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■10774 / inTopicNo.85)  Re[16]: パニチェさまへ
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/31(Sun) 19:15:57)
    「哲学全般・・・」のところの
    No10759
    パニチェさま、ここで書かせもらうね。いろんなところで書いちゃうと、わたしがどこで何を言ったのかごちゃごちゃになっちゃって、わたしのうちでわかんなくなちゃうから、ごめんなさいね。

    >ニーチェとマッハはフッサール〜メルポン現象学の先駆けだと思います。<
    そうなの?でもわたしわかんない。

    >「単なる現象」として軽視されてきた感性界こそ究極の実在<
    このへんがフッサール〜メルポン現象学と共通するところなのかな?
    でもね、わたし、ニーチェやメルロは「実在」じゃなくて、「実存」の方だと思ってるん。「単なる現象」っていうのがわかんない。「単なる現れ」って言うんだったらなんとなくだけど。それと「感性界」っていう表言もなんかイヤ。「性」に「界」を付けるんだったらマッハさんは「知性界」っていう表言をするのかしら?

    もうちょっと。マッハさんの、次のところはどうなのかな〜、って。
    >この世界は「感性的諸要素」が相互に関数的に依属し連関しあいながら絶えず離合集散している<
    〈生〉において、「感性的諸要素」とか「関数的に」とか、生の「感性」にそんなのあるのかしら?
    >われわれの感覚器官が進化すれば、いまとは違った関数的依属関係のうちにあらわれてくるかもしれない<
    「われわれの感覚器官が進化すれば」 ん? マッハさん、誰のこと言ってるのかしら?
    マッハさんのから、わたしの感性を、表言したら、こんな感じになったよ。

    パニチェさま、”メルポン“って、なんかかわいい呼び方だから、使わせてもらうね。

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■10753 / inTopicNo.86)  Re[15]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/30(Sat) 18:54:19)
    ■10749のつづきね

    なんかさっき「デカルトの■10715の(D-2)」って書いちゃったけど■10705の間違いね、ごめん。

    んでね、No10705の(D-2)についてなんだけど、【私はそこで、私の見るもののすべてが偽である、と想定する。当てにはならぬ記憶が表象[ナイシハ、再現]するもののうちにはかつて存在していたものは何もない、と信ずることにする。何らの感官も私は全くもっていないことにする。】って言ってる。
    これって、デカルトさんの「私」には、感官や記憶がある、って言ってることになるよね。
    わたしも「私」には感官や記憶があるって、してるから、このへんはデカルトさんとおんなじなのかな?

    でも、デカルトさんはそういう「私」にあるものをなきものとして、「考えること」のみのうちでのみ「我(ego)は存在する」って言ってるんだと思う。こういうのって、純粋に〈考えることの〉の内のみから、っていうのかもしれないけど、そういうのって、わたしの思う〈私の生のフィロソフィア〉とは違う。

    わたしのいう「私」は考えることもするけど、考えることをするだけじゃなくて、感覚・知覚・記憶もしてる。そこでね〈「私」のうちに「我ego」が存在する〉ってしてした。「我ego」っていうのは〈考える〉っていう働きをするところの名前ね。これで「私」と「我ego」の関係、デカルトさんのいう「我ego」を「私」のなかに宿らせることができたかも。

    No10665の(D-1)、No10705の(D-2)から、デカルトさんのわたしのをまとめると、
    デカルトがしたかったのは、学問において真なるものを見つけたい。で、その方法は、私(デカルト)がもっている感官・記憶をなきものとし、これによって考えることのみのうちで。そしてそれ(方法的懐疑)によって疑いの余地のないものとして見つけ出したのが、考えることをする我egoは存在する、だった。
    こんな感じかな。

    ひとまずデカルトさんのとはしばらくお別れ。

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■10749 / inTopicNo.87)  Re[14]: ギミー・サム・モア
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/30(Sat) 16:34:15)
    ■10721、田秋さま、
    >何をどう感じようとそれが悪魔ちゃんなんだから全然ノープロブレムだと思います<
    そうよね〜、ありがと。

    で、わたしのプロブレムを。

    ■10715のつづき

    デカルトのNo10715の(D-2)では「私」と「我ego」とが使い分けられてる。
    ここに訳されてる「私」というのがどのような語が使われているのまでは調べてないけど。ん?ひょっとしたら両方とも「ego」? 訳者が訳し分けた?でもここでは「私」と「我ego」は区別されてる、っていうことで考えていって見ま〜す。
    ってしたとき、
    「我egoは考える、ゆえに、我はego存在する」を「私は考える、ゆえに私は存在する」ってしちゃていいのかしら?あるいは「我が考えるならば、我は存在しなければならない」という認識(判断)を「私が考えるならば、私は存在しなければならない」っていう認識(判断)にしちゃっていいのかしら?

