| パニチェさん、レスありがとうございます。
>> 具体的には、トピに引用した部分ですよ。 質疑応答に答えたものなそうです。 >> (p281)
> @心理的事実にすぎないのか。
> A実はもともと、ある主体(永井さんは、〈私〉としている。)だけが、この世界の外からこの世界を観察しそこに影響を与えうる存在で、それは瞑想を通じてわかることなのか。
> 私はAなんじゃないかとは思ってるんですが、@でも実は構わないんです。 > でも、@だとつまらない気はするかな。 > そんなところです。
> なぜAじゃないかな、と思うかといいますと。 > この世が幻影であろうとも、幻影を成立させめための目には見えない装置的なものは必要だろう、ということです。 > それが主体であり、実はそれしかない。 > そのことに気づくと、幻影である人が娑婆世間を見る目も変化する。
>> 実際、世界が映画みたいに感じられるというか、昔もこんなだったっけ?的な感覚はあるんですよね。 > >でも、命は大切にしたいし、他者に対してもそうしたいという思いは、もちろんあります。
>なるほど。 >ここのところの永井さんの表現ももの凄く分かりにくいと思います。
>@において「心理的事実にすぎない」と言っているのは(主語は)、〈私〉ではなく「〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり(そのことによって)影響を与えたりすること」であり、Aにおいての主語も〈私〉ではなく、「〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり(そのことによって)影響を与えたりすることが可能であるのは。。。」このような理由(〈私〉が唯一の存在である)からであるという論旨になります。
>@とAを言い換えると以下のようになります。
>@心理的事実にすぎないのか。→〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり(そのことによって)影響を与えたりすることは可能であり、それは〈私〉という事実に気づいた「私」が、気づいたその事実を利用して、それとは無関係に実在している自分の心の内容をそういうものとして観察するという心理的事実にすぎない。 簡単に言うと「〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり影響を与えたりすること」は「私」の心理的事実に過ぎないってことになります。
>A実はもともと、ある主体(永井さんは、〈私〉としている。)だけが、この世界の外からこの世界を観察しそこに影響を与えうる存在で、それは瞑想を通じてわかることなのか。→〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり(そのことによって)影響を与えたりすることは可能であるが、@のような「私」の心理的事実としてではなく、〈私〉だけが、この世界の外側からこの世界を観察しそこに影響を与えうる唯一の存在だからである。しかしながら瞑想実践においては〈私〉が観察しているということが削ぎ落とされ、観察したそのものが剥き出して明るみに出される。
>@もAも〈私〉の存在については(心理的事実とかではなく)、他の如何なる存在よりも確実なものとして、今ここにあるという前提に変わりはありません。
>非常に分かりにくいとは思いますが。。。^^
・・・ 簡単に言うと「〈私〉が客観的世界やその内部にいる「私」を観察したり影響を与えたりすること」は「私」の心理的事実に過ぎないってことになります。 ・・・
↑ @について、このように考えていたのですが、こちらからの説明不足ですみませんでした。
>その上でminoriさんがカキコされている「この世が幻影であろうとも、幻影を成立させめための目には見えない装置的なものは必要だろう」というのはその通りで、例えば世界が映画マトリックスで描かれたバーチャルリアルティ(仏教的には「一炊の夢」または「邯鄲の夢」)であろうとも、そのバーチャルリアルティなる世界や夢を体験している主体はその世界や夢の外側に存在しているはずであるということになります。
>命は大切にしたいし、他者に対してもそうしたいという思いはパニチェも同感で、自他の境界認識が消失した三昧から我に戻った(日常的な「私」に戻った)時に山下さんの言う本来の慈悲が発生するのだとパニチェは考えています。
>上記はスルーでもいいですよ。^^
新しいトピのほうに書かせていただきました。 前の分が使えるのかどうか、わからなかったので。
〈私〉トピのほう、ロムさせていただいていきますね。♪
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