| minoriさん ■5535で紹介してくれた引用の部分の >悟性(知性)と感性とは、それぞれ表象を生じさせる二つのまったく異なる源泉であり、しかも、この両者が合一してのみ、物に関して客観的に妥当する判断をなし得るのである。< のところ、カントは〈感性と悟性を異なる源泉〉として見ている、っていうのわたし受け入れる。
でもね、カントには「客観的に妥当する判断」のための、っていうのが前提にあるんじゃないかしら?わたしここ問題としてる。
メルロの『行動の構造』から抜粋して見ます。 【・・・カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(34)。】 原注です。 (33)「超越論的感性論」(バルニの仏訳)は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。 (34)『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準‐−それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。
わたしが思うに、カントの場合「客観的に妥当する判断」で”なければならない”ものを導き出したかったんじゃないかしら?
|