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■10919 / inTopicNo.13)  超越論的という語
  
□投稿者/ pipit -(2021/02/10(Wed) 11:57:30)
    カントの『純粋理性批判』の第二版の序論から、カント自身が【超越論的】という語句をどのような意味で使うのかを最初に説明した箇所を引用します。

    wikiにリンクされてるページより原文(ドイツ語記号は入力できていません)

    Ich nenne alle Erkenntnis transzendental, die sich nicht sowohl mit Gegenstanden, sondern mit unserer Erkenntnisart von Gegenstanden, insofern diese a priori moglich sein soll, uberhaupt beschaftigt. 』

    ( J. M. D. Meiklejohnさんによる英訳 I call all knowledge transcendental, which, ever dealt not so much with objects but with our cognition of objects, so far as this is supposed to be possible a priori.)

    (カントの文章の中山元先生訳)
    『わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。』
    『純粋理性批判1』中山元先生訳、光文社古典新訳文庫p57より引用

    ********

    この箇所を御子柴善之先生が解説された文章を引用します。

    (御子柴善之先生の解説文章)
    『認識はなにかの認識ですから、認識には対象があります。そうした対象そのものではなく、対象認識の仕方を対象とした認識、それもア・プリオリな認識仕方を認識するのが「超越論的」な認識です。
    ここで言及される「仕方」という表現に注意するなら、「超越論的」と呼ばれる認識は、認識の対象ではなく認識の主観に向けられていることが分かります。
    なお、私たちにとっての問題はすでに「いかにしてア・プリオリな総合判断は可能か」という問いにまとめられていますが、この問いに答えようとするとき、私たちが採用する哲学的態度が「超越論的」と呼ばれるのです。』
    『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p77.78より引用


引用返信/返信 削除キー/
■10906 / inTopicNo.14)  おくたがわさんへ2
□投稿者/ pipit -(2021/02/09(Tue) 21:01:26)
    No10894に返信(おくたがわさんの記事)
    > ■No10870に返信(pipitさんの記事)
    > この「超越論的」の説明、自分にとっては分かりやすかった。
    > 単なる「≪メタ≫論的」とどう違うのかと以前思っていたので、
    > 「超越的」についてのメタ論という説明は、すっきりした感じ。
    > (あくまで一見解にすぎないということはふまえて)<

    おくたがわさんは、中山元先生の『純粋理性批判1』は読めますか?
    p308、309に、中山先生の関連する解説があります。

    もし読めないよということなら、自分の勉強にもなりますので、引用しますのでおっしゃってくださいね(^^)
引用返信/返信 削除キー/
■10904 / inTopicNo.15)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/09(Tue) 20:52:20)
    2021/02/09(Tue) 21:10:34 編集(投稿者)

    こちらで返信させていただきますね。
    書き込みありがとうございます!

    No10893に返信(おくたがわさんの記事)
    > ■No10869に返信(pipitさんの記事)
    > おはようございます。
    >
    > pipitさんのトピでリンクされてる記事の中に
    >
    >>「先験的」も「超越論的」も、ドイツ語transzendentalの訳語だ。昔は「先験的」と訳されていたが、最近は「超越論的」と訳されるようになっている。岩波文庫版『純粋理性批判』は、1960年代初めの訳なので、「先験的」と訳されている。<
    > (『たぶん世界一簡単な『純粋理性批判』からの学び方。』より引用)
    >
    > とありますね。
    > 一方で、 「経験に先立つ」という意味の a priori は現状「先天的」と訳される?<

    中山元先生が、『純粋理性批判1』のアプリオリについての訳注で、

    『(略)邦訳ではアプリオリを「先天的な」とか「先験的な」と訳し、アポステリオリを「後天的な」と訳すのが通例であるが、(略)。「先験的な」という訳語は妥当だが、(略)』

    と、記述されていました。p249


    > なのでアプリオリな総合判断は「先天的な総合判断」と訳される?
    >
    > 意味を考えるとそこでの「先天的(=a priori)」は「先験的」でふさわしい気もするのですが、<

    上記引用を見るに、中山先生は、アプリオリの訳語は「先験的」でも問題ないと思われるかもしれませんね。
    カントの定義としては、『経験から【独立】した認識』(中山元先生訳、純粋理性批判1.p19参照)を、アプリオリな認識と位置づけてるのかな?と私は思っています。
    わたしも、純粋に言葉の意味だけで考えるなら『先験的』でも違和感ないかな。
    ただ、言葉は入れ物だから、多義的に内容を入れられるから、話は複雑になりますよね

    > 従来 transzendental「超越論的」の方を「先験的」と訳していた人がいた(字面的には誤訳っぽいというか誤解を招きやすい?)
    > その訳を知っている人にとっては、 アプリオリを先験的と訳してしまうと混乱が生じるからまずいことになるのかな…<

