていること、ほかならぬまさにこのことを意味している。】
    >
    > ここに「超越論的」っていうの出てきてるけど、フッサールはカントの用語を使用しながらもカントのとは違う意味で使ってるとわたし見てます。そもそも「超越的なもの」っていうのがカントのとは違う。カントの意味で見ない方がいいかも。

    うん。超越論的でも、カントとフッサールでは内容が違う、というのは前に教えてもらった時に触れたよね。^^

    > 訳注で〜す。
    > (10)これは、意識の志向性を表すテーゼとして有名になったもので、志向性について語るとき、ハイデガーやサルトルもこのテーゼを使っている。
    > (11)われわれがごく普通に日常的な生活を送っているとき、そのことを意識しないまま、すでに世界の存在そのものを信じている(「世界信憑」と呼ばれる)という態度をとってしまっている。本書ではこれまでずっとただ「自然に」という言い方だけがされていたが、ここで初めて「自然的な態度」という『イデーンT』以来定着した表現が使われる。
    > (12)cogitatum:「コギト(cogito)」の原形「コギターレ(cogitare)」の過去分詞形。序論の注(6)で触れた「思うこと(コギタチオ)」と相関関係をなす。
    > (13)フッサール現象学の根本概念であり、現象学に対する評価も批判もこれをめぐって行われるが、すでにフッサール自身においてその思索の進展とともに拡大されて深化されて使われており、「意識とは何かについての意識である」という、当初、人口に膾炙した定義だけではもはや充分ではない。とりわけ本書(第14節)でも「思うこと(コギト)と思われたこと(コギタートゥム)」(あるいは「ノエシスとノエマ」)との相関として語られる一方で、他の箇所(第九・十九節など)で論じられる「地平」についての考察は、そうした相関の図式をはみ出すものを持っており、フッサールのかつての助手ルートヴィッヒ・ラントグレーベも強調したように、この「地平志向性」の発見は「志向性」の思想を決定的に飛躍させるものだった。ここから本書でも後から出てくる「受動的綜合」や「運動感覚」への道が開けることになるが、その時、この志向性はもはや「自我的」というより、「自我に先立つ(vor-ichlich)」何かをも表現しようとしている。超越論的主観性が自然的態度においては「匿名的」に機能しているという考えも、ここから理解すべきである。
    >
    > 「現象学事典」からのもちょっと。
    > 〔・・・つまりこの志向性の問題はフッサールを必然的に、認識論と存在論と自我論を連結統合する広範の研究領野へ導き、さらに時間論の考察も促す根本動因であるから、彼の著書、講義録のどれもが実にさまざまな観点から志向性の構造と諸機能を詳細に論述している。ここではそれらの中からとくに重要な事項だけを選んで略述する。(1)対象へ向かう志向と地平的志向性(2)対象に意味を付与する構成的能作としての志向性(3)受動的志向性(4)志向的総合と内的時間意識〕
    >
    > (1)~(4)のそれぞれについて書かれてあるんだけど、長くなっちゃうから省略するね。
    >
    > 「志向」はintentionで、tendere「緊張する、向かう、目指す、努力する」の派生語のようです。
    >
    > んで、わたしの見えは、
    > 「志向性」っていうのは、〈意識において何かが何かに向かってる〉って見てる。大きく分けて、私の外へ向かう志向性と、意識の内での志向性。意識内で何かが何かに向かってる、っていうことは、意識が分節されている、っていうことになるよね?
    >
    > こういうのがおおまかなわたしの「志向性」。


    そうなんですね。 ちょっと、いや、かなり詳細に渡ってるんですね。
    今のところ、私にはわからないです。
    せっかく書いてくれたのにごめんね。<m(__)m>

    > 「これが現象学だ」のサイコロの例の、
    > >そうした「現出」としての感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・体験している<
    > っていうの、「地平的志向性」のことを言っているのかな〜?
    > 谷徹さんの逆にわたしにわかりにくくしてるように見えるんね。
    > ひょっとしたら、わたしがわかんなかったのは、minoriさんが、「谷徹のフッサールの志向性」を、”わかりやすい”、って思ったこと、なのかも?

