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■3016 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。5
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/05/31(Sun) 14:51:16)
    トピ主:pipitさん

    引き続きよろしくお願いします。

    4は101まで投稿でします。^^
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■3022 / inTopicNo.2)  Re[1]: 純粋理性批判を読んでみる。5
□投稿者/ pipit -(2020/06/02(Tue) 22:05:26)
    パニチェさん、ありがとうございます(o^^o)

    100分de名著、第一回目、わかりやすく作られてておもしろかったです。
    西先生も、制作スタッフもすごいなぁ。
    第2回も楽しみです!
    伊集院光さんも、コメントが的確に思えて、すごいなぁと思いました。

    パニチェさんがixtlanさんのお名前出されてたので、
    ixtlanさんのこと懐かしく思い出しました。

    ixtlanさんにカント哲学はじめ、哲学のことをお聞きしたかったです。

    ちなみに養老孟司先生のことは、ミーハー的に好きです(o^^o)
    ゴーイングマイウェイでいいなぁと思っています。
    養老先生のお考えになってることは、けっこう仏教思想と親和性高そうですよね。
    そうでもないのかな?
    読んでみたい本はいっぱいあるけど、自分の能力が追いつかないです(^^;;

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■3042 / inTopicNo.3)  事実問題、権利問題、演繹 について1
□投稿者/ pipit -(2020/06/06(Sat) 09:03:18)
    こんにちは。メビウスリング掲示板で、悪魔ちゃんさんという方が中島義道先生の以下の文章を引用紹介してくださいました。
    この文章から触発されて、「事実問題」「権利問題」「演繹」という言葉のカント哲学での意味を、カントの文章や解説本などにほんの少しだけ探してみました。
    「演繹」は、哲学になじみの帰納・演繹という意味合いとは少し違って、
    カントは、法律用語由来の、弁明という意味合いで使用しているようです。
    そのようなことも含め、引用や感想を投稿したものを、こちらにも投稿します。

    まずは、悪魔ちゃんさんが引用してくれた、中島義道先生の文章を投稿します↓
    (悪魔ちゃんさん、すごく興味深い投稿を、ほんとにいつもありがとう!)

    ↓↓↓中島義道先生の文章

    〔(カントの)「超越論的」とは単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体にかかわることである。「超越論」という言葉(カントの原意)は「相互主観的」(intersubjektiv)とは相容れない。「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。言い換えれば、「超越論哲学」を求めるか否かは「ひとつの客観的な実在世界」を求めるか否かの問題であり、これは「関心」の問題であり、究極的には各人の「生き方」の問題である。〕
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■3043 / inTopicNo.4)  事実問題、権利問題、演繹 について2
□投稿者/ pipit -(2020/06/06(Sat) 09:09:50)
    メビウスリングに投稿したものです。↓

    ※※※※※※※※

    カントにおける事実問題、権利問題について私見を述べます。

    まず、その言葉を、カント自身が使ってる箇所を引用します。

    天野貞祐先生訳、カント、B117
    『第二章 純粋悟性概念の演繹について
    (略)
    法学者が権限と越権とについて論ずる場合には、一つの法律事件において権利問題(quidjuris)と事実問題(quid fecti)とを区別し、そして両者から証明を要求するのであるが、権限もしくは権利の要求を明らかにすべき証明を名づけて演繹(Deduction)という。
    (略) 』

    pipit私見
    天野貞祐先生の訳は上記なのですが、
    わかりやすく意訳が入ることもある中山元先生は、同箇所を
    『法学の理論書においては、権限と越権について論ずるときに、ある訴訟について何が合法的に認められているか(権利問題)と、事実はどうであるか(事実問題)を区別し、それぞれについて証明を求めるのである。そして権利問題については権限の証明や権利要求の証明を根拠づけ[=演繹]と呼ぶのである。(略)』中山元先生訳
    と訳されています。

    何が合法的に認められているか、その権限の要求や権利要求の証明を、法律用語としての[演繹]と呼ぶ、ということかと思います。
    そして、石川文康先生は、この権利要求の証明である[演繹]とは、弁明のことであると解説されます。
    解説文を引用します。

