| 「何をしたいの?」って〈いま・これからの〉への問いだと思う。 「何をしたの?」っていうのは〈したもの・されたもの〉への問いだと思う。 現象学的に見ると、前者は「思うこと(ノエマ)」への問いで、後者は「思われたもの(ノエシス)」への問いなんだと思う。 わたしの問いは前者の方ね。
何から始めよっかな? このごろニーチェの『善悪の彼岸』をもう一度読み返してるところだし、ここ、ニーチェクラブっていうところだから、ニーチェさんにWhat do you Want to do?して見るね。
『善悪の彼岸』第一章「哲学者たちの先入見」二(p12〜)のところを抜粋して見ます。 【「いかにして或るものがその反対のものから発生することができようか。例えば、真理が誤謬から?或いは、真理への意志が迷妄への意志から?或いは、無私の行為が知欲から?或いは、賢者の純粋な明々白々な観点が欲情から?このような発生は不可能である。そんなことを夢みるものは阿呆であり、いな、もっとひどい馬鹿者だ。最高の価値をもつ事物は別の、固有の起源をもたなければならない。−―それらの事物は、移ろい易い惑わしがちな欺瞞者で劣等な世界から、妄想と欲望とのこの紛糾からは導き出されえないのだ!刧って、存在の胎内に、移ろわない不朽のものの内に、隠れた神の内に、「物自体」の内に存する。――そこにこそその根拠が存し、しかもそれ以外のどこにも存しないのだ!」――この種の判断があの典型的な先入見を、あらゆる時代の形而上学者たちがそこにその正体を再認されうる先入見を形づくっている。この腫の評価が全ての彼らの論理的な処理方法の背後に存している。こうした彼らの「信仰」からして、彼らはその「知識」を求めようと努め、勿体ぶってついに「真理」として命名式を挙げられる或るものを求めようと努力する。形而上学者たちの根本信仰は〈諸価値の反対物を信仰する〉ことである。彼らのうちの最も用心深い連中でさえも、是非ともそこで疑うことが最も必要であったその敷居のところですでに疑ってかかるということに思いつかなかった。彼らが「すべてについて疑う」(デカルト哲学の出発点をなす言葉)ことを賞揚したときですらも、そうであった。すなわち、第一に、およそ反対物があるかどうか、を疑うことができ、また第二に、形而上学者たちが太鼓判を押したあの俗受けする評価と価値対立は、もしかすると単に前景的評価にすぎないのではなかろうか、ほんの当座の見通しでしかなく、事によるとそれに加えて一角から見た見通し、恐らくは下から見た見通し、つまり画家たちがよく用いる表現を借りるならば、いわば蛙の見方ではなかろうか、と疑うことができる。真実なもの、誠実なもの、無私なものにどれほど価値が帰せられようと、仮象、欺瞞や我欲や欲望への意志に一切の生にとってのより高く、かつ原則的な価値が帰属させられなければならないだろうことは、ありうべきことであろう。のみならず更に、あの善き崇められた事物の価値を成すところのものの実態は、一見してそれと反対のあの悪しき事物と淫猥な仕方で相通じ、相結び、相鈎(つな)がれ、もしかしたら本質的に同じでさえあるというまさにその点に存することさえも、ありうべきことであろう。恐らくはそうだ!――しかし誰がそのような危険な「恐らくは」に関わろうと欲しよう!そのためにはすでに、新しい種類の哲学者たちの到来を待たなければならない。これまでの哲学者連中とは何かしら別の、逆の趣味と性向とをもつような哲学者たちの到来を、――あらゆる意味で危険な「恐らくは」の哲学者たちの到来をだ。――そこで全く真面目に言って、私にはそうした新しい哲学者たちの昇進してくるのが見えるのだ。】(N-a)
ここに「欲望」とか「価値」っていうが出てくる。「価値」っていうの、わたし、〈欲求を満たすもの〉ってしてる。〈〜したい/〜したくない〉ね。ひとによっていろいろだと思うけど、でもこういうのって「真偽善悪」っていう”判断“以前のことなんじゃないかしら?
(N-a)の最初のほうの「 」内は、カントのをニーチェが見ると、なんだと思う。でもニーチェの価値とするものはそういうんじゃない、っていうことなのかな?
ニーチェのは、【仮象、欺瞞や我欲や欲望への意志に一切の生にとってのより高く、かつ原則的な価値が帰属させられなければならないだろうことは、ありうべきことであろう。のみならず更に、あの善き崇められた事物の価値を成すところのものの実態は、一見してそれと反対のあの悪しき事物と淫猥な仕方で相通じ、相結び、相鈎(つな)がれ、もしかしたら本質的に同じでさえあるというまさにその点に存することさえも、ありうべきことであろう。】のところだと思う。 で、 ニーチェの”したい“は「生のフィロソフィア」なんだとわたし思う。
手始めに、でした。
ニーチェへさんへの問いはまだつづくけど、きょうはこんな感じ。
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