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■7171 / inTopicNo.37)  Re[39]: 子どものように
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/28(Mon) 18:56:36)
    No.7163
    pipitさま

    >世界を私は複雑に考えすぎなのかなー<
    うん、わたしもそう見える。
    ねえ、カントって純粋なものを探してたんじゃなかったかしら?
    おとなになるつれ、いろんな知識を得てゆく。そこから純粋なものをを見ようとするから複雑になっちゃうんじゃないかしら?

    子どもになってみれば純粋なもの、あるいはアプリオリなものが見えてくるんじゃないかしら?

    第五図に〈金、幸福〉、〈貧乏、不幸〉って書いてあるけど。ねえ、これ、子どもにある?わたし、こういうのないと思う。

    「ニーチェ」っていう本の中に
    〔ニーチェによれば、明暗・表裏をふくめての生存全体を大きく肯定し、ありのままの存在と軽快に遊び戯れる無垢なる小児の立場こそが、「存在の主」としての本来の自分をとりもどす人間回復の自由を可能ならしめるものである。〕
    って書いてある。

    いわゆる大人になるうちにいろんな言説を得て、でなければならない的なの、私にに言いつけるっていうのあるけど、でもね、子どもってそれ以前の頃。

    大人になった私からみた子どもを見るんじゃなくて、これおそらく不可能だと思うけど、子どもになっちゃう、っていうこと、こういのって、わたし、たのしい。




引用返信/返信 削除キー/
■7165 / inTopicNo.38)  Re[38]: 小空性経
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/28(Mon) 06:17:42)
    No7146に返信(pipitさんの記事)

    Pipit さん、おはようございます。

    井上さんの解説凄いいいですね。
    私にタイムリーな論文でした。
    私はこれが第七図だと思ってる。
    つまり実在だけでは半分に過ぎないと思っているんです。
    私はラマナマハルシも読んだけど、マハルシは極めきれてないと思ってます。
    実在のみで非在がない。
    マハルシだけではなくてインドの聖者の共通点は空に行きっぱなしで戻ってこないんですよ。
    動画でマハルシの動き見てみてください。
    動きがほとんどなくて、あぁ空に入りっぱなしだなぁと感じます。
    これが中国や日本になると、空に入ってもまた現象世界に戻ってくるんです。
    ここに大乗仏教の真髄があると思ってます。
    マハルシのアシュラムにマハルシの遺体がまだ安置されてるそうですが、腐敗したそうです。

    仏陀や達磨や空海の遺体はどうなったか?



    > >>小空性経的な世界観の場合、第五図の身体は、肉体的身体が滅した後の物自体的な身体になるのではないか、と、今の段階のわたしは思いました。
    >>
    >>山下さんはそう捉えていると思います。小空性経に根拠を置いているわけではないと思いますが。<
    >
    > はい、私も、山下さんが小空性経に根拠を置いてるわけではない、と、そう思います。
    > 私の文章は説明不足だと思い、言葉を足して、私の考えてることを説明させてください。
    > 小空性経は、認識する主体については語られていなさそうなので、
    > 小空性経から山下さん的第五図解釈を導出することはできない、と、思います。
    >
    > 小空性経では、煩悩を滅して様々な煩いが滅したあとに残る、僅かな煩いとして、『六処ある身』が最後に出てきます。
    >
    >
    > 山下さんがもし、肉体的身体も第四図(現象に投げ入れられたもの)に属すると捉えるなら、
    > 山下さんにとっては、第五図の身体部分は、肉体的身体ではなく、物自体としての身体という解釈になるのではないか、と、今の段階の私は思いました。
    >
    > ここらへんは本当に繊細な対話になりますね。前提の共有、などの問題もあり、対話がすれ違ったり、すれ違ってるようにみえたりしても、いたしかたないように思えますが、、、きっと、いろんなことは、対話からも始まりますもんね (^ ^)
    >
    > 縁、というものかもしれないなぁと、今、感想が浮かびました。
    >
    > 感謝しています m(_ _)m
    >
    > 小空性経についての情報ページのアドレスを貼ります。
    >
    > 日本語訳・光明寺経蔵さまのページ
    > 『小空性経』(中部121)
    > https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn13/mn13c01.htm
    >
    > 井上ウィマラさんの論文
    > 『『小空経』における空の実践構造について』
    > https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/2/58_KJ00006159691/_pdf
    >
    > 井上ウィマラさんの論文は、たーぼーさんなら、興味深く内容がわかるのかな〜?と勝手に思ったけど、全然興味対象外だったらすみません。
    > 禅定の名前がいっぱい出てきますよ〜
    > (もちろん、どなたさまも、ご覧になるならないはどうぞご随意に、です!(o^^o))
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■7163 / inTopicNo.39)  Re[40]: 身体
□投稿者/ pipit -(2020/09/27(Sun) 22:41:40)
    悪魔ちゃんへ、こんばんは(^ ^)
    私の場合は、国語の問題的な意見を述べてるよ。

