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■11138 / inTopicNo.25)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/02/21(Sun) 09:35:24)
    悪魔ちゃん、おはよう
    タイピングおつかれさま!悪魔ちゃん自身のために引用してても、私にもお裾分けで参考になります(^人^)

    No11134
    >pipitさま、ここ見てたら、それ、そうじゃない、っていうのあったらなんか言って。<


    私はまだ『純粋理性批判』さえ通して読めてないから(^^;;
    でも読めてないものとしてでも、思ってることとか書かせてもらうね。(信用しないでね)

    No11134
    > カントは自然科学的知識(認識・判断)は真理(普遍・必然)である。が前提にあるんだな〜って思った。<

    今、ちょうど、カントの『純粋理性批判』における真理観あたりの読書をはじめてるんだ。
    いつも通り、ややこしそうなんだよ(-_-;)

    解説書なども合わせて私に形成されはじめている、今の段階の意見書くね。

    あの人は、悪魔ちゃんだ。(真)
    あの人は、pipitだ。(真)

    と言う時、(真)にした理由の中身は、違うよね。

    だから、カントは、真理の基準を問うなんて、不合理な問いだ、って言ってそう(間違えてたらごめん!)

    じゃあ、真理はないのか?と言うと、『超越論的真理』はあるかも、それを探す、と探索をしてそう。

    超越論的真理、とは、私たちの経験を形成している法則のことだね(pipitの言葉だから、外してる可能性大あり!勉強してみるね)

    それで、物理知識が真である、というのは、今ある知識が全部真である、ということを意味してるわけではないと思うんだ。

    私たちは物理知識などに関して、人間にとっての真と言える知識を、共に探ることが可能と言える権利がちゃんとあるんだ、が、超越論的真理のことだと思ってるんだ。

    (カントにとって)物理知識などに客観妥当性があり真と主張し得ることが可能となった理由の一つとしては、
    時間空間を、人間の主観の中に取り込んだから。
    だから、目に見えてない【物自体】に時間空間はあるのか、と、議論しても、(カントにとっては)根拠のないファンタジーになるけど、
    見えてるもの・の・時間空間については、人間同士で話し合える。
    物自体に触発されて現れる現象については、数学や自然科学などを見るに、主観とは言え、共有できるみたいだ。
    この共有できてる仕組みを探すと、超越論的真理が見つかるんじゃないかな?で、見つけたよ!
    というような論理かなあ?と今のところ思ってるよ(pipitの意見に変更修正可能性大あり!)

    これからまだ勉強するんだけど、先取りして、黒崎政男先生の本から、わかりやすいと思う箇所を次の投稿で引用するね。


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■11136 / inTopicNo.26)  Re[54]: 私は何を知りうるのか
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/20(Sat) 20:18:44)
    No11132から始まったカントの『純粋理性批判』の物語り、全部書き写すのはどうかと思うんで、最後のほうのをちょっと。

