| 2020/08/29(Sat) 11:13:38 編集(投稿者)
自分が信仰している神仏や教義を冒涜されて怒り狂うのはその人がベッタリ信仰する神仏や教義に依存(帰依とも言うかな)しているからであり、自分が尊敬している人物や思想についても同じことが言える。
自分の仕事や肩書など社会的な存在に依存している人は失業や定年後に鬱になるケースもあり、仕事を生き甲斐とばかりに突っ走ってきた人に多い。
仕事上でのやり方や発想を批判、否定された人は自分を否定されたように落ち込む人もいるが、それはあくまでビジネスマンとしてのスキルへのアドバイスや指導であり、その人を否定しているわけではない。
自分の生き方や意見や見解を批判されたり、否定されて逆上する人がいるとすれば、それは自分の生き方や意見や見解に対する自信のなさの表出とも言える。
何れにせよ、これらは弱さの露呈であり、上記の何れもが自己と同一でない限りは、さほどアタフタする必要など全くない。
そういう意味において自己でも自分でも私でもないところの本質である「比類なき先言の〈私〉」の存在を確信することは人生にとっても大きな発見であると思う。
宗教や思想や肩書や主張や生き方など比べものにならない程の比類なさが〈私〉であり、あるがままの存在そのものに世界を凌駕するほどのものがある。
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