(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■10495 / inTopicNo.49)  Re[44]: 現象
  
□投稿者/ pipit -(2021/01/12(Tue) 20:59:04)
    こんばんは。

    No10372に返信(pipitさんの記事)
    > ちょっとわからないなぁ。
    >
    > カントは、感性的直観が関わってないと、現象と呼ばないのかなぁ。
    >
    > 思考(だけ)が現れることは、、、表象?
    >
    > ごめん、まだまだ、全然わかってないよ。<


    現象についてのカントの文章をみつけたので引用します。
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p105より引用

    引用開始
    『しかしこのようにして対象が認識できるようになるためには、二つの条件がある。
    その第一は対象を直観するという行為が行われることであり、これによって対象が、ただし現象としてのみ、与えられる。
    第二は概念が適用されることであり、これによって直観に対応した対象が思考される。
    (略)
    すべての現象は、感性の形式というこの条件と必然的に一致するが、それは現象がこの条件によってのみ人間に現れるから、すなわち人間に経験的に直観され、与えられるからである。』
    引用終了

    第二版・B125か、126の訳みたいです。

    この箇所では、現象は、五感によって知る『現れ』みたいなかんじですね。

    見られたもの
    聞かれたもの
    嗅がれたもの
    味わられたもの
    触れ感じられたもの

    このようなものを『現象』といってるのかな、と、思いました。

    そしてそれらを、結合や統合させるのは、カントの場合、知性だと考えているのかな、
    と、今のところ思っています。

    同本p112より引用
    引用開始
    『心に描かれたさまざまな像には多様なものが存在し、これは直観において与えられることができる。
    ただしこの直観はたんに感覚的な直観にすぎず、像を受容する能力によって受けとめられたものにすぎない。
    この直観の形式は、わたしたちが像を思い描く能力のうちにアプリオリに含まれているものであり、主体がどのように触発されるかというあり方にすぎないのである。

     ところが多様なもの一般の結合は、感覚能力によってわたしたちに与えられることはできない。
    だからこれが、感覚的な直観の純粋な形式のうちに同時に含まれるということはありえないのである。
    こうした結合は、像を思い描く能力の自発的な働きによるものだからである。
    この自発的な働きをなすものは、感性とは区別して、知性と呼ぶ必要がある。
    あらゆる結合は、すべて知性の働きによるものであるーーーわたしたちがそれを意識しているか無意識なのかを問わず、直観における多様なものを結合するのかそれとも多数の概念を結合するのかを問わず、さらにその直観における多様なものの結合が、感覚的なものか感覚的でないものかを問わないのである。
    わたしたちはこの[結合の]働きに総合という一般的な名称を与えることにしよう。』
    引用終了。B130



引用返信/返信 削除キー/
■10431 / inTopicNo.50)  Re[45]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/10(Sun) 19:55:51)
    ■10313、カントの文章、初版の演繹論、の抜粋してくれたとこ、考えてるだけど。
    ちょっと聞きいていい?
    Apperzeption(独)、日訳で「統覚」なのかもしれないけど、このApperzeptionについてカントはどんなこといってるの?
    あ、気が向いたときでいいの。

引用返信/返信 削除キー/
■10373 / inTopicNo.51)  Re[44]: 現象
□投稿者/ pipit -(2021/01/05(Tue) 23:26:21)
    No.10330

    >とりあえずのカントの文章での、現象についての記述を見たよ。引用するね。

    御子柴善之先生『カント純粋理性批判』p88より、カント文章の訳
    『ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。感覚によって対象に関係するような直観を、経験的という。経験的直観の未規定な対象を現象という。(A19f./B34)』
    引用終了

    中山元先生『純粋理性批判1』p70.71より引用、B34部分
    『わたしたちが対象から触発されるということは、わたしたちの心のうちに、[対象の]像[=表象]を形成する能力がそもそも存在していて、これに対象が働きかけ、そこでわたしたちのうちに感覚が生まれるということである。感覚をつうじて対象にかかわる直観は、経験的な直観と呼ばれる。経験的な直観の対象は、それが[まだ個別の性質をもつものとして規定されていないという意味で]未規定なものである場合には、[一般的に]現象と呼ばれる。』
    引用終了<

