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■11020 / inTopicNo.1)  おしまい
  
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/14(Sun) 07:55:36)
    お後がよろしいようで
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■11018 / inTopicNo.2)  Re[63]: 日本フィル海外ツアー 5
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/14(Sun) 07:51:58)
    おはようございます、floraさん

    プラハに飛んだのは5月13日、翌14日から2公演、移動が無いので観光ができました。印象に残ってるのはカレル橋、美しい街には必ず大きな河が流れていますがプラハにもヴルタヴァ(モルダウ)が流れていて、そこにカレル橋がかかっています。カレルってチャールズなんですね。この橋付近はブダペストよりも雰囲気があるかもしれません(哀愁?古い?)。

    16日はウィーンに飛んで乗りうち(移動した日に本番をすること)でした。ウィーンフィルの本拠地ムジークフェラインでのコンサート、すごく狭かったです。翌日はリンツへ行ったのでウィーンでは殆ど観光する時間がありませんでした。でも皆さんは観光の鬼ですから時間のない処から時間を捻出しザッヒャホテルへザッヒャトルテを食べに行きました。

    リンツの後はブダペストです。ブダペストに入って一番驚いたのはインフレの凄さです。以前タクシー初乗り8フォリント(ハンガリーのお金の単位)だったのが300フォリントになっていました(車はラダからベンツになってましたが)。こんな酷いインフレに見舞われるなら昔の共産の方が良かったと思う人がいるのでは思いました。
    ブダペストに入った夜、ルカーチの招きで、コバケン、日フィルの理事長も出席してレセプションが行われました。そこでハンガリー留学の経験があるということでボクもスピーチをしました。「皆さん、マエストロルカーチの奢りで食事をしたのだから失敗は許されません」言ったらルカーチは苦笑いしてました。

    ブダペストでは2公演、ここだけルカーチが1公演を振りました。残念だったのは会場がリストアカデミーの大ホールではなくコングレスセンターだったことです。ルカーチの時はブルックナーの4番《ロマンティック》を演奏しました。演奏が終わりバックステージに戻るとルカーチが目頭を押さえて泣いているのです。
    そんなにひどい演奏だったのかと思ったらその逆で、これほど素晴らしい《ロマンティック》の演奏は初めてだと感激していたのだそうで良かったです。

    ブダペストの後はいよいよ最終公演地アムステルダムです。ここも2公演、コンセルトヘボウの会場は素晴らしかったです。舞台中央に階段がありそこから指揮者が降りてくるのは最高の演出だと思います。
    もうこの頃はGPも無しでコンサートは夜なので昼間は観光タイムで、デルフトへ行ったり風車を見に行ったりゴッホ美術館やアンネの家へ行きました。街中は運河がめぐらされていますが、ヴェネチアとは違う雰囲気でした(ヴェネチアの方が写真になる感じ)。カレーが美味しかったです。英国もそうですが昔植民地を持っていた国はそこの料理が自国で発達するんですね。

    長くなりましたがこれが1991年のヨーロッパツアーで無事24日に帰国しました。

    写真はスピーチしているところ。若いなあ・・・
640×450 => 600×421

speech.jpg
/49KB
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■10987 / inTopicNo.3)  Re[62]: 日本フィル海外ツアー 4
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/13(Sat) 07:31:17)
    2021/02/13(Sat) 17:25:07 編集(投稿者)

    おはようございます、floraさん

    ボンの公演が4月29日、一日オフがあり、5月1日、ベルリンに入りました。友達が西ベルリンにいたので留学中に遊びにいったことはありましたが、その時は壁が崩壊する前、今回は崩壊後で、当たり前ですが壁は無くなっていました。コンサート(2日)はベルリンフィルの本拠地のフィルハーモニーで行いました。

    翌日、飛行機でチューリヒへ、ここでは4泊しました。その間コンサートはバーゼルとチューリヒでありました。バーゼルでは美術館へ行きましたが、ここは以前にも来たことがあり、とにかくバカでかい美術館です。