    石川文康先生の文章の引用
    『(略)カントがカテゴリーの客観的妥当性の証示を、「演繹」と呼んだことに注意をうながしておきたい。当時の法律用語で、なにが事実であるかという問題を「事実問題」と言ったのに対して、なにが権利であるかという問題を「権利問題」と言い、この「権利問題」を明らかにする手続きが「演繹」と呼ばれていた。
    カントの演繹という用語はここから取ってこられたものである。
    ところで、権利問題に答えることを「弁明」と言う。
    したがって、カテゴリーの演繹も教義における証明ではなく、やはりその妥当性の弁明にほかならない。その意味では、演繹は厳密な意味での証明ではない。
    (略)
    そしてもうひとつ、カント哲学の出発点が証明不可能な根本真理の探求にあったということである。
    厳密な意味における証明が直接証明であり、それはすでに暗黙のうちに主語に含まれている概念を述語として導出する手続きである以上、直接証明は分析判断にのみ可能であり、総合判断には間接証明しか可能ではない。
    とすると、カントが最高原則とか根本概念(理論的ならびにー後にみるようにー実践的・道徳的)に施したすべての「証明」は、広義において弁明にほかならないということになる(これにもランクはあるが)。
    カントの演繹はそのような論証の代表例である。』
    『カント入門』石川文康先生p114.115
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■3045 / inTopicNo.5)  事実問題、権利問題、演繹 について3
□投稿者/ pipit -(2020/06/06(Sat) 09:22:22)

    次に、カントにおける「演繹」についての、御子柴善之先生の解説文を引用します。
    ちなみに、下記で御子柴先生が「ア・プリオリに事物の結合を考える」概念、としてるのは、純粋悟性概念(カテゴリー)のことだと思います。

    ※※※※※※※※

    御子柴先生の文章
    『(略)この「演繹」という言葉については後で説明するが、ここでは、
    「ア・プリオリに事物の結合を考える」概念の数を、
    判断という原理に基づいて確定し、
    それが純粋悟性から生じたものであることを確認しつつ、
    そうした概念の客観的妥当性を論証することを意味している。
    (略)
    ここで「鋭敏な先駆者」とはヒュームのことである。彼のような問題意識をもつ人だけが、ア・プリオリな(経験に依存しない)概念の演繹という課題を見いだすことができるはずだが、彼にはそれが不可能なことに見えた。彼がもっぱら経験論の流れに属する哲学者だったからである。
    経験を基盤とする経験論の側から、経験に依存しない概念をどうやって正当化できるか、という問いを立てることは容易ではない。
    カントの自負はこの演繹(正当化)という課題に取り組んだところにある。
    (略)』

    『カント哲学の核心』御子柴善之先生p37〜40
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■3046 / inTopicNo.6)  事実問題、権利問題、演繹 について4
□投稿者/ pipit -(2020/06/06(Sat) 09:28:25)
    最後に、pipitの感想的なものを投稿します。

    ※※※※※※※※

    と、用語設定を把握しました後に
    悪魔ちゃんさんが引用してくれた、中島先生の文章を読んでみたら、、、

    >「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。
    客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。言い換えれば、「超越論哲学」を求めるか否かは「ひとつの客観的な実在世界」を求めるか否かの問題であり、これは「関心」の問題であり、究極的には各人の「生き方」の問題である。〕<

    うーん、それでも難しいけど、、、

    客観的な実在世界を求めた時に、心に採用され得る哲学の形のひとつが、超越論哲学だと、中島先生はおっしゃってるのかな??

    pipitの今の感想としては、
    人間にとって、独我論、独在論を論理的に否定するのは無理かもだけど、
    カントは、それを「拒否」したのかな、
    って思ってます。

    そしてその「拒否」は、
    物自体という設定にあらわれてるかな、と、思いました。

    物自体が設定されることにより、
    わたしたちは、経験の共有が可能になると、私は今の段階では思っています。

    もし、わたしたちがバーチャルリアリティの住民だったとしたら、
    プログラムが物自体のイメージです。

    プログラムを介して、私たちは他人と現象を共有できるイメージです。

    カントが現象を、
    客観に妥当する、という言葉で表現してる感じなのを解説で読んだ時、
    感嘆しました。

    決して客観そのものではないかもしれないけど、
    客観に妥当する。

    おじいちゃんからもらった玉ねぎを、
    私は夕食の食材に使わせてもらい、
    家族が口にし、胃に入る。

    主観が世界を構築しながら、

    客観に妥当する
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■3054 / inTopicNo.7)  超越論について
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 09:28:13)
    〇超越論的  

     カント は、経験 を 可能 に する 条件 を 吟味 する こと を「 超越論的」 と 呼び、 経験 可能 な 領域 の 外部 に 超え 出 て いる こと を 意味 する「 超越 的」 と 区別 し た。
     たとえば、 神 を 認識 できる か どう かは、 超越 的 な 認識 の 問い で あっ て、 超越論的 では ない。
     経験 を 可能 に する 感性 や 悟性、 統覚 の 働き を 吟味 する こと が、 カント の いう 超越論的な 哲学 の 探求 で ある。

    【NHKカントより】
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■3059 / inTopicNo.8)  Re[7]: 超越論について
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 16:10:56)
    カントによれば、感覚を内容に持ち、なおかつ経験に先行する所定の形式(時間、空間、およびカテゴリー〈思考の形式〉)に沿って構成されたもの(現象)だけが、経験の対象となることができる。
    これに対し、この現象以外のもの(物自体)に関する理論的認識は成り立たない。このように、カントにおいては、対象の経験を成立させ、かつ理論的認識の限界をも決めているこの一連のありかたが「超越論的」と呼ばれる。

引用返信/返信 削除キー/
■3061 / inTopicNo.9)  ななしさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/06/07(Sun) 16:29:01)
    ななしさん、こんにちは。
    引用ありがとうございます。
    私の言いたいこと、ななしさんに伝えてみますね。

    まず、質問をひとつさせてください。
    カントの観念論には、物自体というシッポがついてる、って
    そういう意見を、ななしさんは聞いたことありますか?