    うん。なんていうか、おんなじ本を読んでいれば、「何ページの何々にこうあるよね?」のようにやりとり可能だけど、そうでないとなかなかね。。


    > ほかにも言いたいことはあるんの。たとえば『デカルト的省察』のなかでサイコロを例にして記述してるところね。
    >
    > でも、もうやめるね。

    今、黒崎さんのカントがおもしろくて、そっちを読んでるのね。
    もうちょい読んでまとめたりしたら、『これが現象学だ』もきちんと読むつもり。
    そしたらまた、現象学のこと、よかったら教えてね。
引用返信/返信 削除キー/
■5390 / inTopicNo.78)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ minori -(2020/08/18(Tue) 19:59:31)
    朝、私が投稿したのの中に誤字を見つけてさ〜。
    投稿しなおしたの。

    順番逆でごめんね。
    今から拝見していきますね。
引用返信/返信 削除キー/
■5389 / inTopicNo.79)  同時的事態
□投稿者/ minori -(2020/08/18(Tue) 19:57:38)

    例えば、空間・時間はものが成立するための形式ではなく、私たちの直観の形であること。
    「原因と結果」などの因果律は、ものの存在様式ではなく、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している、などなど。
    これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、〈認識〉が成りたつことと、その〈認識の対象〉、つまりものが成立してくることとは同時的事態である、とカントは主張しているのである。
     この主張こそ、従来の、観念論対実在論、経験論対合理論などの対立を乗りこえるカントの核心的主張である。
    ・・・・・
    『カント「純粋理性批判」入門』p27より引用


    この本は、「ここだ」という大切な部分をちょうどいい部分で提示してくれながら進んでいくようで、うすぼんやりとした理解の薄皮が剥がされていくような感じがしながら読んでいます。

    上に引用させていただいた部分から私見も交えて書いてみます。

    もし仮に、神が世界を認識するなら、空間・時間が直観の形式としてアプリオリに備わる人間とは違う世界を観る、ということになるのだと思います。
    それは、限定や区別から一切離れた無限定な観方になるのかもしれません。
    しかし、人間はそうではなく、空間・時間という直観の形式を通してしか世界を認識することはできない。
    因果律についても、それを理解する人間側の能力なしには成立しない考え方であり、自然(世界)の側に因果律が備わっているのではけしてない。

    よく考えてみると納得のいくものなのですが、以前は純粋理性批判の厳めしさに圧倒されそうになり、考えてみることを拒否したくなっていたのでした。

    経験と対象は同時に成立する、というのは。
    「観る」ことと、そこにあるは同時。
    「聞く」ことと、聞こえるは同時。
    というようなことを例えれば言っているのだと思いますし、納得のいくものです。


     引用過多では問題なので、再度押さえていきたいポイントや、興味深いところに絞り、これから少し投稿をしていこうと思います。


    浜松ではここ最近、連日40℃越えのようですね。
    暑さでトマトがおいしくなってるのは嬉しいのですが・・・


    ※ 誤字があったのに気づいたので再投稿しています。
引用返信/返信 削除キー/
■5386 / inTopicNo.80)  Re[12]: 志向性
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/18(Tue) 19:22:03)
    minoriさま、
    フッサールンの「志向性」について、

    わたしが「志向性」について知ってる?のは、フッサールの『デカルト的省察』からのもの。「志向性」についてはこの本のいろんなところにでてくるから、どこのを抜粋しようか迷ったんだけど、よさそうなところがあったので、そこを書き写してみますね。ちょっと長くなっちゃうんだけど、ごめんね。

    【…例えば、この机の知覚は、判断停止の後も、その前と同様に、まさにその机の知覚であるということ、このことに何ら変わらない、という点である。こうして、およそいかなる意識体験も、それ自身で何ものかについての意識である(10)。この対象となるものの正当な現実性の効力がどのような状態であれ、また、超越論的な態度をとっている者としての私が、自然的な態度(11)でもっていた効力のあれこれを差し控えるとしても、その点では変わりない。それゆえ、我思うという超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(12)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。
     例えば、家の知覚は家を、正確には、この個別の家としての家を思念しており、それを知覚という仕方で思念している。家の想起は想起という仕方で、家の想像は想像としという仕方で、それぞれ同じ家を思念している。また、知覚において「そこにある」その家についての述定的な判断は、その家をまさに判断という仕方で思念しているし、それに加わる価値づけはまた新しい仕方において、等々と、それぞれ思念している。意識体験を私たちが志向的と呼ぶとき、この志向性という言葉(13)は、何かについての意識であること、すなわち思うこととしてその思われたものを自らのうちに伴っていること、ほかならぬまさにこのことを意味している。】

    ここに「超越論的」っていうの出てきてるけど、フッサールはカントの用語を使用しながらもカントのとは違う意味で使ってるとわたし見てます。そもそも「超越的なもの」っていうのがカントのとは違う。カントの意味で見ない方がいいかも。