    「私は何を知りうるのか」と題してあって、

    〔自然科学的な知識が、どのようにして成り立つかを分析してきた。すなわち、先天的で、それゆえ普遍的に、すべての人間に通用し、また、必ずすべての人間に通用いなくてはならない総合判断が、どのような条件のもとで成り立つかを明らかにした。そのさい、強調されたことは、感覚的直観の多様を、われわれの自発的な活動様式によって、まとめてゆくということである。われわれの型のもとへ、感覚的対象を従属させてゆくということである。人間の形式によって内容を秩序づけ、もって経験を、経験的諸対象を構成してゆくということである。そして、このような統一、総括、秩序づけ、ないし構成の根本をなすものは、自我であった。根源としての自我(自意識)は、思考能力としての悟性、直観能力としての感性を働かせて(カントはこういう働きを、与えられたもののなかでの実験とよんでいる)、自然を、経験的世界を、対象を構成していったのである。そして悟性の機能様式がカテゴリーであり、感性のそれが時間・空間であった。
     近世哲学の祖といわれるデカルトは、「われは考える、ゆえにわれはある」とい、考えるわれを基本にして哲学上の諸問題を明らかにしていった。カントは、この立場をとっていた。いまや、外的な対象があって、それにわれの知が従うのではなく、考えるわれが、対象や経験的世界を可能にするのだという。
     だが、人間は神ではない。カントは、この点をはっきりと打ち出した。神の知は、同時にいっさいを創造する。しかし、人間の知は、あくまで、与えられた素材をまとめ、くみたて、つくりあげていくだけである。素材そのものを創造することは、人間に許されてはいない。人間にあらわれる現象に関してのみ、人間の作業は可能なのである。はたして素材をだれが与えるのか。その素材はどこからくるのか。その素材源泉そのものの姿ないし本質(たとえば、われわれによって確認された机ではなくして、机そのもの)は、何であるのか。それは、人間にはわからない。それを想像することはできても、それを把握し、それを存在する対象といて考えることはできない。そこに、人間の有限さがあり、人間の知の限界があるのである。感覚的所与に対する実験的作業なのである。
     カントによれば、古い形而上学は、この限界を見極めなかった。すなわち、人間の能力(感性・悟性)を反省・批判・検討しなかった。そして、傲慢にも、神のごとく、知性をして天空をかけめぐらせた。考えることが、同時に存在するかごとく、形而上的なものをあれこれ考えた。そこに、独断的な夢想があったのである。〕

    このようなまとめ的なもののあいだに、「私を触発するいろいろな刺激」、「直観」、感覚をまとめてゆく形式として「時間・空間」、「産出的構想力」、思考の枠組みとしての「カテゴリー」、思考能力である「悟性」、そして根源的自我による統一として「先験的統覚」あるいは「根源的統覚」、などについて書かれてるんだけど、これについてはここではパスね。ここのところがカントのキモなんだろうけど、用語の意味(概念)の違いからなのか、わたしにはごちゃごちゃしてくるから、そのなかにあんまり入りたくない気もしてる。

    ひとまず、小牧さんのから書き写してみました。こういうのってただ書き写しただけだからいっきにがいいと思ってね。

    でもこういうところって、現象学のと絡み合って、わたしの物語りのまんなかになっていくのかな、って思って。

    きょう一日かけてタイピングしたのはこれで終わり〜。あ〜つかれた。
    でもだいたいわたしのと連関するとこと抜き出せたかも。

    わたしの問題は、これらについての感想文。

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■11135 / inTopicNo.27)  Re[53]: 机
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/20(Sat) 20:06:47)
    ■11134のつづき

    〔いま、眼前にある机は、われわれに見られ、感じられ、触れられる数々の所与をもとにして、われわれがまとめあげて、机として確認している対象である。われわれにとって捉えられた机という姿であり現象である。したがって、それは、机そのものの姿ではない。われわれに与えられる素材がどこからくるのか、その素材がくる源泉はどういうものなのか、いわば机そのものはどういうものなのか、机の本質というべきものは何であるのか・・・それらは、われわれ人間にはわらない。それは、われわれ人間の知的能力(科学的な知的能力)のおよびえぬところなのである。われわれの知的能力のおよび得る範囲は、さきの、経験的世界についてだけである。したがって、その世界を超えて考えることはできない。この世界を超えて天がける思考は、空想や妄想でありえても真理であることはできない。かつての形而上学は、こういう独断をおかしていたのではないだろうか、とカントは批判した。〕

    ここに書かれてる〔机そのもの〕っていうのがカントの言う「物自体」っていうことかな?