    7日にインスブルクへ行きコンサート、そこから南下しイタリアのラベンナへ入りました。ラベンナでは3泊しモデナとラベンナでコンサートをしました。モデナの会場はコンサートホールではなく天井にはミラーボールがありいつもはディスコホール(この頃ディスコの最盛期?)なのだと思います。行程表をみるとコンサートの開始が21時とあります。日本だとコンサートが終わる時間ですね。

    そこからオーケストラはフランクフルト→プラハ組とミラノ→プラハ組の二つに分かれました。ボクはミラノ組でした。ボクと同室の、マルセイユでブイヤベースの店で交渉してくれたK氏はパリで勉強したあとイタリアで就職していたのでイタリア語も堪能で(発音聴いていると日本語っぽいのですが、でも通じる)二人でラベンナからミラノへ行く間別行動をとり、フィレンツェやベローナへ行きました。どちらも以前に来たことがあり、中世ヨーロッパの雰囲気が漂ういい街です。ベローナではもちろんジュリエットのおっぱいを触りに行きました。宿泊はどうしたんでしょうね?覚えがありませんが、行き当たりばったりで駅のインフォマチオンで取ったんだと思います。

    12日の夕方ミラノのホテルに着きました。ホテル前で仲間3〜4人に会ったのですが、何か深刻な顔をしているでです。事情を聞くとその中の一人がパスポートを取られたとのこと、不用意にもバッグに入れたまま席の傍に置いていて盗まれたのだそうです。この頃はまだ再発行に日にちがかかり次の公演地プラハには間に合わないようでした。このエピソードはその後ずーっと言われ続けられることになります。

    さて同室のK氏ですが、久しぶりのヨーロッパで絶好調、毎日赤ワインをしこたま飲み、モデナかどこかではホテルで目が覚めると本番の30分前、タクシーを飛ばしてきて(相当チップをはずんでスピード違反をしてもらっそうです)間一髪間に合ったこともありました。また出立の時必ず何か忘れ物をするのでいつもボクが最終チェックをして部屋を出ていました。
    ミラノからプラハへ行く日も忘れ物チェックをし、今日は忘れ物ありませんね?大丈夫ですね!と集合時間にロビーに降りて行ったのですが、誰もいないのです!?

    ???

    変だなあと行程表を確かめると何と集合時間は30分前だったのです!それにしても・・・
    普通、誰か来ていなかったら部屋に電話するとかしません?
    後で聞いたら「あの二人は外国に慣れてるから後で来るでしょう。」ということで空港へのバスは出発してしたんだそうです。どう思います?

    こちらはそんなこと知りませんから、でもみんないないのだから先に行ってしまったことはわかりましたから、「タクシーで行きましょうか?」とタクシー乗り場へ向かおうとしたらツアーの添乗員の一人が「やはり心配になって」と戻ってきたのです。そこで初めて以上のような経過説明を受けました。空港につくと誰も心配していなくて「遅かったね」だって。

    どう思います?

    つづく

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■10974 / inTopicNo.4)  Re[61]: 日本フィル海外ツアー 3
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/12(Fri) 20:06:42)
    2021/02/13(Sat) 17:29:31 編集(投稿者)

    こんばんは、floraさん

    >小澤さんが新日フィルを率いたような印象
    その通りです。

    circaの使い方は「およそ、大体」という意味で同じです。ただ理由はわかりませんが、例えばメトロノーム表示でおおよそ四分音符=120という時、ca.120ではなくて120ca.と後ろに置くと習いました。

    >スチュワーデスさんは、何をおっしゃりたかったのでしょうか?
    「男性が編み物をしているのを初めて見た」ということでした。不思議と言えば不思議なのですが編み棒は凶器の指定にはなっていませんでした。ですから危険物ではないのです。今はどうなのかなあ?金属製の編み棒もあるし・・・、ハサミは持ち込み禁止ですし、尖った編み棒も凶器として使用可能ですよね???