    質問1.内山老師は、どのような意図で、あの図を書いたか?
    質問2.山下さんという方は、あの図を、どのように解釈したのか?

    この二点について、pipitの意見を述べてるつもり。

    だから、悪魔ちゃんの、想像して書いてるん?、っていうの、pipitについては正確な読みだね。

    あの図は、pipitが書いたものでも、
    あれを解釈した山下さん自身でも、ないもんね。

    普遍がこの世界にあるとするなら、図を書いた人と同じ体験をした人だと、あの図の意味を正確に知ることができるのかなー、とも想像するけど。

    今日、ドミノピザのイチゴのシェーク食べたよ。
    めっちゃ、美味しかった!!

    悪魔ちゃん、想像できる?

    世界を私は複雑に考えすぎなのかなー。

    悪魔ちゃんは、自分が見たものは、きちんと存在してると確信してるの?

    私は、、、一応、見たものは『有る』と思って生活してるね、考えてみれば。



引用返信/返信 削除キー/
■7160 / inTopicNo.40)  Re[39]: 身体
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/09/27(Sun) 21:24:03)
    お邪魔〜。身体が目にとまったので。

    第五図、わたし、意味わかんないけど、その意味をいろんな人があれこれ”想像”して書いてるようだけど、わたしがみた第五図、少なくとも身体についてはな〜にも語ってないように見えるんだけど。身体をあのある絵(図)に含めちゃお〜、っていう手口、な〜んか、いやらしい〜。

    > 一つは、物自体的なもの。一つは、物自体と現象をつなぐ通り道としてあるもの。<
    これ、身体については語ってないよね。
    誰かが考え出した「物自体」との関係(前提)についてであったり、「現象(正しい現れ)」っていうそういう現象との関係において「通り道」としてのものとしてしか「身体」を見ようとしてない。

    すでに結論(信念)ありきなのかな?
引用返信/返信 削除キー/
■7151 / inTopicNo.41)  pipit さんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/27(Sun) 19:28:30)
    こんばんは。レスありがとうございます。

    貼っていただだいた井上ウィマラさんの論文、ざっと読んでみましたが、ヒントになりそうな記述に満ちています。ちょっと難しいですが深い内容が圧縮されている感じです。

    山下さんの身体の捉え方については、pipitさんの仰るとおりだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7146 / inTopicNo.42)  小空性経
□投稿者/ pipit -(2020/09/27(Sun) 15:58:34)
    knowing itselfさん、返信ありがとうございます。

    >>小空性経的な世界観の場合、第五図の身体は、肉体的身体が滅した後の物自体的な身体になるのではないか、と、今の段階のわたしは思いました。
    >
    > 山下さんはそう捉えていると思います。小空性経に根拠を置いているわけではないと思いますが。<

    はい、私も、山下さんが小空性経に根拠を置いてるわけではない、と、そう思います。
    私の文章は説明不足だと思い、言葉を足して、私の考えてることを説明させてください。
    小空性経は、認識する主体については語られていなさそうなので、
    小空性経から山下さん的第五図解釈を導出することはできない、と、思います。

    小空性経では、煩悩を滅して様々な煩いが滅したあとに残る、僅かな煩いとして、『六処ある身』が最後に出てきます。


    山下さんがもし、肉体的身体も第四図(現象に投げ入れられたもの)に属すると捉えるなら、
    山下さんにとっては、第五図の身体部分は、肉体的身体ではなく、物自体としての身体という解釈になるのではないか、と、今の段階の私は思いました。

