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■5465 / inTopicNo.49)  みのりさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/08/23(Sun) 00:23:56)
    こんばんは

    引用ミスは、作者に対しても、引用を読む方にも、本当に申し訳ないことだと思っていますが、
    きっとこの先も、pipitはミスしてしまうでしょう。
    すみません、という気持ちです。

    毎日とても暑いですね。
    奈良公園の鹿も、少しでも涼しい場所を求めて溝に居るのでしょうね。
    この暑さは大変でかわいそうに思います。
    せめて夕方から涼しくなるといいけど、
    夜中まで暑そうですもんね。

    はやく涼しくなってほしいなぁ



引用返信/返信 削除キー/
■5462 / inTopicNo.50)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/08/22(Sat) 23:14:47)
    pipitさん、お邪魔します。

    私も先日。 形式を型式って誤打して気づかずにいて、後でふと気づき焦りました。。。($・・)

    お互い、ドンマイで行きましょう〜。^^


     奈良公園の鹿が、県庁前の側溝の中に一列に座って暑さ除けしてる、っていうのをおとといだったかヤフーニュースで観ました。
    なんだかかわいそうにも感じた(主観)けど、それが鹿にとってはいいんですもんね。
引用返信/返信 削除キー/
■5452 / inTopicNo.51)  Re[35]: 物自体
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/22(Sat) 18:08:12)
    おくったがわさまへ
    ■5439、おかげでなんとなく見えてきた感じ。ありがと。

    小牧治さんの『カント』のなかにこんなのがあった。

    カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、われわれが、そういう対象をつくりあげていくのだ。」「われわれの側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」「われわれの外の自然に、われわれから独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。とカントは考えた。

    って。

    わたしのを。たとえば、
    わたしの前にあるこの一冊の本は、わたしのうちで構成された本であって、そこにある「本そのもの」ではない。そしてわたしはその「本そのもの」を認識することができない。
    っていうのが、カントの「物自体」とこんな感じにしときますね。

    おそらくフッサールやメルロもこんな感じなんだとわたし思ってる。でもね。

    ppipitさま、ごめんなさいね、ここからは、現象学入ってきちゃう。

    おくったがわさまの見えで、
    >意外に似ている気がするのですが<
    はわたしもそう思う。
    でもね、わたしにとって問題なのはカントのとフッサールとの違い。

    フッサールの『デカルト的省察』の訳注に
    〔Transzendenz ireellen Beschlossenseins:直訳すると、「非実質的に含まれているという超越性」となる。『イデーンT』でも、「物が意識に対してもつ超越性とか「自体存在」とかいう言い方に騙されてはならない。物的なものの超越性の本当の概念は、知覚の本質内実から以外には汲まれることができない。・・・自体的に存在する対象とは、決して、意識にまったく関わらないようなものではない」(第47節)と述べられ、また、「物の超越性は、直観の進行における無際限性に表現されている」(第149節)のであって、知られざる「物自体」の超絶性なのではない。〕って書かれてる。

    あまり長くなるといけないから、いまのところのまとめを書いとく。
    カントの場合、<物自体としての対象>だから、「物自体」は私にとっての”対象”っていうことだから、カントにとっての「物自体」は私の外にあるもの、っていうことになるんじゃないかしら?でもフッサールの場合は、私の内にあるものってしてるんだと見てる。

    こういうのがわたしに見えてきた感じ。

    カントもフッサールも、この〈物自体〉は認識することが難しい。それゆえ認識を超えたものとして、超越的ってなるんだけど、カントとフッサールの「超越なもの」が異なってる。だから超越論的も違ってくる。

    わたしフッサールのばあいは人の知覚の領域だと思ってるけど、カントの場合どうなのかしら?「神」?