    ===============================
    アメリカ・カナダツアーの翌年(1991)、第2回ヨーロッパツアーがありました。4月11日出立、5月25日帰国で1回目よりは短いですが40日を超える長いツアーでした。指揮はコバケンとルカーチ、ソリストは仲道郁代ちゃん(ショパンの1番)と漆原啓子さん(モーツァルトの3番、5番)でした。
    まずフランクフルトへ入りそこからマドリッドへ飛びました。その後バレンシアへ。バレンシアオレンジはここのオレンジなのか!?と変なことに感心しました。

    バレンシアで二日のオフがあり、着いて三日目にコンサートがありました。翌日はマドリッドでコンサートの予定でしたが、理由はわかりませんが中止になっていました。それで夜時間が出来たので友達とフラメンコを見に行きました。暫くすると隣にいた外人のオジサンが声かけてきて「どの踊り子がいい?」とか聞いてくるのです。初めはどの踊り子の踊りが上手いと思うか?と聞いていると思ったのですが、よくよく聞いてみると「どの女を買いたいか?」言っているのです。そのオジサンが店の関係者かどうかはわかりませんでしたが、丁重にお断りしました。

    マドリッドの後はボルドーへ行きました。ここの中華は日本より美味しいと思いました。中国を除き日本より美味しい中華があるとは驚きでした。ハンガリーにもチャイナレストランはありましたが砂糖の使い過ぎで、中華とは言えない代物でした。ボルドーもコンサート1回なのに三日もいて今思えば随分ゆとりのある(遊ぶ時間たっぷり)スケジュールです。ボルドーを出立したのが4月19日でパリ経由でマルセイユへ飛びました。

    マルセイユには思い出があります。思い出と言っても過去に行った訳ではなく、ハンガリー時代、留学していた女性が「風と木の詩」という漫画を持ってきており日本の漫画に飢えた皆さんが回し読みをし、ボクも読みました。少年の同性愛がテーマで主人公のジルベールがマルセイユ出身だったのです。
    マルセイユでの公演は珍しく記憶に残っています。会場の舞台が客席に向かって少し傾斜していたのですが、オペラやバレーの舞台ではそうなっていることがあるのだそうです。マーラーの5番でした。終わった時の猛烈な拍手とブラボーは今考えても最高のものでした。

    コンサートは8時半始まりで終わったのは11時近くで、それからみんなでブイヤベースを食べに行こうとなり繰り出したのですが店は丁度閉店の時間で断られたですが、一緒に行ったメンバーの一人がフランス留学の経験があり、フランス語で交渉してくれ、食べることが出来ました、ブイヤベースというものはこんなにも美味しいものなのだと初めて思いました。この交渉してくれた人は8歳年上なのですが、ずっと親しくして頂き、ホテルもずっと同室でした。このことが後でちょっとした事件になります。

    翌日はストラスブルク経由でメス(metz:ドイツ語でメッツ)に入りコンサートでしたが、この移動は気流がかなり悪く隣の女性がひじ掛けにしがみついていました(もし落ちたらひじ掛けにしがみついても何の助けにもなりませんが)。メスではシャガールのステンドグラスを見ました。

    翌日はリンダウ(Lindau)、ボーデン湖湖畔の街で、ここからドイツに入りました。湖に接したレストランで食事しました。4月下旬で気候もかなり楽し気になってます。リンダウでコンサートはなく同じく湖畔のフリードリヒスハーフェンでコンサートを行い以下、ローゼンハイム、ミュンヘン、ニュルンベルク、オスナブルク、ボンと連荘です。ミュンヘンのコンサートはガスタイク(Gasteig)で終了後近くの金魚という日本レストランでコバケンの奢りで食事をしました。
    ニュルンベルクは以前ロマンティック街道を旅行したことがあり、ワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガーでもよく知っているので、街並みも覚えていて懐かしかったです。
    ボンはベートーベンの生地で前にも数回来たことがあり、今回もベートーベンの家に行きました。やはりベートーベンには特別な思いがあります。ベートーベンが弾いていたビオラとかピアノとか補聴器とかあります。

    長くなってきました。ツアーの後半は次回で。
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■10950 / inTopicNo.5)  Re[60]: 日本フィル海外ツアー 2
□投稿者/ flora -(2021/02/11(Thu) 18:16:35)
    こんにちは、田秋さん。

    >日フィルの争議に関してはウィキペディアの日本フィルハーモニー交響楽団をご覧ください。そこの沿革の1972年辺りから。簡単に言えば、日本一のオーケストラを作ろうとしたけれどもあまりにお金がかかるので「もうやめた!」ということで、やめた側とやめられた側の争議です。

    読んだ限りでは小澤さんが新日フィルを率いたような印象を受けましたが、そうですか?