    この引用箇所では、経験的な直観対象のうちで未規定なものが現象と言ってるなぁ。

    わたしの頭に浮かぶ単語は、現れ、だなぁ。

    物自体に感性が触発されて得た直観、が、現象なのかなぁ。

    う〜ん。。。。。(-_-)zzz

引用返信/返信 削除キー/
■10372 / inTopicNo.52)  Re[43]: 現象
□投稿者/ pipit -(2021/01/05(Tue) 23:20:07)
    ちょっとわからないなぁ。

    カントは、感性的直観が関わってないと、現象と呼ばないのかなぁ。

    思考(だけ)が現れることは、、、表象?

    ごめん、まだまだ、全然わかってないよ。
引用返信/返信 削除キー/
■10371 / inTopicNo.53)  Re[42]: 現象
□投稿者/ pipit -(2021/01/05(Tue) 23:05:09)
    2021/01/05(Tue) 23:09:48 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは。感想書くね。

    > 現象学における「現象」の意味(概念)
    >
    > 『一般的には、われわれに現れてくるものごと、感覚的な知覚に現れてくるものごと、われわれの主観的な観念の相関者としての現れを意味するが、<

    ↑ この部分が、カントがイメージしていた『現象』で、
    (意識と知覚の関係についたはちょっと?かもだけど)

    ↓ 上記内容から変容した、以下のものが、悪魔ちゃんや現象学に関わる方たちイメージする『現象』なのかも、と思ったよ。それとも、悪魔ちゃんは、上記のイメージで『現象』を使ってる?(ごめん、後で出てくる[ わたし、ここに書かれているような一般的な意味としてるけど]の読み取りが私にはわからなかったから)

    > 現象の学としての現象学においてその意味を変容されて重要な位置を占める概念となった。現象学は「事象そのものへ」というモットーに従って、われわれの経験の無偏見的な記述を追求する。現象学的には経験に直観的に与えられる現象は、たとえば本質と現象といった関係において捉えられる場合に見られるように、現れないものごとをその背後に隠す表層的出来事ではなく、事象そのものを「身体をそなえて」われわれに提示している。経験において現象としてそれ自体をわれわれに与えてくれる対象や世界は、自然的態度においては暗黙のうちに自体的に存在するものとして前提されてその真の現れにおいて捉えられていないのであるから、その制約性を乗り越え、それが与えられてくるその現れにおいて独自の方法論的態度をもって分析することが現象学的仕事となる。
    > (略)
    > 現象概念をさらに展開したのはハイデガーである。それによると、現象学的意味での現象とは「己れを己れ自身に即して示すもの、露わなもの」という意味をもち、見せかけのものとして仮象(Schein)と、己れ自身を示さずに間接的に告げるものないしは己れを告げつつ隠れた他のものを暗示するものとしての現出(Erscheinung:現出は、現象という意味をもつ)からは区別される。現象学とは、「己れを示すものを、それが己れを己れ自身から示すとおりに、己れ自身のほうから見させる」ことであるから、優れた意味で現象といわれるものは、さしあたり大抵は隠れているが、己れを示すものに本質的に即するもの、存在者の存在である。』(「現象学事典」より)
    >
    > わたし、ここに書かれているような一般的な意味としてるけど、現象学のをちょっと整理して見ました。
    > 「現象」(独)Phanomen(仏)phenomene(英)phenomenon
    > (独、仏のaの上の点々やeの上のちょんは省略しました)
    > 現象学における「現象」はPhanomenで、仮象Scheinや現出Erscheinungとは区別されてるみたい。(現象学ではErscheinungは「現出」と訳されています)
    > そして、
    > 現象=おのれをおのれ自身に即して示すもの、あらわなもの
    > 現象学=己れを示すものを、それが己れを己れ自身から示すとおりに、己れ自身のほうから見させること<