    〈考える〉ものが存在して、その考えるものを「我ego」って呼んだ、ってして見る。そこでね。デカルトが見出したのは「考えることをする我egoは存在する」っていうこと、ってして見た。

    ここまではいいとして。わたしの問題は、「私」と「我ego」との関係をどうしておこうかな〜?っていうこと。

    つづく。

引用返信/返信 削除キー/
■10721 / inTopicNo.88)  ギミー・サム・モア
□投稿者/ 田秋 -(2021/01/28(Thu) 20:21:31)
    こんばんは、悪魔ちゃん。

    これがオリジナル?
    https://www.youtube.com/watch?v=QrEKtvUX6IQ&feature=emb_logo

    けっこう、クラシカルなディスコですな。悪魔ちゃんはこういうノリが好きなの?
    なんか安心するサウンド。

    「1,2,3,4」については、何をどう感じようとそれが悪魔ちゃんなんだから全然ノープロブレムだと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■10715 / inTopicNo.89)  Re[12]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/28(Thu) 18:42:24)
    ■10705のつづき。「ワレアリ、ワレ存在ス、」っていうところ、ネットで調べたのを書いて見ます。

    〔「我思う、故に我在り」仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている。〕

    わたしのばあい、「思うこと」と「考えること」とは分節して見ているから、ここで訳されている「我思う」の「思う」はデカルトのばあい、「考える」の方に思えるので、
    ego=我、cogito=考える、sum=我在り、exiso=存在する
    ってすることにしました。
    ってしたとき、『省察』のEgo sum, ego existoは、「我 我在り、我 存在する」ってなっちゃうけど、ま、いいよね。Ego cogito, ergo sum, sive existoは「我考える、ゆえに我在り、または存在する」。ってなる。
    で、〈考えること〉においてなんだと思うんだけど、デカルトさんに考えられたのを、ひとまず、「我考える、ゆえに我あり」っていうことにしとく。

    なんか、デカルトさんにおいて考えられたものを、わたしが思うことと思われたものの物語りはもうちょっとつづきそう。

引用返信/返信 削除キー/
■10705 / inTopicNo.90)  Re[11]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/26(Tue) 20:05:47)
    もうちょっとデカルトさんへの問いかけ

    で、「懐疑を徹底する」(方法的懐疑)っていう方法によって、〈真なるもの〉あるいは〈疑いの余地のないもの〉として、何が見つかったのかしら?