    >「トラ」というのはエキストラのことです。アインザッツ(Einsatz)をザッツとか、言葉の前半を省略する業界用語(?)です。似たものにcirca(イタリア語)をcaと記す例がありますが、カとは発音せずにちゃんとチルカと言うところは違いますね。

    circaというのは英語でも使われていて、年代などおおよそという風に使われているようです。例えばcirca(略としてc., cir.,) 2000ならば約2000年頃とか。 発音は英語式ではサーカ、音楽でも同じような意味で使われますか?

    ==========================
    >あとアメリカ国内で飛行機に乗っていた時、編み物をしていたら、急に誰かの手が伸びてきて誰かと思ったらスチュワーデスさん(そのころはキャビンアテンダントとは言ってなかった)だったことがあります。

    ずいぶん前から、編み物をなさっているのですね? それとスチュワーデスさんは、何をおっしゃりたかったのでしょうか? 急降下するから棒はあぶないとか?

    >このツアーは黒字でした。多分バブルの終わりの方で寄付も沢山集まったのだと思います。

    それはよかったですね。今は難しいでしょうね。

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■10938 / inTopicNo.6)  Re[59]: 日本フィル海外ツアー 2
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/11(Thu) 06:43:49)
    2021/02/11(Thu) 07:02:32 編集(投稿者)

    おはようございます、floraさん

    日フィルの争議に関してはウィキペディアの日本フィルハーモニー交響楽団をご覧ください。そこの沿革の1972年辺りから。簡単に言えば、日本一のオーケストラを作ろうとしたけれどもあまりにお金がかかるので「もうやめた!」ということで、やめた側とやめられた側の争議です。

    >留学には奥様もご一緒でした? とするならば、奥さまも慣れない土地で大変だったと想像いたします。 
    どちらも若かったから、27と24です。今考えると若いというのは物凄いエネルギーだと思います。

    「トラ」というのはエキストラのことです。アインザッツ(Einsatz)をザッツとか、言葉の前半を省略する業界用語(?)です。似たものにcirca(イタリア語)をcaと記す例がありますが、カとは発音せずにちゃんとチルカと言うところは違いますね。

    大平まゆみさんのことはニュースで知りました。無念だと思います。でもこれまでにも様々なハードルを乗り越えてこられたでしょうから、これからもきっと前向きに生きていかれると思います。勿論当人の心はボクにはわかりませんが、音楽家というのはいい意味で楽天的です。

    ==========================
    ボクが日フィルに入って最初の海外ツアーは1990年のカナダ・アメリカツアーで10月19日出立、11月5日帰国というスケジュールでした。指揮はコバケン、ソリストは諏訪内さんと仲道郁代さんと堤剛さんでそれぞれメンコン、グリーグ、エルガー、前プロ(コンサート1曲目)は武満の弦楽のためのレクイエム、メインはマラ5、チャイ5、シベリウスの2番でした。諏訪内さんはこの年チャイコフスキーコンクールで優勝しています(このツアーの前)。

    まずカナダに入り、キッチナー、トロント、ワシントン、ニューヨーク、一日オフでルイビル(Louisville)、トレド、コロンバス、イーストランシング、移動日、シカゴ、移動日、コスタメサ、パサデナ、帰国という日程でした。

    不真面目と思われるかもしれませんが演奏会のことはあまり覚えてません。(多分トロントの)ホテルの窓からアメリカンフットボールの試合が見れたこと(ホテルがフィールドに接していました)、キッチナーで食べたチャーハンが不味かったこと、ナイアガラの滝に行ったこと、シカゴでシカゴ交響楽団の演奏会に行ったこと(曲目、覚えてない、ショルティでなかったことだけは確かです)、シカゴのウィリスタワーにのぼったこと、ニューヨークでジャズクラブに行ったこと、最後の方はロスアンジェルスに滞在していましたが、リトルトーキョーで食事したこと、一人で地下鉄乗って適当に降りたらちょっと危なそうな雰囲気だったっことなどを覚えています。あとアメリカ国内で飛行機に乗っていた時、編み物をしていたら、急に誰かの手が伸びてきて誰かと思ったらスチュワーデスさん(そのころはキャビンアテンダントとは言ってなかった)だったことがあります。