    物自体を設定するか否かも、記述中の『現象』のニュアンスに影響あるかも、と、思ったよ。


    ちなみに、ドイツ語のErscheinung、Phanomen、を、
    グーグル翻訳で英訳したら、Appearance、phenomenon、と出たよ。


    > pipitさまが紹介してくれた『わたしたちに与えられる最初のものは現象であり、この現象がわたしたちの意識と結びつくと、知覚と呼ばれるようになる。…‥』っていうカントの見方。ここでの中山元さん訳「現象」っていうのは、現象学の「現象Phanomen」じゃなくて、Erscheinungを「現象」って訳してる、って言うことがわかりました(だから最初でつまづいちゃったのかも)。じゃあ、Erscheinungを現象学の意味での「現出」ってして見たらどうなんるんだろ?な〜んても考えてもいるよ。
    >
    > あ、ところでErscheinungの日訳なんだけど、たしか中島義道さんも「現象」ってしてたみたいだけど、なんかあるのかしら。<

    カント哲学の解説本では、Erscheinungは現象と訳されてることがほとんどな気がするよ。カント辞典でも、現象はErscheinungがドイツ語として載ってたよ。
    悪魔ちゃんが説明してくれたことによると、現象学では、Erscheinung、Phanomen、二つの単語を使い分けてるみたいだけど、カントはまだ、そんなに区別してないかもだね。わからないけど。
    (ごめん、まだ、純粋理性批判の4分の1も読めてないんだ(^^;))
引用返信/返信 削除キー/
■10370 / inTopicNo.54)  Re[41]: 現象
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/05(Tue) 21:04:05)
    pipitさま、こんばんわ

    わたし、「現象」を〈脳の働きによって現れてるもの〉、みたいなこと前に言ってたと思うけど、現象学における「現象」は違う見たいです。
    おかげで、「現象学」と、現象学における「現象」っていう語の意味(概念)が少し見えてきた感じで〜す。ありがと。わたしごとですが、そこらへんをちょっと書いちゃうけど、これ現象学の話題なのでスルーしてもらっていいよ。わたし自身のためのだから。

    現象学における「現象」の意味(概念)

    『一般的には、われわれに現れてくるものごと、感覚的な知覚に現れてくるものごと、われわれの主観的な観念の相関者としての現れを意味するが、現象の学としての現象学においてその意味を変容されて重要な位置を占める概念となった。現象学は「事象そのものへ」というモットーに従って、われわれの経験の無偏見的な記述を追求する。現象学的には経験に直観的に与えられる現象は、たとえば本質と現象といった関係において捉えられる場合に見られるように、現れないものごとをその背後に隠す表層的出来事ではなく、事象そのものを「身体をそなえて」われわれに提示している。経験において現象としてそれ自体をわれわれに与えてくれる対象や世界は、自然的態度においては暗黙のうちに自体的に存在するものとして前提されてその真の現れにおいて捉えられていないのであるから、その制約性を乗り越え、それが与えられてくるその現れにおいて独自の方法論的態度をもって分析することが現象学的仕事となる。
    (略)
    現象概念をさらに展開したのはハイデガーである。それによると、現象学的意味での現象とは「己れを己れ自身に即して示すもの、露わなもの」という意味をもち、見せかけのものとして仮象(Schein)と、己れ自身を示さずに間接的に告げるものないしは己れを告げつつ隠れた他のものを暗示するものとしての現出(Erscheinung:現出は、現象という意味をもつ)からは区別される。現象学とは、「己れを示すものを、それが己れを己れ自身から示すとおりに、己れ自身のほうから見させる」ことであるから、優れた意味で現象といわれるものは、さしあたり大抵は隠れているが、己れを示すものに本質的に即するもの、存在者の存在である。』(「現象学事典」より)

