| ヒラリー・パトナムによる形而上学的実在論批判を支えるのがレーヴェンハイム=スコーレムの定理。「モデルと実在」では可算モデルと非可算モデルを例として使い「概念が公理的集合論に相対的なものでしかない」ことが説明される。
このことは数学的対象を言語という可算の道具で捉える時の困難を示していると考えていたが違うかもしれない。なぜなら非可算モデルに対しても別の濃度の非可算モデルが無限に存在するわけだから。
あるいは数学も言語活動をベースに構築されたものにすぎずそこでも言語の可算性から逃れることはできない。言語は人間の認識の作用で認識は人間の身体的条件による限界がある。そこで人間の認識を拡張すれば最終的に数学も拡張され空間や時間の認識も劇的に変化するのでは?
自然数の超準モデルは標準モデルを含んでいる。では標準モデルを含まないようなモデルは考えられないのだろうか? 土台である第1階述語論理の部分は古典論理だからそこを非古典論理に変更して集合論の公理を構築。数学のでかい鉱脈とみた。
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