| ■10085、 >目の見えない人には、何の句読点があるのん?< ごめん。 ■10077で抜粋した箇所からだけではメルロが〈句読点〉っていう語でなにを意味しようとしたのかはわかんないのかもしれない。
「赤」色、ってたしかに視覚だけど、メルロは感覚の一つの例として挙げたんだとわたし思ってる。
メルロの『行動と構造』に似たようなことが書いてあるので抜粋してみますね。 【常識の見解、つまり、知覚したことを常識的な言葉で述べるその報告と、知覚的経験そのものとの区別――話された知覚と生きられている知覚との区別――ぐらいはいはしておくべきであろう。】 【〈感覚〉としての赤と「どんな」赤かというときの赤とは区別されなければならない。〈どんな〉という質のうちには、すでに赤という純粋印象と、例えば空間・時間のある拡がりを覆う〈印象の機能〉という二つの契機が含まれている。】 【いったい〈感覚〉としての赤と、「どんな」赤かという、純粋印象と例えば空間・時間のある拡がりを覆うという〈印象の機能〉との二つの契機が含まれている。従って〈認識する〉ということは、つねにある与件を、ある機能において、またある関係の中で、つまり、それが私にとって意味をもち、しかじかの構造を呈示する「かぎりにおいて」把握するということである。】
だから、目が見えない人においては、視覚以外の”感覚”においてメルロの言う〈句読点〉があるんじゃないかしら?
でもこれだけじゃメルロの言う〈句読点〉についてわたしのを書いてないよね。
生(なま)の感−知覚されているそのものを言葉で表現するのはむずかしいけど、でもそれをなんとか記述しようとしているのがこの〈句読点〉という表言となったのだとわたし思ってる。
ねえ、pipitさま、「句読点」が意味するものを考えてみたら何か浮かんでこない?
ニーチェのまねして、メルロはね、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」って言って、去っちゃう人とは違うの。
わたしがこの〈句読点〉で浮かんだのがフーコーの、 「近代の思考は、もはや〈相違性〉のけっして完成されることのない形成にではなく、つねに完遂されなければならならぬ〈同一者〉の解明に向かう思考である。こうした解明は、〈分身〉の同時的出現、さらに、「と」のなかにある、わずかだが克服しえぬあの偏差、そうしたものなしにはおこなわれないであろう。」
なにいってるのかわかんないかもしれないと思いつつ、ちょっと発散させてもらいました。 カントの、とまったく関係ない話じゃないからちょっと書いちゃったー、的な、かな?
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