    「机」にかんして、メルポンも言ってるからここで書き写して見たの。


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■11134 / inTopicNo.28)  Re[52]: 意識における構成
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/20(Sat) 20:02:11)
    ■11132のつづき             

    〔いっぱんに「自然の真理」を把握するというのは、何かわれわれの外に、われわれから独立して存在している対象を、あるがままにうつし取った場合と考えられている。自然の対象の姿を、あるがままに「表象」できた場合だと考えられている。この一致(対象の姿と表象との一致)が真理であるとしたとき、いったい、その一致をどうして調べることができるのか、何をもってして一致しているとみなすのか、対象は向こう側、表象はこちら側、だれが両者を比較して、その一致を判定するのか。・・・。そこで、「真理とは、外の対象のうつしであるという考え方」が間違っているのではないだろうか。また、「自然の対象の姿を捉えるという場合」、それは、「経験による」ほかないだろう。しかし、経験は、カントが問題にする先天的総合判断(普遍的・必然的な真理)を与えることはできない。そこで、カントは、「われわれの外に、われわれから独立して自然の対象があるのではなく、我々が、そういう対象をつくりあげていくのだ。」と考えた。「我々の側にある先天的(ア・プリオリ)形式・型が、自然の対象を、経験を、つくりあげていくのであって、その逆ではない。」
    「先天的」(ア・プリオリ)な枠とうのは、生まれながらにある枠という意味ではない。経験的な素材を受け入れてまとめ上げていく(総合してゆく)形式、型、枠、能力である。したがって、自分自身は経験的なものではなく、しかも経験があるかぎり、いつでもそこにまずもって考えられなくてはならない、根本的な形式のことである。こういう先天的な形式によって、構成された対象である以上、それに関し、普遍的・必然的な知識、すなわち真理をもちうることは、あきらかであろう。しかもそれがつくられた対象についての判断であるかぎり、たんなる概念の分析ではない、総合的な判断であることができよう。
    「われわれの外の自然に、われわれが独立してのものがあるのではなく、逆に、われわれが、そういう経験的対象を構成する」のである。普遍的・必然的な真理(科学的な先天的総合判断)は、われわれが、外のものを正しく描写することに成り立つのではなく、逆に、われわれが、みずからの形式(先天的な)によって、自発的につくりあげたものについての判断なのである。
    みずからの能力による自発的な構成であるかぎり、その構成は、主観的であるといえよう。しかし、経験や対象が存在するかぎり、いつでもその形式的な総合が作用していなくてはならないとするならば、それは同時に客観的である。こういう、われわれの自発性によって、自然の対象や経験が可能になり、そこでのいろいろの法則が把握され、先天的総合判断が成されうるのである。
    「人間の先天的な能力・形式によって、対象や経験が構成される」とカントは言う。すなわち、「人間の」である。〕

    カントは、自然科学的真理がいかにして可能となるのか――〈真正な知識(認識・判断)〉が可能になることこと――に限られてはいるけど、人の意識のアプリオリな総合を考えている、ってわたし見ている。

    こういうところのカントの見方はわたしのうちに取り入れられる。
    わたしのと連関するところとわたしに思われるところを分けてひとまず抜粋してくことにしてる。

    つづく

    pipitさま、ここ見てたら、それ、そうじゃない、っていうのあったらなんか言って。

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■11132 / inTopicNo.29)  Re[51]: 認識
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/20(Sat) 19:25:54)
    ■11109のつづき

    カントに戻るね。

    わたしの問い、〈意識(精神)におけるアプリオリな総合〉にかかわるところをね。

    わたしが読んでる小牧治さんの「カント」のから見て見る。
    それによると、

    カントの『純粋理性批判』は、〔自然科学での知識の正当性・真理性(正しいゆえん、真理であるゆえん)を批判・検討することにしよう。〕ということから始まっていて、その〔真理性〕は〔普遍・必然であること〕ってなったみたい。

    カントは自然科学的知識(認識・判断)は真理(普遍・必然)である。が前提にあるんだな〜って思った。

    次に「真理である自然科学的知識(認識・判断)はいかにして可能となるのか?」と、問いを進めてゆく。

    って、わたし見てる。

    この〈自然科学〉っていうの、わたしにわかりやすく、「物理学」ってしちゃう。物理学も自然科学よね、だからこれでもいいわけ。それに物理学って物を時間・空間で見てるような気がしてるし〜。「客観的な実在世界」っていうのは「物理学から見た世界」。「経験を可能にする諸条件」っていう「経験」っていうのは「物理学」っていう経験。
    だから、
    「カントは自然科学的知識(認識・判断)は真理(普遍・必然)であるとしている。」は、「カントは物理学は真理であるとしている」。「真理である自然科学的知識(認識・判断)はいかにして可能となるのか?」は、「物理学はいかにして可能となるのか?」って短くできる。