    「物自体」を私の外に置くか、私の内に置くか、っていう見方。でもね、メルロは「身体」を持ち出すの。














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■5451 / inTopicNo.52)  Re[34]: 物自体
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/22(Sat) 17:19:29)
    ■5449、pipitさま、
    <物自体としての対象>っていうことだったなら、おかしくないから、わたしの問題はなくなるからOKね。

    おくったがわさま、■5438 、ありがと。

引用返信/返信 削除キー/
■5449 / inTopicNo.53)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/08/22(Sat) 16:45:00)
    黒崎先生の文章を、pipitが間違えて引用してました。
    ごめんなさいm(_ _)m



    > すみません!
    > pipitが、引用ミスをおかしていたのですねm(_ _)mm(_ _)m
    >
    >
    > 悪魔ちゃんにも
    > 黒崎先生にも申し訳ないです m(_ _)m
    >
    >
    > ○【物自体としての対象についての認識】と黒崎先生が書いてたものを、
    > pipitが間違えて、×【物自体の対象についての認識】と入力ミスしてしまっていました。
    >
    > だから、悪魔ちゃんが ( ? _ ? )となったんだね。
    > ごめんなさいm(_ _)m<
引用返信/返信 削除キー/
■5448 / inTopicNo.54)  おくったがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/08/22(Sat) 16:41:22)
    おくったがわさん、こんにちは(^O^)/
    すみません!
    pipitが、引用ミスをおかしていたのですねm(_ _)mm(_ _)m


    悪魔ちゃんにも
    黒崎先生にも申し訳ないです m(_ _)m


    ○【物自体としての対象についての認識】と黒崎先生が書いてたものを、
    pipitが間違えて、×【物自体の対象についての認識】と入力ミスしてしまっていました。

    だから、悪魔ちゃんが ( ? _ ? )となったんだね。
    ごめんなさいm(_ _)m

    おくったがわさん、教えていただいて本当にありがとうございます〜\(^o^)/


    No5438に返信(おくったがわさんの記事)
    > ■No5416に返信(pipitさんの記事)
    > 横からすいません。
    >
    >>引用開始
    > ・・・・・
    >>私たちは、〈物自体の対象〉についての認識を持つことはできず、〈感性的直観の対象となるもの〉、つまり、〈現象〉についてのみ、私たちは認識することができる。このことを、この『批判』は明らかにしていく。(B ]]XT)』
    >>引用終了<
    >
    > 〈物自体の対象〉ではなく
    > <物自体としての対象>についての認識を持つことはできず
    > ですね。
    > その違いのせいで悪魔ちゃんが
    > >〈物自体の対象〉はわたしのばあい、〈物自体に対する象〉ってなっちゃう。
    > と。
    > <物自体としての対象>であれば、「私(たち)に対する物自体の〜」と取れるでしょう。
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■5439 / inTopicNo.55)  Re[32]:
□投稿者/ おくったがわ -(2020/08/21(Fri) 23:43:43)
    今話題の2つの本で似たような発想があって面白く思ったので。

    「カント純粋理性批判入門」 p115
    ・真理の定義としての「認識とその対象との一致」(対応説的真理概念)
    に対する批判
     認識と一致しているか対象を調べるとき、そこにあるのはまた対象についての認識であり、対象そのものを認識と比べることはできない。
    「雪が白い」という認識が対象と一致するかを調べるため雪を見ても そこで得られるのはまた「雪が白い」という認識であり、対象そのものではない。それをまた調べようと対象に向かうとまた認識が…となり循環。

    「これが現象学だ」p48
    ・富士山の表象が「実存する対象」を持つかどうか調べるために実際の富士山を見ようとしても、人は表象の外に出て富士山を見ることはできない。得られるのはまた富士山の表象でしかない。ここで得た表象が実在を持つかどうか調べるため富士山を見ようとしても…循環。


    人は表象を介してしか、ものに触れることができない。というのは一致するよう。
    カントでは「物自体〜」となると思いますが、フッサールはどうなのか…。

    関連部分にフッサールの「超越論的」の説明があるので、ついでに。
    P50
    なぜ「超越論的」と呼ばれるか、その最大の理由は
    『表象の外部になにかが「存在する」ということは、その何かが表象を「超越している」ということを意味するからである。つまり、存在=超越である。』
    しかしそれは、表象の外には出られない我々が、表象の内部で「構成」したものだ。
    このことを忘れて人は、存在=超越が構成とは独立にあり、それを表象の外から(マッハ的光景の外に出て)、確認できると思ってしまう。
    これを『フッサールは「超越化的思考作用」とか「超越化的解釈」と呼んでいる。あるいは、後にメルロ=ポンティは「上空飛行的思考」と呼ぶ』
    『存在=超越は、私たちがマッハ的光景(表象)の内部で構成したもの、今も構成しつづけているものである。かくして、「超越論的」とは、こうした「存在=超越」を、その構成にまで引き戻して、学問的に問うときに用いられる言葉である。』