    このツアーは黒字でした。多分バブルの終わりの方で寄付も沢山集まったのだと思います。
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■10921 / inTopicNo.7)  Re[58]: 日本フィル海外ツアー 1
□投稿者/ flora -(2021/02/10(Wed) 18:02:38)
    田秋さん、こんにちは

    >しばらく前にお尋ねになった日フィルの海外公演地のことを書こうと思います。1回では書ききれないので何回かに分けます。
    >争議が解決した翌年(1985)、日本フィルは第1回ヨーロッパツアーを行いました。

    あのう・・・事情を全く知らないのですが、分裂したのですか? 

    >50日を超える大規模なツアーでヨーロッパの他、エジプト公演も行いました。

    1985年と言いますと、海外での公演への準備も大変だったと想像いたします。

    >この時ボクはまだヨーロッパにいて最終公演を聴きに行きました。名前は忘れましたが(Hから始まる地名だったような)デュッセルドルフ近くの町で、メインはチャイコの4番でした。

    Heiligenhaus?

    >留学する前、ボクは日フィルには数度しか行きませんでしたが当時の妻はかなりお世話になっていました(留学後、団員から寄せ書きが送られて来るくらい:若かったし人気あったんでしょうね)。

    留学には奥様もご一緒でした? とするならば、奥さまも慣れない土地で大変だったと想像いたします。 

    >これが1985年秋のことで、この時は自分が日フィルに入るなどとは全然考えてもいませんでした(実際は1年後にオーディションを受けることになります)。その半年後に新日フィルもヨーロッパに来て、これも聴きに行きました。ま、聴くというよりも知人に会いに行くって感じだったですが(新日にはよくトラで行ってました)。ホールも違うので一概には比較できませんが、日フィルの方が音が厚いという印象を持ったのは覚えています。

    今は欧州ツアー等は頻繁になされないのでしょうか? 経費の面だけでも大変だと思いますが。それから「トラ」って何ですか?

    そういえば最近ニュースで見ましたが、札幌交響楽団のコンサートマスターの大平まゆみさんが「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の疑いがあり退団なさいましたね。この方は音高と芸大、田秋さんのちょっと後輩にあたる方でしょうか・・・ ホーキングさんもALSだったと思いましたが、演奏できなくなるということ・・・どんなにかお辛いことと思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■10918 / inTopicNo.8)  日本フィル海外ツアー 1
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/10(Wed) 06:04:15)
    おはようございます、floraさん

    しばらく前にお尋ねになった日フィルの海外公演地のことを書こうと思います。1回では書ききれないので何回かに分けます。

    争議が解決した翌年(1985)、日本フィルは第1回ヨーロッパツアーを行いました。50日を超える大規模なツアーでヨーロッパの他、エジプト公演も行いました。この時ボクはまだヨーロッパにいて最終公演を聴きに行きました。名前は忘れましたが(Hから始まる地名だったような)デュッセルドルフ近くの町で、メインはチャイコの4番でした。
    留学する前、ボクは日フィルには数度しか行きませんでしたが当時の妻はかなりお世話になっていました(留学後、団員から寄せ書きが送られて来るくらい:若かったし人気あったんでしょうね)。もう一つ、リストアカデミーにいた頃、お父さんが日フィルのバイオリンという女性がいたので、そのお父さんにもご挨拶を、ということで打ち上げに参加しました。このお父さんに会った時のことはよく覚えています。娘さんのことを話すとうれしそうになさっていました。この時娘さんは既にヨーロッパを去りオーストラリアに行っていたと思います(彼氏のところ)。また後に直属の上司となる芸高の2年先輩のびよらのオネイサンもいたのでご挨拶しました。