    『省察』の第二省察「人間的精神の本性について。精神は身体よりも、より良く識られるということ」の抜粋からの抜粋。

    【私はそこで、私の見るもののすべてが偽である、と想定する。当てにはならぬ記憶が表象[ナイシハ、再現]するもののうちにはかつて存在していたものは何もない、と信ずることにする。何らの感官も私は全くもっていないことにする。物体、形状、延長、運動、ならびに場所は、幻影であることにする。それでは、何が真なのであろうか。おそらくは、確実なものは何もないというこの一事[のみ]であろう。しかしながら、今も今私の列挙したところのすべてとは別箇のもので、それについては疑う事由のそれこそほんの少しもないようなものが、全然ないというわけではないかもしれぬではないか、神、あるいは[神と言っては悪ければ]どのような名でそれを呼ぼうと、何かそういったものがあって、私〔の精神〕にそういう[すべては疑わしいという]考えそのものを送りこんでいるのではないか。なにゆえに[実は]しかし、私はそう考えるのか、たぶん私自身がそういう考えの創作者でありうるというのに。そうならば少なくともこの私は何ものかであるのではないのか。しかしながら、すでに私は私が何らかの感官や身体をもつことを否定したのである。私はしかし[それでも]踏み切れない、いったい何がそこからは〔帰結されるのか〕、と。私は、身体や感官に繁がされていて、それらなしにはかくてありえないのであろうか。しかしながら私に私は、世界のうちには、天空も、大地も、精神も、物体も、全く何一つとしてないということを、説得したのである、が、そうとすれば、また私もないと、説得したのではなかったであろうか。いな、そうではなくて、何かを私に私が説得したというのであれば、確かに[少なくとも]この私はあったのである。しかしながら、誰かしら或る、この上もなく力能もあればこの上もなく狡智にもたけた欺瞞者がいて、故意に私を常に欺いている。彼が私を欺いているならば、そうとすればこの私もまたある、ということは疑うべくもないのであって、彼が力のかぎり〔私を〕欺こうとも、彼はしかし[それでも]けっして、私が何ものかであると私の思惟しているであろうかぎりは、私が無である[アルイハ、何ものでもない、全然あらぬ]、という事態をしつらえることはできないであろう。かくして、すべてを十分にも十二分にも熟考したのであるから、そのきわまるところ「ワレアリ、ワレ存在ス、」という言明は、私によって言表されるたびごとに、あるいは、精神によって概念されるたびごとに、必然的に真である、と論定されなければならないのである。】(D-2)

    すべてを疑うという方法によってデカルトが疑言えないものとして見つけ出したのが「ワレアリ、ワレ存在ス、」みたい。

    ちょと長くなっちゃので、きょうはここまで。

引用返信/返信 削除キー/
■10689 / inTopicNo.91)  Re[10]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/24(Sun) 18:29:02)
    ふと

    キリストっていう人の教えはどうなのかしら?
    What do you Want to do?とかWhat do I Want to do?っていうのあるのかしら?

    あ、それと仏教ではどうなのかしら?


引用返信/返信 削除キー/
■10685 / inTopicNo.92)  Re[9]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/24(Sun) 17:44:16)
    デカルトの、のつづき。No10632(N-a)に【「すべてについて疑う」(デカルト哲学の出発点をなす言葉)】ってあるけど、わたしデカルト哲学の出発点はそこじゃないと思う。

    たしかにNo10665の(D-1)に「懐疑を徹底する」って書いてある(ひょとしたら訳者の挿入なのかもしれない)けど、デカルトの出発点はそこじゃなくて、【幼少の頃にどれほど多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまっていることか、そしてそのようなものの上にその後私の積み重ねてきているものがどれほど疑わしいものであることか】っていう“気づき”だと思う。

    幼少だったデカルトは「多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまって」いて、それを大きくなるにしたがって気づいたっていうことなんだと思う。これって、自分自身への問いかけからよね(だって、他人に問いかけてるわけじゃないから)?あ、だから「省察」なのかな?

    ところで、『省察』は1641年公刊、彼が生まれたのが1596年だから、この本が出されたのが彼が45歳のとき。彼がこれを書いていた時期はよくわかんないけど、「…こう気づいた」のは40歳ごろ?いずれにしても、幼少のころにすでに気づいていたわけじゃない、っていうことよね。ん?ってすると、40歳になった私(デカルト)が幼少の頃の私(デカルト)を見て、そう思った、っていうことになるよね?これってどういうこと?これ、難しそうだから後回しにしよ。

    もしこのように彼が気づかなければ「すべてについて疑う」ことなんて思いつきもしなかったんじゃないかしら。『省察』っていうのはこのような“気づき”から出発して、なんだとわたし思う。方法的懐疑」(すべてについて疑う)っていうのは「方法」ね。「“哲学”の出発点」を〈方法の出発点〉ってして、”哲学“は〈方法を見つけだすこと〉も含まれてる、ってしたなら、そうなのかも。

    デカルトの“したい”は、「真なるもの」を見つけたい。で、その方法として「すべてを疑って」みて、この方法をとれば「真なるもの」が見つかるんじゃないか?って思ったんだとわたし思う。

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■10669 / inTopicNo.93)  Re[8]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/23(Sat) 18:37:31)
    ふと、ね。

    「学問」って、〈問いを学ぶ〉よね。〈答えを学ぶ〉じゃなくて。
    ちなみにわたし「学」っていうの〈見えるようにすること〉ってしてます。

    〔カントが、学生にむかって、たえずくりかえしたつぎのコトバ。「諸君は、わたしから哲学を学ぶのではなくて、哲学することを学ぶでしょう。思想を、たんに口までするために学ぶのではなく、考えることを学ぶでしょう。〕
    っていうの、思い出した。

    「考えること」って、「問うこと」から生まれるのかな?
    「問い」が発生しなければ「考える」っていう働きも動きださないのかな?

