| おくったがわさまへ ■5439、おかげでなんとなく見えてきた感じ。ありがと。
小牧治さんの『カント』のなかにこんなのがあった。
カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、われわれが、そういう対象をつくりあげていくのだ。」「われわれの側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」「われわれの外の自然に、われわれから独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。とカントは考えた。
って。
わたしのを。たとえば、 わたしの前にあるこの一冊の本は、わたしのうちで構成された本であって、そこにある「本そのもの」ではない。そしてわたしはその「本そのもの」を認識することができない。 っていうのが、カントの「物自体」とこんな感じにしときますね。
おそらくフッサールやメルロもこんな感じなんだとわたし思ってる。でもね。
ppipitさま、ごめんなさいね、ここからは、現象学入ってきちゃう。
おくったがわさまの見えで、 >意外に似ている気がするのですが< はわたしもそう思う。 でもね、わたしにとって問題なのはカントのとフッサールとの違い。
フッサールの『デカルト的省察』の訳注に 〔Transzendenz ireellen Beschlossenseins:直訳すると、「非実質的に含まれているという超越性」となる。『イデーンT』でも、「物が意識に対してもつ超越性とか「自体存在」とかいう言い方に騙されてはならない。物的なものの超越性の本当の概念は、知覚の本質内実から以外には汲まれることができない。・・・自体的に存在する対象とは、決して、意識にまったく関わらないようなものではない」(第47節)と述べられ、また、「物の超越性は、直観の進行における無際限性に表現されている」(第149節)のであって、知られざる「物自体」の超絶性なのではない。〕って書かれてる。
あまり長くなるといけないから、いまのところのまとめを書いとく。 カントの場合、<物自体としての対象>だから、「物自体」は私にとっての”対象”っていうことだから、カントにとっての「物自体」は私の外にあるもの、っていうことになるんじゃないかしら?でもフッサールの場合は、私の内にあるものってしてるんだと見てる。
こういうのがわたしに見えてきた感じ。
カントもフッサールも、この〈物自体〉は認識することが難しい。それゆえ認識を超えたものとして、超越的ってなるんだけど、カントとフッサールの「超越なもの」が異なってる。だから超越論的も違ってくる。
わたしフッサールのばあいは人の知覚の領域だと思ってるけど、カントの場合どうなのかしら?「神」?
「物自体」を私の外に置くか、私の内に置くか、っていう見方。でもね、メルロは「身体」を持ち出すの。
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