    つづく。


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■11131 / inTopicNo.30)  Re[50]: ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/20(Sat) 16:38:01)
    ■11130、書いてて思ったんだけど。

    カントがもし信仰深い人じゃなかったら、『純粋理性批判』は生まれなかったんじゃないかしら?って。
引用返信/返信 削除キー/
■11130 / inTopicNo.31)  Re[49]: 欲
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/20(Sat) 16:30:28)
    ■11116、マジモンさんへ

    カントが催眠術師だったんじゃないか、言ってるのニーチェだからね。
    わたしはただ「力」を「術師」に変えて見ただけ。

    >カントは欲についてどう思っているか?<
    そうね。
    前にipitさまのところで、「カントの幼少ころ」を書き写して見たけど、そのなかでカントはピエチスムス(敬虔主義)、キリスト教新教(プロテスタンチズム)ってあった。そういう人たちにとっての〈欲〉っていうのどうなのかしらね。わたしにはわかんない。

    でも、カントのを見ようとするとき、彼は信仰深い人だった、っていうの重要なこと、ってわたし見てる。

引用返信/返信 削除キー/
■11116 / inTopicNo.32)  Re[48]: ニーチェのとカントの
□投稿者/ マジカルモンキー -(2021/02/20(Sat) 00:26:26)
    No11109に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■11103はね、
    > 〈どうしてニーチェは、カントの先天的総合判断は誤りである、って判断したの?〉っていう問いがまだわたしの横に置いてあって、それを探すためにこれにかかわるとわたしに思われるところを、『善悪の彼岸』のなかからタイピングしてたのね。そしたら「一つの」っていうのがあったので、写してみました。
    >
    > この善悪の彼岸11においても、どうして、どこが、どのように誤った判断と判断したのかは書かれてないのよ。
    >
    > わたしが普通に11を見たとき、ニーチェはこう言ってる「カントは催眠力という一つの能力によって先天的総合判断を可能にしたのだ。そんな催眠状態から導き出された判断は当てにならない。だから誤りの判断だ。」って。
    > ニーチェによると、カントは催眠術師だったあ〜?って言ってる。こういうのニーチェのなんな幼稚ぽくってわたしおもしろいんだけど、“ニーチェの”はな〜にも語ってない気がする。ここでのわたしの問い、What do you want to do?のニーチェのが、いまのところわたしには見えてきてないんだけど、ま、ニーチェのはあとで探るとして、いまはカントのね。
    >
    > わたしね、カントの「先天的総合判断」、すべてを捨てない。「判断」をとって、〈意識の〉をつけ加えて、〈意識におけるアプリオリな総合〉として取り入れるって前に言ったよね。
    >
    > しばらくここらへんのをお喋りしよかな〜って。

    真夜中にこんばんわ

    メビウスリングの時に、カントはインチキではないか?と思っていたが、
    催眠術師ってきくと解る気がするね。
    仮にカント哲学と、マジモンの品質管理が似ているとするならば、
    時間割通り生きれば、うまくいくと思うけど、
    カントは欲についてどう思っているか?が肝心だよね。
引用返信/返信 削除キー/
■11114 / inTopicNo.33)  Re[49]: ニーチェのとカントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/19(Fri) 21:24:58)
    ■11112、パニさん、何言ってるかよくわかんないけど、ありがとうございます。

    ニーチェのはこれから。

    ちょっと気なったのは、「脳科学」?わたし、これとの関連づはちょっとまって〜、っていう感じ。脳科学って、フィロソフィアから見たら、陳腐な科学、って、わたしには見えるんね。なぜか、っていうのが自問。

    なんかわたしの机の上、問いだらけになってる〜。

引用返信/返信 削除キー/
■11112 / inTopicNo.34)  Re[48]: ニーチェのとカントの
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/19(Fri) 20:54:21)
    2021/02/19(Fri) 21:25:32 編集(投稿者)