    意外に似ている気がするのですが…


    話変わります。最初に書いたカント入門の真理の対応説への批判は一般的と思え、異存はないのですが(あれは純粋理性批判にある内容ではなく黒崎さんが加えたものかも)
     それに続く部分に、カント独自の批判として黒崎さんがまとめたものがあり、以前読んだときその内容に疑問を感じたのが、今回読み直した動機でした。
     今回英文のその部分も見て、おおむねカント自身による批判だと確認しましたが、やっぱり変だなと。それはまた今度。
引用返信/返信 削除キー/
■5438 / inTopicNo.56)  Re[31]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ おくったがわ -(2020/08/21(Fri) 23:03:57)
    No5416に返信(pipitさんの記事)
    横からすいません。

    > 引用開始
    ・・・・・
    > 私たちは、〈物自体の対象〉についての認識を持つことはできず、〈感性的直観の対象となるもの〉、つまり、〈現象〉についてのみ、私たちは認識することができる。このことを、この『批判』は明らかにしていく。(B ]]XT)』
    > 引用終了<

    〈物自体の対象〉ではなく
    <物自体としての対象>についての認識を持つことはできず
    ですね。
    その違いのせいで悪魔ちゃんが
    >〈物自体の対象〉はわたしのばあい、〈物自体に対する象〉ってなっちゃう。
    と。
    <物自体としての対象>であれば、「私(たち)に対する物自体の〜」と取れるでしょう。


引用返信/返信 削除キー/
■5436 / inTopicNo.57)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/08/21(Fri) 21:49:23)

    > わたしの前にある梅干しは、〈感覚能力による直観の客体としての対象であり、現象としての物にすぎないことである〉、これわかるけど。これと、〈わたしが認識できるのは「梅干し自体」としての対象ではない〉がどのように結びつけられるのかがわたしにはわかんない。<

    悪魔ちゃんの感覚能力によって、梅干しの現象が悪魔ちゃんに現れてる。

    悪魔ちゃんの感覚能力が今とは違った仕様だと、悪魔ちゃんに現れる現象も変わると思う?

    感覚能力の仕様が変わってるとき、
    悪魔ちゃんに対して現れる梅干しの現象にも変化あると思う?



引用返信/返信 削除キー/
■5433 / inTopicNo.58)  Re[33]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/21(Fri) 20:53:51)
    >その象を、pipitは現象というけど、悪魔ちゃんは現象って言う?<
    うん、pipitさまと同じように、その象を現象っていうよ。

    >『だからわたしたちが認識できるのは、物自体としての対象ではなく、感覚能力による直観の客体としての対象であり、現象としての物にすぎないことである。』
    『純粋理性批判1』中山元先生訳、p170<
    うん、これならわかる。私に対する象(対象)は物自体じゃない、っていってるっていうこと、っていうことみたいだから?

    >『、だからわたしたちが認識できるのは、物自体としての対象ではなく、感覚能力による直観の客体としての対象であり、現象としての物にすぎないことである。』『純粋理性批判1』中山元先生訳、p170<
    わたしの前にある梅干しは、〈感覚能力による直観の客体としての対象であり、現象としての物にすぎないことである〉、これわかるけど。これと、〈わたしが認識できるのは「梅干し自体」としての対象ではない〉がどのように結びつけられるのかがわたしにはわかんない。

    でもね、これら、カントの「物自体」については語ってないよね?
    ”ではないもの”について語ってるだけ。


引用返信/返信 削除キー/
■5432 / inTopicNo.59)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/08/21(Fri) 20:05:10)
    こんばんは。
    私見書くね。

    > 〈物自体の対象〉?
    > わたし「対象」って、〈何かに対する象〉ってしてる。たとえばわたしの前に梅干しがあるけど、この梅干しはわたしに対する象として存在してる、っていう見方になる。これっておかしくないよね?<

    うん、その象を、pipitは現象というけど、悪魔ちゃんは現象って言う?
    言わない?