    わたし、ここに書かれているような一般的な意味としてるけど、現象学のをちょっと整理して見ました。

    「現象」(独)Phanomen(仏)phenomene(英)phenomenon
    (独、仏のaの上の点々やeの上のちょんは省略しました)
    現象学における「現象」はPhanomenで、仮象Scheinや現出Erscheinungとは区別されてるみたい。(現象学ではErscheinungは「現出」と訳されています)
    そして、
    現象=おのれをおのれ自身に即して示すもの、あらわなもの
    現象学=己れを示すものを、それが己れを己れ自身から示すとおりに、己れ自身のほうから見させること

    pipitさまが紹介してくれた『わたしたちに与えられる最初のものは現象であり、この現象がわたしたちの意識と結びつくと、知覚と呼ばれるようになる。…‥』っていうカントの見方。ここでの中山元さん訳「現象」っていうのは、現象学の「現象Phanomen」じゃなくて、Erscheinungを「現象」って訳してる、って言うことがわかりました(だから最初でつまづいちゃったのかも)。じゃあ、Erscheinungを現象学の意味での「現出」ってして見たらどうなんるんだろ?な〜んても考えてもいるよ。

    あ、ところでErscheinungの日訳なんだけど、たしか中島義道さんも「現象」ってしてたみたいだけど、なんかあるのかしら。

引用返信/返信 削除キー/
■10357 / inTopicNo.55)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/01/04(Mon) 20:55:58)
    こんばんは!

    >原文探し、すご! ”知りたい“っていう欲望がいっぱいで!<

    そうやろぅ〜 欲エンジンで子供みたいな方法で探しちゃうよ

    >  >『私たちが最初に与えられるのは、意識と結びついたときに知覚と呼ばれる外観です。』<
    > のほうがなんとなくわかりやすかったです。でも、
    > 「私たちが最初に与えられるのは」っていうのなんかヘン。「私たちに最初に与えられるのは」っていうんだったらわかるけど。だって「与えられる」だし。
    わたしにわかりやすく書き換えてみると「私たちの意識において、私たちに最初に与えられるのは、知覚と呼ばれる外観です。」のほうがすんなり来る気がする。
    「知覚と呼ばれる外観」っていうのはどうなのかな?って思う。“言葉”も知覚されるものに含まれるってわたし思ってる。<

    機械的に翻訳したものだろうから、文脈にもっと添った、わかりやすい翻訳の仕方もあるだろうね。



    > ちょっと、わたしのを書かせてもらうね。
    > わたしの「知覚」の意味は、〈異種感覚情報の統合〉ってしてます。<


    悪魔ちゃんは、知覚、に、もう統合も含めちゃうんだね。


    > 〈異種感覚情報〉っていうのは身体の別々の場所に位置してる感覚器官(眼・耳・鼻・口・体)からの信号のこと。
    > これが行われてるのは、<

    異種感覚情報の統合が行われてるのは、ってこと?

    例えば、ワン!という声と、犬の姿と、の知覚情報があるとするやん。
    音と姿形という情報を統合して、犬という生き物、という対象をつくるみたいなかんじかな?

    >身体の「脳」って呼ばれてる場所で、この脳の働きの一つに「意識」っていう名がつけられてる。フロイトが発見した「無意識」っていうのあるけど、〈無意識っていう意識〉ってしたとき、無意識も一つの意識、ってして見てる。<


    うん。


    > わたしこのごろ「意識」と「認識」を分節して見てます。
    > っていうのは、メルロは【あらゆる意識が認識であるとはかぎらない】って見ている見たいだから。<

    うん。


    > だから、■10331の wikiの哲学における知覚のところで、
    > >このような器官に起きる変化だけでは 「それが外部(客観)によって生まれた刺激である」と認識することは不可能である<
    > っていうところ、わたしのと違う。「外部」は「客観」じゃなくて「客観」は内部だし、「外部」をただ単に「刺激」って見ることもイヤだし、「認識することは不可能」っていう認識することからしか意識を見られなくなっちゃwikiの解説者には不満。<