    訳注で〜す。
    (10)これは、意識の志向性を表すテーゼとして有名になったもので、志向性について語るとき、ハイデガーやサルトルもこのテーゼを使っている。
    (11)われわれがごく普通に日常的な生活を送っているとき、そのことを意識しないまま、すでに世界の存在そのものを信じている(「世界信憑」と呼ばれる)という態度をとってしまっている。本書ではこれまでずっとただ「自然に」という言い方だけがされていたが、ここで初めて「自然的な態度」という『イデーンT』以来定着した表現が使われる。
    (12)cogitatum:「コギト(cogito)」の原形「コギターレ(cogitare)」の過去分詞形。序論の注(6)で触れた「思うこと(コギタチオ)」と相関関係をなす。
    (13)フッサール現象学の根本概念であり、現象学に対する評価も批判もこれをめぐって行われるが、すでにフッサール自身においてその思索の進展とともに拡大されて深化されて使われており、「意識とは何かについての意識である」という、当初、人口に膾炙した定義だけではもはや充分ではない。とりわけ本書(第14節)でも「思うこと(コギト)と思われたこと(コギタートゥム)」(あるいは「ノエシスとノエマ」)との相関として語られる一方で、他の箇所(第九・十九節など)で論じられる「地平」についての考察は、そうした相関の図式をはみ出すものを持っており、フッサールのかつての助手ルートヴィッヒ・ラントグレーベも強調したように、この「地平志向性」の発見は「志向性」の思想を決定的に飛躍させるものだった。ここから本書でも後から出てくる「受動的綜合」や「運動感覚」への道が開けることになるが、その時、この志向性はもはや「自我的」というより、「自我に先立つ(vor-ichlich)」何かをも表現しようとしている。超越論的主観性が自然的態度においては「匿名的」に機能しているという考えも、ここから理解すべきである。

    「現象学事典」からのもちょっと。
    〔・・・つまりこの志向性の問題はフッサールを必然的に、認識論と存在論と自我論を連結統合する広範の研究領野へ導き、さらに時間論の考察も促す根本動因であるから、彼の著書、講義録のどれもが実にさまざまな観点から志向性の構造と諸機能を詳細に論述している。ここではそれらの中からとくに重要な事項だけを選んで略述する。(1)対象へ向かう志向と地平的志向性(2)対象に意味を付与する構成的能作としての志向性(3)受動的志向性(4)志向的総合と内的時間意識〕

    (1)~(4)のそれぞれについて書かれてあるんだけど、長くなっちゃうから省略するね。

    「志向」はintentionで、tendere「緊張する、向かう、目指す、努力する」の派生語のようです。

    んで、わたしの見えは、
    「志向性」っていうのは、〈意識において何かが何かに向かってる〉って見てる。大きく分けて、私の外へ向かう志向性と、意識の内での志向性。意識内で何かが何かに向かってる、っていうことは、意識が分節されている、っていうことになるよね?

    こういうのがおおまかなわたしの「志向性」。

    「これが現象学だ」のサイコロの例の、
    >そうした「現出」としての感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・体験している<
    っていうの、「地平的志向性」のことを言っているのかな〜?
    谷徹さんの逆にわたしにわかりにくくしてるように見えるんね。

    ひょっとしたら、わたしがわかんなかったのは、minoriさんが、「谷徹のフッサールの志向性」を、”わかりやすい”、って思ったこと、なのかも?

    ほかにも言いたいことはあるんの。たとえば『デカルト的省察』のなかでサイコロを例にして記述してるところね。

    でも、もうやめるね。

引用返信/返信 削除キー/
■5379 / inTopicNo.81)  同時的事態
□投稿者/ minori -(2020/08/18(Tue) 07:44:20)
    例えば、空間・時間はものが成立するための型式ではなく、私たちの直観の型式であること。
    「原因と結果」などの因果律は、ものの存在様式ではなく、私たちの主観的なカテゴリーの側に属している、などなど。
    これらの条件によって私たちの経験は成立するのだが、私たちの経験、〈認識〉が成りたつことと、その〈認識の対象〉、つまりものが成立してくることとは同時的事態である、とカントは主張しているのである。
     この主張こそ、従来の、観念論対実在論、経験論対合理論などの対立を乗りこえるカントの核心的主張である。
    ・・・・・
    『カント「純粋理性批判」入門』p27より引用


    この本は、「ここだ」という大切な部分をちょうどいい部分で提示してくれながら進んでいくようで、うすぼんやりとした理解の薄皮が剥がされていくような感じがしながら読んでいます。