    No11109に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■11103はね、
    > 〈どうしてニーチェは、カントの先天的総合判断は誤りである、って判断したの?〉っていう問いがまだわたしの横に置いてあって、それを探すためにこれにかかわるとわたしに思われるところを、『善悪の彼岸』のなかからタイピングしてたのね。そしたら「一つの」っていうのがあったので、写してみました。

    > この善悪の彼岸11においても、どうして、どこが、どのように誤った判断と判断したのかは書かれてないのよ。

    > わたしが普通に11を見たとき、ニーチェはこう言ってる「カントは催眠力という一つの能力によって先天的総合判断を可能にしたのだ。そんな催眠状態から導き出された判断は当てにならない。だから誤りの判断だ。」って。
    > ニーチェによると、カントは催眠術師だったあ〜?って言ってる。こういうのニーチェのなんな幼稚ぽくってわたしおもしろいんだけど、“ニーチェの”はな〜にも語ってない気がする。ここでのわたしの問い、What do you want to do?のニーチェのが、いまのところわたしには見えてきてないんだけど、ま、ニーチェのはあとで探るとして、いまはカントのね。

    悪魔ちゃんのニーチェ解釈楽しみ。
    あえて抽象的にパニチェ的解釈をカキコしておくと。。。
    ニーチェ哲学の大きな文脈上ではプラトニズムやキリスト教などセム系宗教は批判対象となり、カントは評価する部分と批判する部分に分かれる。
    私の中ではカントもニーチェも現代脳科学によって得られた知見に先駆けてるところがあり、あの時代にしてそれはやっぱ慧眼やなぁ〜と思います。

引用返信/返信 削除キー/
■11109 / inTopicNo.35)  Re[47]: ニーチェのとカントの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/19(Fri) 20:19:43)
    ■11103はね、
    〈どうしてニーチェは、カントの先天的総合判断は誤りである、って判断したの?〉っていう問いがまだわたしの横に置いてあって、それを探すためにこれにかかわるとわたしに思われるところを、『善悪の彼岸』のなかからタイピングしてたのね。そしたら「一つの」っていうのがあったので、写してみました。

    この善悪の彼岸11においても、どうして、どこが、どのように誤った判断と判断したのかは書かれてないのよ。

    わたしが普通に11を見たとき、ニーチェはこう言ってる「カントは催眠力という一つの能力によって先天的総合判断を可能にしたのだ。そんな催眠状態から導き出された判断は当てにならない。だから誤りの判断だ。」って。
    ニーチェによると、カントは催眠術師だったあ〜?って言ってる。こういうのニーチェのなんな幼稚ぽくってわたしおもしろいんだけど、“ニーチェの”はな〜にも語ってない気がする。ここでのわたしの問い、What do you want to do?のニーチェのが、いまのところわたしには見えてきてないんだけど、ま、ニーチェのはあとで探るとして、いまはカントのね。

    わたしね、カントの「先天的総合判断」、すべてを捨てない。「判断」をとって、〈意識の〉をつけ加えて、〈意識におけるアプリオリな総合〉として取り入れるって前に言ったよね。