    ここらへんは本当に繊細な対話になりますね。前提の共有、などの問題もあり、対話がすれ違ったり、すれ違ってるようにみえたりしても、いたしかたないように思えますが、、、きっと、いろんなことは、対話からも始まりますもんね (^ ^)

    縁、というものかもしれないなぁと、今、感想が浮かびました。

    感謝しています m(_ _)m

    小空性経についての情報ページのアドレスを貼ります。

    日本語訳・光明寺経蔵さまのページ
    『小空性経』(中部121)
    https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn13/mn13c01.htm

    井上ウィマラさんの論文
    『『小空経』における空の実践構造について』
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/2/58_KJ00006159691/_pdf

    井上ウィマラさんの論文は、たーぼーさんなら、興味深く内容がわかるのかな〜?と勝手に思ったけど、全然興味対象外だったらすみません。
    禅定の名前がいっぱい出てきますよ〜
    (もちろん、どなたさまも、ご覧になるならないはどうぞご随意に、です!(o^^o))


引用返信/返信 削除キー/
■7143 / inTopicNo.43)  Re[37]: knowing itselfさんへ
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/27(Sun) 14:05:14)
    No7129に返信(pipitさんの記事)
    > knowing itselfさん、おはようございます。
    >
    >>普通の禅僧には、第四図の中身が去来してもそれを手放して身体意識に戻るだけということを強調する人もいるが、そういうのと山下良道さんの第五図はかなり違うと思う。身体意識が行き着く最後なら、身体が終わればいのちも終わりという論に対抗できない。<
    >
    > 前半部分で、わたしは『小空性経』(中部121)のことを思い出しました。
    >
    > 第五図の身体は、わたしは今の所、2つのアイデアを思っていて、
    > 一つは、物自体的なもの。
    > 一つは、物自体と現象をつなぐ通り道としてあるもの。
    > (これは、今の感想なので、また感想は変わると思います)


    鋭いご指摘です。この二つどちらもが、第五図の身体には含まれていると思います。藤田さん、山下さん、永井さんあたりも、この二つのどちらを重視するか、二つの関係をどう考えるかの違いが、議論が噛み合っていない印象を与えるのだと思います。


    > お坊さまが、身体意識に戻るだけ、という時、人によっては、小空性経の最後ような感覚なのかなあ?と思いましたけど、knowing itselfさんは、小空性経について何か思われてることありますでしょうか?
    > お聞きしたいなという想いが起きました。

    あまり詳しくないので、自分の意見を述べれるほどには至っていません(笑)

    > 小空性経的な世界観の場合、第五図の身体は、肉体的身体が滅した後の物自体的な身体になるのではないか、と、今の段階のわたしは思いました。

    山下さんはそう捉えていると思います。小空性経に根拠を置いているわけではないと思いますが。
引用返信/返信 削除キー/
■7136 / inTopicNo.44)  Re[36]: 第五図の気づき
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/27(Sun) 13:28:27)
    たーぼーさんこんにちは。 レスありがとうございます。


    No7118に返信(たーぼーさんの記事)

    >>第五図の気づきとは、第四図の中身に気づいていることではない。それなら第四図があれは十分ともいえる。第五図の気づきとは、第四図の中身(精神と物質どちらも)がゼロになっていることを体験した後に、その体験の連続性の上に立って、第四図の中身に気づいていること。
    >
    > 体験の連続性の上に立ってということは、この現象世界に戻らず外に出っぱなしでってことですか?
    > つまり十二縁起の外に出っぱなしで第四図の中身に気づいているってことですか?

    山下さんの考えは、人間はずっと第五図にいっぱなしである、それと同時にずっと第四図にもいっぱなし、だと思います。なので、途中経過にある人間は現象世界=第四図にいざるをえないことになるでしょう。第五図の気づきは、そのことをありありと洞察できることの別名かもしれません。


    >>普通の禅僧には、第四図の中身が去来してもそれを手放して身体意識に戻るだけということを強調する人もいるが、そういうのと山下良道さんの第五図はかなり違うと思う。身体意識が行き着く最後なら、身体が終わればいのちも終わりという論に対抗できない。
    >
    > 身体意識というかダルマから離れないようにすると思うけど。
    > ダルマから離れないように第四図の中身が去来しても、それに取り合わないで精進し続けてダルマに戻ろうとすると思います。