    上に引用させていただいた部分から私見も交えて書いてみます。

    もし仮に、神が世界を認識するなら、空間・時間が直観の型式としてアプリオリに備わる人間とは違う世界を観る、ということになるのだと思います。
    それは、限定や区別から一切離れた無限定な観方になるのかもしれません。
    しかし、人間はそうではなく、空間・時間という直観の型式を通してしか世界を認識することはできない。
    因果律についても、それを理解する人間側の能力なしには成立しない考え方であり、自然の側に因果律が備わっているのではけしてない。

    よく考えてみると納得のいくものなのですが、以前は純粋理性批判の厳めしさに圧倒されそうになり、考えてみることを拒否したくなっていたのでした。

    経験と対象は同時に成立する、というのは。
    「観る」ことと、そこにあるは同時。
    「聞く」ことと、聞こえるは同時。
    というようなことを例えれば言っているのだと思いますし、納得のいくものです。


     引用過多では問題なので、再度押さえていきたいポイントや、興味深いところに絞り、これから少し投稿をしていこうと思います。


    浜松ではここ最近、連日40℃越えのようですね。
    暑さでトマトがおいしくなってるのは嬉しいのですが・・・



     


引用返信/返信 削除キー/
■5355 / inTopicNo.82)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ minori -(2020/08/16(Sun) 22:51:42)

    > なのね、わたしこう思ってるの
    >
    > 人間や人と世界の関わり方のなかで、
    > 人間をいわゆる性別とか、肌の色とか、国民とういう分類の仕方で見るこがどうなのかな?って思ってるだけなの。
    >
    > みのりさまも、〈人間味〉っていうのはこういう分類の仕方のことじゃないことを言ってるんよね?


    私が書いた「人間味」っていうのは、そのままの意味だったよ。
    いわゆる短所みたいなものもあったんだろうな的な。
    でもそこは流れで書いたようなもので、あまり深く追及しないで〜。(できたら)

    カントが人種差別とも取れるような文章を書いたのも、学術的な必要性から書いたものだろうし、当時は読むのはヨーロッパの人たちだけだったろうから、問題視もされなかったんじゃないのかな。
    後に私たちが知ると、「ほう。。」とは感じるけどね。
    ニーチェが女性蔑視とも取れるような書き方をしてたのも、意味あってのことらしいですね。(不確かな情報を書いてもなんなので触れませんが。)

    悪魔ちゃんの主旨と違ってたらごめんね。



    > >そしたら、悪魔ちゃんがご存じの「志向性」説明をよかったらですが、紹介して〜<
    > うん、後で書くね。


    うん。気がむいたらで。^^
引用返信/返信 削除キー/
■5352 / inTopicNo.83)  Re[9]: minoriさんへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/16(Sun) 21:33:18)
    なのね、わたしこう思ってるの

    人間や人と世界の関わり方のなかで、
    人間をいわゆる性別とか、肌の色とか、国民とういう分類の仕方で見るこがどうなのかな?って思ってるだけなの。

    みのりさまも、〈人間味〉っていうのはこういう分類の仕方のことじゃないことを言ってるんよね?

    >そしたら、悪魔ちゃんがご存じの「志向性」説明をよかったらですが、紹介して〜<
    うん、後で書くね。

引用返信/返信 削除キー/
■5349 / inTopicNo.84)  Re[8]: 志向性
□投稿者/ minori -(2020/08/16(Sun) 21:13:08)
    悪魔ちゃん、こんばんは。
    さま って柄じゃないし、さん でいいよ。^^

    > >サイコロを奥行きのある物体として見る時、表面から見ての側面に当たる面が平行四辺形に見えたりしますが、そうした「現出」としての感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・体験している。<
    >
    > これで、フッサールの言う「志向性」、わかりやすいの?
    > みのりさまって学業優秀ね。
    > わたしにはなに言ってるのかのかじぇ〜んじぇんわかんない。

    そうか〜。 そしたら、悪魔ちゃんがご存じの「志向性」説明をよかったらですが、紹介して〜。


    > ニーチェの『善悪の彼岸』の145にこんなのが書いてあたのを思いだしたよ。
    > 【男と女を全体的に比較して、こう言ってよいであろう。わき役を演じる本能を持たないような女は、化粧の天才をもたないであろう、と。】
    > ■5332ということにおいて、わたしニーチェもさほど大差ない気がするけどね。


    知らなかったけどあんまり驚かないかな。
    ニーチェは、道徳道徳言ってなかったと思うし、別に。。(沢尻エリカ風に)

    聞くところによると、カントも女性をディスってたそうよ。

    みんなそんなもんなんじゃないかな。
    人間味があってよきかな。 
引用返信/返信 削除キー/

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