| 2020/07/06(Mon) 10:41:17 編集(投稿者)
****************************
それでも〔わたしが独我論を代弁して〕この独我論を「私に見えるもの(又は今見るもの)だけが本当に見られるものである」、と言って表現できる。そしてまた、「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味してはいない。しかし、たまたまこの私が事実としてL・ウィトゲンシュタインである場合には、他人がこの『私』をL・ウィトゲンシュタインの意味にとってくれて結構だ」、と言いたい。だがその代わりに「私は生命の器だ」、と言っても同じなのだ。注意してほしい。つまり肝心なのは、私の言うことを聞く人がそれを理解できてはならないことなのである。他人には「私が本当に意味すること」がわかってはならぬことが肝心なのだ。(大修館書店 ウィトゲンシュタイン全集6『青色本』P.117より)
****************************
ウィトゲンシュタインの解説や読解に、言語化不能かつ独我論(独在論)的な<私>をすっ飛ばすことは「仏つくって魂入れず」みたいなもんであ〜る!無我説に不立文字や、言語道断の説明をなくして、語れない無我説は余計に語れない(笑)。
|