    うん。


    > 「知覚」については長くなるから、もうやめとく。
    >
    > あ、それから■10325 のイチゴの話題なんだけど、わたしの見方でこれについて書こうと思うと”初めから”になっちゃいそうなので、後でね。
    >
    > pipitさまとのやりとりは、わたしたのしい。<

    悪魔ちゃんとお話しするのは、とてもおもしろいし、一人で考えてるより、もう何段階か深く考えるチャンスを、いっぱい作ってもらってると思ってる。
    いつもありがとう(^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■10353 / inTopicNo.56)  Re[40]: 与えられる
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/04(Mon) 17:44:54)
    「与えられる」っていうばあい、〈なにが・なにを・なにに〉っていうのあるんじゃないかしら?
    カントが言う「私たちに与えられる」っていう意味、どんなのかしら?
    カントのばあい、私たちに、なにが、なにを”与えている”ってしてるのかしら?

    ふと、なんで、ただ書いて見ただけだから、ナシでいいよ。

引用返信/返信 削除キー/
■10352 / inTopicNo.57)  Re[39]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/01/04(Mon) 16:45:33)
    pipitさま、いろいろ調べてもらってとありがとうございます。

    ■10327、原文探し、すご! ”知りたい“っていう欲望がいっぱいで!
     >『私たちが最初に与えられるのは、意識と結びついたときに知覚と呼ばれる外観です。』<
    のほうがなんとなくわかりやすかったです。でも、
    「私たちが最初に与えられるのは」っていうのなんかヘン。「私たちに最初に与えられるのは」っていうんだったらわかるけど。だって「与えられる」だし。わたしにわかりやすく書き換えてみると「私たちの意識において、私たちに最初に与えられるのは、知覚と呼ばれる外観です。」のほうがすんなり来る気がする。「知覚と呼ばれる外観」っていうのはどうなのかな?って思う。“言葉”も知覚されるものに含まれるってわたし思ってる。

    ちょっと、わたしのを書かせてもらうね。
    わたしの「知覚」の意味は、〈異種感覚情報の統合〉ってしてます。
    〈異種感覚情報〉っていうのは身体の別々の場所に位置してる感覚器官(眼・耳・鼻・口・体)からの信号のこと。
    これが行われてるのは、身体の「脳」って呼ばれてる場所で、この脳の働きの一つに「意識」っていう名がつけられてる。フロイトが発見した「無意識」っていうのあるけど、〈無意識っていう意識〉ってしたとき、無意識も一つの意識、ってして見てる。

    わたしこのごろ「意識」と「認識」を分節して見てます。
    っていうのは、メルロは【あらゆる意識が認識であるとはかぎらない】って見ている見たいだから。
    だから、■10331の wikiの哲学における知覚のところで、
    >このような器官に起きる変化だけでは 「それが外部(客観)によって生まれた刺激である」と認識することは不可能である<
    っていうところ、わたしのと違う。「外部」は「客観」じゃなくて「客観」は内部だし、「外部」をただ単に「刺激」って見ることもイヤだし、「認識することは不可能」っていう認識することからしか意識を見られなくなっちゃwikiの解説者には不満。

    「知覚」については長くなるから、もうやめとく。

    あ、それから■10325 のイチゴの話題なんだけど、わたしの見方でこれについて書こうと思うと”初めから”になっちゃいそうなので、後でね。

    pipitさまとのやりとりは、わたしたのしい。

引用返信/返信 削除キー/
■10331 / inTopicNo.58)  知覚
□投稿者/ pipit -(2021/01/04(Mon) 00:10:51)
    wikiで『知覚』の項目見ました。
    抜粋引用します。

    『知覚(ちかく、英語: perception)とは、動物が外界からの刺激を感覚として自覚し、刺激の種類を意味づけすることである。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、平衡感覚など、それぞれの感覚情報をもとに、「熱い」「重い」「固い」などという自覚的な体験として再構成する処理であると言える。

    (略)

    哲学における知覚

    (略)

