| ■11087のつづき アリストテレスの『形而上学』第一章の書き始めのところを抜粋して見ます。
【すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえんにさえ愛好されているものだからである。しかし、ことにそのうちで最も愛好されるのは、眼によるそれ〔すなわち視覚〕である。けだし我々は、ただたんに行為しようとしてだけでなく全くなにごとを行為しようとしていない場合にも、見ることを、言わば他のすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである。 ところで、動物は、(1)自然的に感覚を有するものとして生まれつている。(2)この感覚から記憶力が、或る種の動物には生じないが、或る他の種の動物には生じてくる。そしてこのゆえに、これらの動物の方が、ある記憶する能のない動物よりもいっそう多く利口でありいっそう多くの教わり学ぶに適している。ただし、これらのうちでも、音を聴く能のない動物は、利口ではあるが教わり学ぶことはできない、――たとえば蜂のごときが、またはその他なにかそのような類の動物があればそれが、そうである、――しかし、記憶力のほかにさらにこの聴の感覚をあわせ有する動物は、教わり学ぶこともできる。‥‥】(A)
このなかでわたしが気になったところは【すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する】というところと、【感官知覚〔感覚〕】っていうところ。これをわたしが受け入れるとすると、
【すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する】の「知ることを欲する」、これをわたし〈知ることを愛する〉っていう意味と同じとして「フィロソフィア」って見たのね。【生まれつき】はわたしの言うアプリオリ(先験的)ね。
【すべての人間は、】っていうことだから、当然赤ちゃんも含まれるはずよね。だから「赤ちゃんもフィロソフィア」って言えることになる。生まれたての赤ちゃんはおっぱいを吸うことを”すでに知っている“、これアプリオリだし、3歳ぐらになると、「これなあに?」とか「どうしてそうなるの?」って聞く。これってまさにフィロソフィア(知ることを欲する)。
わたしのばあい、〈知ること〉を、認識論のように真正な認識(知識・判断)だけに限って見ようとしてない。
【見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれる】とか【利口である】とか【教わり学ぶことができるとかできない】っていうの、わたしどうかと思うけど、いずれにしても「すべての人、生、フィロソフィア」においては【感官知覚〔感覚〕】を抜きにしては考えられない、っていうことを言ってるんだと思う。
デカルトのように「何ら感官を私はまったくもっていない」ことにしたり、「当てにならぬ記憶が表象する(ないしは、再現)するもののうちにはかつて存在していたものは何もない」ってするの、意識の働きを限局化して考えてるんじゃないかしら?
感覚知覚記憶って、たしかに当てにならないところあるのかもしれないけど、でもそれをも含めてフィロソフィアしようというのがわたしの〈私の生の意識を知りたい〉、かな?
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