    たとえば、幼児の「これなあに?」とか「どうしてそうするの?」みたいな。


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■10665 / inTopicNo.94)  Re[7]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/23(Sat) 17:06:52)
    >10632の(N-a)にデカルトさんが出てきてるから、ニーチェさんへ、のはちょっと横に置いといて、デカルトさんにWhat do you want to do?して見ます。

    『省察および反論と答弁』の第一省察「疑い疑いを差しはさみうるものについて(〈懐疑〉を徹底する)」からの抜粋。
    【私は、すでに幾年か前のことになるが、こう気づいたのである。幼少の頃にどれほど多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまっていることか、そしてそのようなものの上にその後私の積み重ねてきているものがどれほど疑わしいものであることか、したがって、もろもろの学問において堅固で朽ちることのないものを私がいつかは定着させたいと願うならば、一生に一度は[断固として]すべてを抜本的に覆してしまって、最初の土台からあらためて始めなければならない、と。】(D-1)

    デカルトの“したい”は【もろもろの学問において堅固で朽ちることのないものを私がいつかは定着させたい】かな? 

    ちなみにフッサールの『デカルト的省察』の訳注に、
    〔デカルトは、学問を「一本の樹」に喩えていた。「哲学全体が一本の樹のようなもので、その根は形而上学、幹は自然科学、この幹から出る枝は他のすべての諸学で、これは大別して三つの主要な学、すなわち医学、力学および道徳にまとまられます。」(『哲学の原理』仏訳者への手紙)に出てくる「普遍学」という構想も、ここから由来する。〕ってありました。

    いずれにせよわたしの“したい”は、「学問における」んじゃないような気がする。
    んん〜、わたしのは、“「私」における”、なのかな? What do I Want to do?

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■10646 / inTopicNo.95)  Re[6]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/22(Fri) 19:20:32)
    誰かが答えをもっている。

    ん?これ?
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■10644 / inTopicNo.96)  Re[5]: What do you Want to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/22(Fri) 18:34:04)
    No10632の(N-a)の【あの善き崇められた事物の価値を成すところのものの実態は、一見してそれと反対のあの悪しき事物と淫猥な仕方で相通じ、相結び、相鈎(つな)がれ、もしかしたら本質的に同じでさえあるというまさにその点に存することさえも、ありうべきことであろう。】っていうところ、わたしの見方を書いちゃう。

    【あの善き崇められた事物】ってなんだろ(「あの」「崇められた」ってニーチェさんが言ってるのだろうから、らなんかんの対象事物があるのだろうけど)?、ひとまず、一般的に「善いこと」ってして見ます。【の価値を成すところのものの実態は】だから、「善いことを欲する〈ところもの〉の実態は」ってなる。【一見してそれと反対のあの悪しき事物と淫猥な仕方で相通じ、相結び、相鈎(つな)がれ、もしかしたら本質的に同じでさえあるというまさにその点に存することさえも、ありうべきことであろう。】から、

    で、わたしがかってに言いかえちゃうと、
    「善いことを〈欲するところのもの〉の実態は、悪しきものと欲情を刺激する下品でみだらな仕方で相通じ、相結び、相つながれていている。もしかしたら、善いこと、悪いことは、本質的に同じなんじゃないだろうか?」ってなるの。

    で、「本質的に同じ」っていう本質は〈欲するところのもの〉。この〈欲するところのもの〉を見つけ出そうとするのがニーチェの”したい”ところなのかも?
    ここんところはエポケーね。

    わたし、【あの善き崇められた事物】を〈一般に「善いこと」〉ってしちゃったけど、いったいぜんたい、「善いこと」ってどんなことなのかしら?「悪いこと」ってどんなことなのかしら? と、自問。

    いずれにしても、わたしが読んでいるのは『善悪の彼岸』

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