引用返信/返信 削除キー/
■3062 / inTopicNo.10)  Re[9]: ななしさんへ
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 17:10:47)
    >カントの観念論には、物自体というシッポがついてる、って
    そういう意見を、ななしさんは聞いたことありますか?

    いいえ、シッポというのは知りませんでした。

    そもそもカントは、心に写った像が、生まれながらのアプリオリの時間や空間の直感形式を通じて感性から悟性の4種12個のカテゴリーによる純粋概念によって経験というものが、アプリオリな総合判断が出来るとしたからです。

    こうした一連の流れプロセスが超越論的な経験であり、物自体は、こうした超越論的認識では捉えられないものだからです。

    まあ、可視光線を超えた紫外線や赤外線は見えないし、音だって限界があるのが人間です。それは、人間がたんぱく質の身体を持っているからこそであり、機械とは異なるものです。機械には、フレーム問題があり、認識が異なるからです。

    また、フッサールは、カントによって「時間」「空間」のなかで見たり触ったりするものに限定していた「現象」を物自体で叡智界の道徳をも再び現象に取り戻そうとしました。それは、道徳、自由、神についてもそれなりに人は体験し意識の中に現れているものだからです。

    神は見ることはできませんが、信仰により日々の祈りで神に語り掛けるとき、そのように神を体験していると言えるからです。

    想像したり思考したり祈ったりすること全てが体験であり現象であるとフッサールは見なすため体験できない物自体(叡智界)は不要になり、この「現象」を考察すれば足りるとしたのがフッサールの「現象学」でした。

    現象学の場合、対象がわれわれの意識を超えて外部に自然と存在しているようなありかたが「超越的」と呼ばれ、一方、そのありかたが意識それ自身にどのように構成されるかという問題に関わるありかたが「超越論的」と呼ばれます。

    例えば「超越論的還元」とは、対象の超越を当たり前と思い込む日常と科学の態度をいったん宙吊りにして、その対象の構成のされかたを問うことを指します。
    フッサールはカントの超越論哲学における認識論の構造を批判的に解体し自らの哲学的立場を形成したといえます。
引用返信/返信 削除キー/
■3063 / inTopicNo.11)  Re[10]: ななしさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/06/07(Sun) 17:18:25)
    お返事嬉しいです、現象学のことも書いてくださりありがたいです。

    私の考えを伝えることを続けさせてもらえればとても嬉しいです。

    >そもそもカントは、心に写った像が、生まれながらのアプリオリの時間や空間の直感形式を通じて感性から悟性の4種12個のカテゴリーによる純粋概念によって経験というものが、アプリオリな総合判断が出来るとしたからです。<

    この経験を、各個人が共有できるのは何故と思いますか?

    私とななしさんが一緒にいて、月を見上げたら、
    2人とも月が見えるね、って言い合えるの、
    超越論的哲学に即して理屈をいうなら、何故だと、ななしさんは思われますか?
引用返信/返信 削除キー/
■3064 / inTopicNo.12)  各個人が共有できるのは何故?
□投稿者/ ななし -(2020/06/07(Sun) 19:13:55)
    同じ時間と空間の中にいて、同じ人間、ホモサピエンスでしかも健常者の認識作用を持ち合わせているからだと思います。

    テキストにも
    『この 本 で カント は、 すべて の 人間 は、 主観 に 共通 の メガネ( 認識 の 共通 規格) を 備え て いる ため、 数学 や 自然科学 の 基本 的 な 部分 について は、 認識 を 共有 できる と 主張 し ます。 』
    NHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』

    と、西先生も書いています。

    次回第二回のテーマもズバリ「科学の知は、なぜ共有できるのか」となっていて
    明日が楽しみです。

    >月を見上げたら、
    2人とも月が見えるね、って言い合えるの

    人間は、言葉も持ち合わせているので、それによってお互いの意識を
    共有できるのだと思います。
    この辺は、フッサールの「本質観取」という方法かなと思います。

    お互い言葉を出し合って共通項を見出して行く。
    人間相互の違い、生きている条件や生存の場所の違いと同時に、人として共通の思いをもっていることがはっきり見えてくるというのは独特な経験です。

    単に自分の確信というのではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造だけを適切に取り出して記述していくこと、これが現象学的還元という方法の基本ですね。
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