| 悪魔ちゃん、コメントいつもありがとう!
> 『知覚の現象学』の訳注に、 > 〔「秘められた技術」:カントが「純粋悟性概念の図式性」について述べた言葉、「諸現象とその単なる形式に関するわれわれの悟性のこの図式性は、人間の魂の深みにある秘められた技術eine verborgene Kunstである(傍点訳者)。そこでいつの日かその真の工みをわれわれが自然から察知して、赤裸々にその姿を眼前にさらさせることは、困難なことだろう。」(Kant, Kr. d. r. Vernunft, B. S. 180-1)なおカントは感性と悟性を「二つの幹」と呼び、「恐らく共通の、しかしわれわれには未知の根基から発出する」ものとなしている(Vgl. Ibid., B. S. 29)。この未知の根基をハイデガーは「想像力」と見なす。〕 > ってあったよ。<
引用ありがとう 想像力、と訳してる単語を、黒崎先生は構成力と訳してると思ってるよ。 ハイデガーは、この未知の根が、人間の想像力・構成力とみなしてるんだね。
> わたしの感想なんだけど、 > カントは意識の働きを「感性」と「悟性」に分節しているのね。そして意識の働きに「総合」っていうのあるから、この両者を結びつける“何か”があるはず、って思って、それをどういう名で呼ぼうとも「未知の根」(メルロでは「秘められた技術」)なんじゃないかな? > でもね、わたし、意識の働きって「感性」「悟性」だけじゃないと思うんね。<
感想を言ってくれてありがとう。 嬉しいよ。 意識をどう位置づけるのか難問だと思うんだけど、 とりあえずはカントは 心の能力に感性と悟性がある、というような考え方をしてるんじゃないかと私は今のところ思ってるよ。 心って、なに、ってなると難問だけどね。
パラパラと見て、みつけた、心の能力と言ってるとみえる、カントの文章を引用するね。 中山元先生の訳です。
『わたしたちが対象から触発されるということは、わたしたちの心のうちに[対象の]像[=表象]を形成する能力がそもそも存在していて、これに対象が働きかけ、そこでわたしたちのうちに感覚が生まれるということである。』 『純粋理性批判1』中山元先生訳、p70
『すべての現象の〈素材〉はわたしたちにアポステリオリに与えられるのだが、[現象が与えられる]その〈形式〉はすでにわたしたちの心のうちにアプリオリに与えられている』 同本p71より引用
心、意識、は、難問そうだね。
ところで、悪魔ちゃんは、 意識の働きって、どんなものと考えてるの??
> それと、 > >第二版書き換え問題< > なんだけど、 > >『本書で提示した命題と、その命題の証明の根拠について、さらに本書の計画の形式とその完全さについて、修正すべき点は発見できなかった。それは本書の刊行に先だって、わたしが長い時間をかけて吟味したからであり、あるいは問題となっている事柄の性質に(略)よるからでもある。』< > って言ってるみたいだから、カントが本当に言いたいことは、第一版の方じゃなくて第二版の方なんじゃないかしら? > > って。<
もし、カントの言説を全部信じるなら、第一版と第二版は同じ内容だから、第二版で読み取れる意味だけを考えればいい、し、
仮に違っていてるように見えても、
なんであれ、カント自身が改訂したのだかや、第二版の内容を尊重するのが、いいような気がするよね。
でも、ハイデガーたちは、カントを疑ってるんだと思うよ。
こわくなって、言い換えて、しかも、言ってなかったことにしようとしてるんじゃないか、って。
なんで書き換えたのか、というハイデガーの推測も出てくるみたいだから、もしよかったら、読んでいくのまっててね(もちろん、待たないのも悪魔ちゃんのご随意に、やけど)
いつもありがとう。 暑い日だったかな?おつかれさま(^ ^)
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