    むしろ人間を含む動物の知覚は、因果性を無意識に(つまり、抽象的推論ではなしに)適用することで成立する。 例えば我々の網膜に様々な像が現れ、鼓膜も振動するが、このような器官に起きる変化だけでは 「それが外部(客観)によって生まれた刺激である」と認識することは不可能である。というのも、目や耳それ自体は単に刺激を感受するだけで、 その刺激を肉体の外部(つまり空間)に存在するもの(客観)から発生した刺激であるというように「推測する」機能は持っていないからである。

    ゆえに、我々に現れる客観は、既に因果性の適用を受けて成立している。 因果性はむしろ、時間や空間と同様、我々に客観を成立せしめる条件として脳に備わっている機能であると考えられる。 というのも、時間や空間と同じく、因果性もそれ自体が物事の説明の形式であり、何かを理解するということも結局は因果関係において理解するということに他ならないからである。』

    おやすみなさい (_ _).。o○
引用返信/返信 削除キー/
■10330 / inTopicNo.59)  現象
□投稿者/ pipit -(2021/01/03(Sun) 23:22:06)
    No10325に返信(pipitさんの記事)
    > カントの考えてることを悪魔ちゃんと一緒に考えるには、下記のわたしの質問へ悪魔ちゃんが答えてくれたことから、話し合ってみるといいかもしれないと思ってるよ。
    >
    >
    >
    > >問題の焦点は、【最初に感じてるもの】ということについてだと思うよ。
    >
    > 悪魔ちゃんは、例えば、イチゴと名づけ得るものを見たとき、
    > 【悪魔ちゃんが最初に感じてるもの】は色と名づけ得る対象だと思う?イチゴと名づけ得る対象だと思う?
    >
    > 網膜に何か(光の波?)があたって、色というクオリアが現れる。としたら、、、
    >
    > 最初に悪魔ちゃんが知覚する対象は、名付けるなら【何】と思ってるの?<

    pipitはNo10327で、

    >pipitの感覚では、カント文のこの箇所については、物自体に触発されて現れるもの、みたいな感覚じゃないかなと思ってる。<

    と書いたけど、けっこうこの解釈でよかったんじゃないかな、と、今思ってる。(もし全然合ってなかったら、その時はごめんm(__)m)

    とりあえずのカントの文章での、現象についての記述を見たよ。引用するね。

    御子柴善之先生『カント純粋理性批判』p88より、カント文章の訳
    『ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。感覚によって対象に関係するような直観を、経験的という。経験的直観の未規定な対象を現象という。(A19f./B34)』
    引用終了

    中山元先生『純粋理性批判1』p70.71より引用、B34部分
    『わたしたちが対象から触発されるということは、わたしたちの心のうちに、[対象の]像[=表象]を形成する能力がそもそも存在していて、これに対象が働きかけ、そこでわたしたちのうちに感覚が生まれるということである。感覚をつうじて対象にかかわる直観は、経験的な直観と呼ばれる。経験的な直観の対象は、それが[まだ個別の性質をもつものとして規定されていないという意味で]未規定なものである場合には、[一般的に]現象と呼ばれる。』
    引用終了

    ここから、カント哲学から踏み外してるかもしれないpipitの私見を書きます。

    寝てる時に、足をツンツンしても、熟睡してたら知覚できないかもだけど、ツンツンされると発生する(はずの)電気信号も、発生してないのだろうか?

    ツンツンされると発生する電気の変化を、自己意識したときが、知覚と呼ばれないだろうか。

    上記で言うと、網膜に光が当たったことによる変化が現象で、その現象を意識したとき、知覚と呼ばないだろうか。

    これは行き過ぎかもしれない、解釈で、訂正するかもです。
    今、思ったことを、書いてみました。


引用返信/返信 削除キー/
■10328 / inTopicNo.60)  Re[39]: 現象
□投稿者/ pipit -(2021/01/03(Sun) 20:37:18)
    文字化けしてるけど、&#223; の場所は、βみたいな一文字だよ。

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -