| ■10705のつづき。「ワレアリ、ワレ存在ス、」っていうところ、ネットで調べたのを書いて見ます。
〔「我思う、故に我在り」仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている。〕
わたしのばあい、「思うこと」と「考えること」とは分節して見ているから、ここで訳されている「我思う」の「思う」はデカルトのばあい、「考える」の方に思えるので、 ego=我、cogito=考える、sum=我在り、exiso=存在する ってすることにしました。 ってしたとき、『省察』のEgo sum, ego existoは、「我 我在り、我 存在する」ってなっちゃうけど、ま、いいよね。Ego cogito, ergo sum, sive existoは「我考える、ゆえに我在り、または存在する」。ってなる。 で、〈考えること〉においてなんだと思うんだけど、デカルトさんに考えられたのを、ひとまず、「我考える、ゆえに我あり」っていうことにしとく。
なんか、デカルトさんにおいて考えられたものを、わたしが思うことと思われたものの物語りはもうちょっとつづきそう。
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