    ダルマから離れない、ダルマに戻ろうとする精進こそが、誰が何と言おうと仏教の根幹中の根幹なので、おっしゃる通りだと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7132 / inTopicNo.45)  Re[39]: 独在的な〈私〉と第五図
□投稿者/ knowing itself -(2020/09/27(Sun) 12:41:03)
    こんにちはパニチェさん 。レスありがとうございます。


    No7115に返信(パニチェさんの記事)
    > ■No7113に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>第五図について、永井さんは下記のように説明します。
    >
    >>超自然的存在である独在的な〈私〉の存在が、この世界を初めて開いて、それに現実存在を与えます。つまり、それを初めて現実に存在させます。by 永井均

    > これどのあたりに載ってますか?
    > 読み直してみたいのでページ数を教えてもらえれば有難いです。

    「哲学する仏教」サンガ の276pです。春秋社の2冊とは別にサンガから出た方です。さすがに3冊買って読むことは誰にもおすすめできないので、読む人はいないだろうとページ数を記しませんでした(笑)。ただし引用文の前後は非常に興味深い内容なので、打ち込んでみなさんに紹介しようかという気持ちもあります。


引用返信/返信 削除キー/
■7129 / inTopicNo.46)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/09/27(Sun) 11:52:22)
    knowing itselfさん、おはようございます。

    > 普通の禅僧には、第四図の中身が去来してもそれを手放して身体意識に戻るだけということを強調する人もいるが、そういうのと山下良道さんの第五図はかなり違うと思う。身体意識が行き着く最後なら、身体が終わればいのちも終わりという論に対抗できない。<

    前半部分で、わたしは『小空性経』(中部121)のことを思い出しました。

    第五図の身体は、わたしは今の所、2つのアイデアを思っていて、
    一つは、物自体的なもの。
    一つは、物自体と現象をつなぐ通り道としてあるもの。
    (これは、今の感想なので、また感想は変わると思います)

    お坊さまが、身体意識に戻るだけ、という時、人によっては、小空性経の最後ような感覚なのかなあ?と思いましたけど、knowing itselfさんは、小空性経について何か思われてることありますでしょうか?
    お聞きしたいなという想いが起きました。

    小空性経的な世界観の場合、第五図の身体は、肉体的身体が滅した後の物自体的な身体になるのではないか、と、今の段階のわたしは思いました。



引用返信/返信 削除キー/
■7120 / inTopicNo.47)  Re[36]: 世界における(への)存在
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/27(Sun) 08:06:59)
    No7104に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 私は〈すでにある世界〉のうちに生まれてきた。
    > これは疑いの余地のないこと。


    普通はそう思うわね。
    常識的な考えならそう思い、<すでにある世界>第四図を基準に考える。
    でも永井さん的な独在論だと、全部ご破算にして一から自分の世界を作っていくと読める。
    かなり変態的というか、そういう発想でやるのは盲点だと思います。
    永井さんだって親族とかいるだろうに、全部ご破算にするという発想を良く持てるなと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■7118 / inTopicNo.48)  Re[35]: 第五図の気づき
□投稿者/ たーぼー -(2020/09/27(Sun) 07:12:06)
    No7095に返信(knowing itselfさんの記事)
    knowing itselfさん、おはようございます。


    > 第五図の気づきとは、第四図の中身に気づいていることではない。それなら第四図があれは十分ともいえる。第五図の気づきとは、第四図の中身(精神と物質どちらも)がゼロになっていることを体験した後に、その体験の連続性の上に立って、第四図の中身に気づいていること。

    体験の連続性の上に立ってということは、この現象世界に戻らず外に出っぱなしでってことですか?
    つまり十二縁起の外に出っぱなしで第四図の中身に気づいているってことですか?


    > 普通の禅僧には、第四図の中身が去来してもそれを手放して身体意識に戻るだけということを強調する人もいるが、そういうのと山下良道さんの第五図はかなり違うと思う。身体意識が行き着く最後なら、身体が終わればいのちも終わりという論に対抗できない。

    身体意識というかダルマから離れないようにすると思うけど。
    ダルマから離れないように第四図の中身が去来しても、それに取り合わないで精進し続けてダルマに戻ろうとすると思います。
引用返信/返信 削除キー/

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