    しばらくここらへんのをお喋りしよかな〜って。

引用返信/返信 削除キー/
■11103 / inTopicNo.36)  Re[46]: 一つの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/18(Thu) 19:21:20)
    【いまや至る所で、カントがドイツ哲学に及ぼした本来の影響から眼を逸(そら)し、殊に彼が自分自らに認めた価値を巧みに滑り超えようと努めているように私には思われる。カントは何よりもまず自分の範疇表を誇りとした。彼はこの表を手にして言った。「これこそはかつて形而上学のために企てらえた最も困難なものである。」――どうか、この「られえた」という言葉を理解してもらいたい!彼は人間のうちに一つの新しい能力、《先天的》綜合判断の能力を発見したことを誇りとした。彼がこの点で自ら誤っていたとしても、やはりドイツ哲学の発展と急激な開花は、この誇りに負うものであり、また、できうべくんば更により誇らしいものを――とにもかくにも「新しい能力」を発見しようというすべての後学の競争心に基づくのだ!しかしよく考えてみると、今がその時である。「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるか」とカントは自問した。――そして彼は果たして何と答えたか。一つの能力によって、と。しかし残念ながら、この簡潔な言葉をもってではなく、むしろあんなに廻りくどく、勿体らしく、かつドイツ語的な深意と虚飾癖とをもってしてしたので、そういう答えのうちに潜む愉しい《ドイツ語風の愚かさ》は聞き洩らされてしまった。そればかりか、この新しい能力のために我を忘れ、しかもカントが更になお加えて人間のうちにある道徳的能力をも発見したとき、歓呼の叫びは頂点に達した。――当時ドイツはなお道徳的であって、全然まだ「現実的・政治的」ではなかったからだ。――ドイツ哲学の蜜月が到来した。テュービンゲンの神学校の若い神学者たち(若いシェリングやヘーゲルを指す)はすべて直ちにその藪の中に入り込んだ。――皆の者が「能力」を探し求めた。そして見つけ出さぬものとてはなかった。――ドイツ精神のあの無邪気で、豊かで、なお若々しい時代においては、浪漫主義という意地の悪い妖精が当てもなく笛を吹いたり、歌いまくったりしていて、当時は「発見」と「発明」との分け隔てもまだつけられなかったのだ!なかんずく「超感性的なもの」に対する能力が発見された。シェリングはそれに知的直観という名で洗礼を施し、それによって根っから信心を求めてやまぬドイツ人の衷心からの欲情に迎合した。この全く思いあがり逆(のぼ)せあがった運動は、灰色の年寄じみた諸概念の衣で思い切った装いをしていたにもせよ青春であったのだから、これを真面目に受け取り、まして道徳的な憤激なんかで遇するのは、全くこの上もない不当の処遇と言わなければならない。それはとにかくとして、人々は老いた、――夢は飛び去った。額(ひたい)を撫でて考え込む時がやって来た。人々は今日といえどもなお額を撫でている。夢を見ていたのだ。それは誰よりもまず――老カントだった。「一つの能力によって」――とカントは言った。少なくともそう思った。しかし一体これは答えであるか。説明であるか。或いは、却って問いの繰り返しにすぎないのではないか。果たして阿片はいかにして眠らせるのか。「一つの能力によって」、すなわち《催眠力》によって、――とモリエール*の作中の医者は答える。
     《そのゆえは、それに催眠の力ありて、その力に感官をまどろます性(さが)あれば。》
    しかしこのような答えは喜劇に属する。それで結局、「いかにして《先天的》綜合判断は可能であるのか」というカントの問いを、「何故にかのような判断に対する信仰が必要であるか」という他の問いによって補充すべき時である。――すなわち、われわれの如き種類の生物を保持する目的のためには、このような判断が真理として信じられなければならないことを理解すべき時である。それ故にこの判断はもとよりなお誤った判断であってもよいのだ!或いは、もっと判明に、粗(あら)っぽく、かつ徹底的に言えば、《先天的》綜合判断は全く「可能である」はずがない。われわれにはそんなものを立てる何の権利もなく、われわれの口からすれば、それは真赤な嘘の判断である。ただし言うまでもなく、その真理性に対する信仰は必要であるが、それも生の配景的光学に属する一つの前景的信仰であり、外観である。――そこで最後になお「ドイツ哲学」――望むらくは、これが引用符を要求する権利をもつことを分かってもらえようか――が全ヨーロッパに及ぼした巨怪な影響を思えば、或る種の《催眠力》がそこに関与していたことを疑うわけには行くまい。あらゆる国々の高貴な有閑者・有徳者・神秘家・芸術家・四分の三のキリスト者および政治的非開花者たちの間では、ドイツ哲学のおかげで、前世紀から今世紀へ溢れ込んだなお優力な感覚論に対する解毒剤、要するに――《感覚をまどろませるもの》を手に入れて、我を忘れて喜ばれたのであった…‥】

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