    これが1985年秋のことで、この時は自分が日フィルに入るなどとは全然考えてもいませんでした(実際は1年後にオーディションを受けることになります)。その半年後に新日フィルもヨーロッパに来て、これも聴きに行きました。ま、聴くというよりも知人に会いに行くって感じだったですが(新日にはよくトラで行ってました)。ホールも違うので一概には比較できませんが、日フィルの方が音が厚いという印象を持ったのは覚えています。

    つづく
引用返信/返信 削除キー/
■10876 / inTopicNo.9)  Re[57]: ポロネーズ
□投稿者/ flora -(2021/02/08(Mon) 18:06:49)
    No10872に返信(田秋さんの記事)

    田秋さん、こんにちは

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BA
    >
    > そこに載っているリズムがポロネーズのリズムです。映像もあるのでご覧ください。
    > 男女がペアになって3拍子で歩く(だけの)舞踏(?)で、1拍目、軸足は少し折り踏み出す方の足はまっすぐ伸ばす感じにしています。
    >
    > どこが面白いのかわからないダンスですが、誰にでも(ボクでも)踊れるというメリットはあります。
    >
    > 遅いテンポの3拍子にポロネーズのリズムを盛り込めばポロネーズになるなら制約としては緩いので、その辺り(作曲家の自由が担保される?)に作曲家の好奇心がくすぐられたのかもしれません。←独自研究(ボクの思いつき)

    ギャッ、ショパンの「ポロネーズ」とは似ても似つかないですね。さすがショパンといいますか・・・

    ちょっと前に民族音楽を取り入れたクラシックが結構あると伺いましたが、ほかにどんなものがあるのでしょうか?


引用返信/返信 削除キー/
■10875 / inTopicNo.10)  Re[56]: クラシック→ポップス
□投稿者/ flora -(2021/02/08(Mon) 18:03:41)
    No10854に返信(田秋さんの記事)

    田秋さん、こんにちは。色々とありがとうございます。
    >
    > 平原綾香 Jupiter
    > https://www.youtube.com/watch?v=aGWzRUdn0so

    日本の状況はほとんど知らないのですが、ひとつ思い出しました。

    英国の愛国歌で第二の国歌ともいわれる『我は汝に誓う、我が祖国よ』もホルストの『ジュピター』からだったと思います。

    https://youtu.be/bvouc8Qs_MI

    > Eric carmen ”All by Myself” Rachmaninoff Piano concerto No.2
    > https://www.youtube.com/watch?v=iN9CjAfo5n0

    これはまったく思いつきませんでした^^;

    > 逆の例です。ボクにはクラシックの様に聞こえます。決してジョージハリソンこのようには弾かないと思います。
    > 村治佳織 Here Comes The Sun
    > https://www.youtube.com/watch?v=wHSmqwpnpBQ&feature=emb_logo

    美しいですね〜

    そういえば「レッド・ツェッペリン」の『天国への階段』もよくオーケストラ化(というのでしょうか?)されているようですね。

    https://youtu.be/dR5GN2aPsyY
引用返信/返信 削除キー/
■10872 / inTopicNo.11)  ポロネーズ
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/08(Mon) 06:37:32)
    おはようございます、floraさん

    ウィキペディアのポロネーズの項です。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AD%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BA

    そこに載っているリズムがポロネーズのリズムです。映像もあるのでご覧ください。
    男女がペアになって3拍子で歩く(だけの)舞踏(?)で、1拍目、軸足は少し折り踏み出す方の足はまっすぐ伸ばす感じにしています。

    どこが面白いのかわからないダンスですが、誰にでも(ボクでも)踊れるというメリットはあります。

    遅いテンポの3拍子にポロネーズのリズムを盛り込めばポロネーズになるなら制約としては緩いので、その辺り(作曲家の自由が担保される?)に作曲家の好奇心がくすぐられたのかもしれません。←独自研究(ボクの思いつき)
引用返信/返信 削除キー/
■10854 / inTopicNo.12)  クラシック→ポップス
□投稿者/ 田秋 -(2021/02/07(Sun) 11:55:21)
引用返信/返信 削除キー/

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