    > 〈物自体の対象〉はわたしのばあい、〈物自体に対する象〉ってなっちゃう。<

    ここは、多分、物自体=対象、という対象(客体)を、人間は認識できない、ということを言ってるのではないかと思ってる。
    黒崎先生の訳した箇所(多分)を、中山元先生は以下のように訳してるよ。

    『、だからわたしたちが認識できるのは、物自体としての対象ではなく、感覚能力による直観の客体としての対象であり、現象としての物にすぎないことである。』
    『純粋理性批判1』中山元先生訳、p170


    > 人間は「物自体」について認識することはできない。っていう言い方と、
    > 人間は「物自体の対象」について認識することはできない。っていうのは認識す対象が異なるとも思えるだけど。<

    上記で引用した、中山元先生の訳文、読んで、どう?
    【だからわたしたちが認識できるのは、物自体としての対象ではなく、感覚能力による直観の客体としての対象であり、現象としての物にすぎないことである。】
    人間の認識にとって、現象は対象にできるけど、物自体は対象にできない、ということかな、と、pipitは思ってるけど、もし、違和感あったら、気が向いたらまたその違和感教えてね。

    > わたしなりに考えて見たんだけど、やっぱカントの「物自体」わかんない。
    > も〜やんなっちゃう。<

    物自体は、カント哲学好き?の間でも、めちゃめちゃ
    あ〜やになっちゃう〜
    みたいな雰囲気でてるんじゃないかな〜?

    いろんな意見、解釈があるみたいだよ。

    私はまだ、全然理解できてないから、カントにとっての物自体の位置付けがどんなものになってるのか、わからないなぁ。

引用返信/返信 削除キー/
■5430 / inTopicNo.60)  Re[31]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/08/21(Fri) 19:14:59)
    ■5416、了解しました。ありがとう。
    わたし、カントの「物自体」ってうのどうしても気になるのね。
    いったいなんなの?ってね。

    で、引用してもらったカントの、
    >『現象とは、知覚の対象である。現象は、なんらかの客観一般の内容を含んでいる。(B207)私たちは、〈物自体の対象〉についての認識を持つことはできず、〈感性的直観の対象となるもの〉、つまり、〈現象〉についてのみ、私たちは認識することができる。このことを、この『批判』は明らかにしていく。(B ]]XT)』<
    について考えて見ました。

    1.現象とは、知覚の対象である。
    2.現象は、なんらかの客観一般の内容を含んでいる。
    3.私たちは、〈物自体の対象〉についての認識を持つことはできない。
    4.〈感性的直観の対象となるもの〉、つまり、〈現象〉についてのみ、私たちは認識することができる。
    ってして見ました。
    1でまずひっかかちゃた。知覚って人の意識のうちにあるものよね?その対象が現象?何言ってるのこの人、って思っちゃたのたのね。
    でもね、4から、〈現象〉=〈感性的直観の対象となるもの〉っていうことだから、1の「現象とは、知覚の対象である」は〈感性的直観の対象となるものとは、知覚の対象である〉ってなる。ん〜ん、これならわかる気がする。
    このような見方から、2も、うん、あるね。ってなる。

    でもね、この文において、3だけ浮いちゃってる気がする。

    〈物自体の対象〉?
    わたし「対象」って、〈何かに対する象〉ってしてる。たとえばわたしの前に梅干しがあるけど、この梅干しはわたしに対する象として存在してる、っていう見方になる。これっておかしくないよね?
    〈物自体の対象〉はわたしのばあい、〈物自体に対する象〉ってなっちゃう。
    人間は「物自体」について認識することはできない。っていう言い方と、
    人間は「物自体の対象」について認識することはできない。っていうのは認識す対象が異なるとも思えるだけど。

    わたしなりに考えて見たんだけど、やっぱカントの「物自体」わかんない。
    も〜やんなっちゃう。





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