| こんにちは
>>例えば体験談がパソコンについてのディープな話題に触れるような場合、こちらに対応するものがないと伝わらない部分が多いでしょう。パソコンの理解力は人によってピンからキリです。確かに言語空間内に位置を占めているので、その位置について語っていることは伝わります。ボックスの所在地ですね。しかしそのボックスの内部がどこまで伝わるかとなると、ブラックボックスたらざるをえないところが必ず出てくると思います。 >>パソコンに限らないですね。ほとんどの話題はそういうものではないですか。 > >>「ハチ公前」で会うことが自然であるような人間関係や生活環境、居住場所が特定されていれば伝わるでしょう。日本語や日本の地理に疎い外国人には伝わらないかもしれない。日本人相手でも、脅しや悪ふざけのメールとわかる場合もある。 > >>やはり、言語記号そのものだけの単独伝達力というより、受け手からのブラックボックスの開け方が伝わり方を決めるのかなと思います。ハチ公の事例の場合はボックスの中が比較的わかりやすいので、実際には瞬時に伝わると思いますが。 > > ありがとうございます。よく分かりました。 > 上記はウィトゲンシュタインを読まれる前にknowing itselfさんの考えとして述べられてるんですよね? > > というのも上記はまさにウィトゲンシュタインが後期の主題とした言語ゲーム的な話です。
ヴィトゲンシュタインの著作も解説書もきちんと読んだことはありませんが、現代に生きていれば言語ゲーム論のさわり程度のことは、当然耳に入っています。それとは別に自分で言語の本質を考えてきた結論が、上記のカキコミです。どこかでつながっているところはあるかもしれません。 > ウィトゲンシュタインかく語りき「意味を明らかにすることは言語の主要な機能ではない。意味というのは、生のさまざまな企図を背負う言語外のコンテクストに属するものだからである。」 > > 言葉の意味は文化や日常生活、シチュエーションなどを含めたコンテクスト上に発生し、その言葉を使うことによって意味内容も変わり、流動的なものである。 > > get953さん(Yahoo!掲示板時代の友人です)とウィトゲンシュタインの読書会をした時に、うまい例えをしていました。 > > 「私はキツネ!」 > > 上記はうどん屋の店内とか、電話で注文している時にメニューを聞かれての答えというコンテクストがあれば通じるみたないな話です。
その例え、よくわかります。
「私はコロナ」。一年前であればどうということもこの記号が現在であれば、世界中あらゆる言語においてほとんど全員の間で、置かれるコンテクストに応じて、重く複雑な意味を伝えてしまう。一年前との対比、戦慄を覚えます。言語の本質を垣間見るようです。
|