    そういう面があるとわたしも思います。
    経験を可能にするシステムについて、というイメージで、transzendental「超越論的」を、経験より先にあるもの、として「先験的」と訳したのかな、などと想像して、それはそれで、わかる気もしてしまいます。

    他人とコミュニケーションとるための、入れ物としての言葉、の難しさを思います。


    > そういうことを知らなかった自分は、アプリオリな総合判断→先験的総合判断=先天的総合判で問題ないと思ってしまっていた感じです。<

    そうですね。純粋な言語使用の領域では問題がなかったとしても、
    現実としてtranszendentalの訳語として『先験的』が使われることもあることが、『純粋理性批判』の内容そのものではない場所で、話をややこしくしていそうですね。

    > 蛇足ですがついでに整理すると
    >
    > アプリオリ→経験によらない アポステリオリ→経験にもとづく
    > 総合的 → 知識が拡張される  分析的 → 知識が拡張されない
    >
    > 通常は知識が拡張されるためには、経験が必要と考えられるので、
    > アプリオリ・分析判断
    > アポステリオリ・総合判断
    > というセットが考えられるが、カントはアプリオリな総合判断が可能だと述べた<

    私もそう思っています。
    いろいろ勘違いしてたら、すみません〜

引用返信/返信 削除キー/
■10874 / inTopicNo.16)  岡敦さんの記事
□投稿者/ pipit -(2021/02/08(Mon) 17:06:58)
    『純粋理性批判』内で使われる際の『超越論的』という言葉を、簡易に解説してくださってる文章を見つけました。
    カント哲学の解釈は様々なので、もしかしたら異論も出るのかも知れませんが、私にはとてもわかりやすい解説でした。
    (記事の途中から、懐中電灯というキーワードを使って『超越論的』の説明が出てきます。)

    ********

    『たぶん世界一簡単な『純粋理性批判』からの学び方。』

    岡 敦さん

    https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/080100138/

引用返信/返信 削除キー/
■10820 / inTopicNo.17)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/02/05(Fri) 23:19:10)
    えらいこっちゃです。めちゃ間違えてるかもだから、日記とします。

    演繹論読んでも、やっぱり、カテゴリー自体のことわかってないと、
    ???となるので、カテゴリーのとこもちょいちょい読んでるのですが、、、


    わたし、アプリオリに純粋悟性概念が知性にプログラミングされてて、その概念のもとに直観を適合させるイメージを持ってたんですけど、
    もしかしたら、カントの言ってることは、違ってて、
    なんというか、
    直観を素材に知性が純粋悟性概念を産み出すイメージかも、、、私にはどえらい発想に思えます。

    昔、一つのコップを目の前にして、(わたし、なんで、これを〈一つ〉として見るんやろう?)と思ってたことがあるのですが、

    この例で言えば、直観(見えてるもの)という素材から、量(この場合では一つ)の概念が知性を根源として生み出されており、それが判断の形式である。

    例えば、外的直観の形式は空間で、現れが空間上の位置に規定されるように、
    判断の形式がカテゴリー、、、ある種の判断はカテゴリー(純粋悟性概念)による(概念の、もしかして、即時の生み出しによって?!!)統一によって、規定された判断となる。

    いや〜
    もし、概念の下に直観を配置するのではなく、直観を契機に概念をその都度知性より産み出すと言ってるのなら、、、


    変人すぎるよー カント先生 SO COOL !!


    勘違いしてるかもだけど一応引用します。

    『純粋理性批判2』中山元先生訳、p67
    『これにたいして超越論的な論理学では、感性においてアプリオリに与えられた多様なものを、すでに目の前に持っているのである。この多様なものは、超越論的な感性論が超越論的な論理学に提供したものであり、超越論的な論理学ではこれを素材として、純粋知性概念を作りだす。』(B102あたり)

    同本、中山元先生訳、p70
    『さまざまな像は、分析によって一つの概念のもとにもたらされる(これは一般論理学の仕事である)。しかし超越論的な論理学が教えるのは、像[を概念のもとにもたらすこと]ではなく、像の純粋な総合を概念へともたらすことである。』(B104あたり)

    同じB104を御子柴善之先生が訳した文は、
    『分析的にさまざまな表象がひとつの概念の下にもたらされる(これは一般論理学の仕事である)。他方、諸表象ではなく諸表象の純粋総合を概念の上にもたらす〔概念化する〕ことを教えるのが超越論的論理学である。(略)』(A78f./B104)
    『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、p131より引用

    勘違いして、カントの文章を切り取り、解釈してたらすみません!!

    勉強続けてみます。

引用返信/返信 削除キー/
■10795 / inTopicNo.18)  Re[68]: 純粋知性概念の根拠づけ[=演繹]
□投稿者/ pipit -(2021/02/03(Wed) 09:12:54)
    頭に浮かんだ感想(当たり前ですが、勘違いしてる可能性全然あります)

    例えば、【学校】という概念が正当に使用されているか否かの根拠は?

    というと、過去に起きた現象の中から【学校】という概念がどのように出来上がったかの説明で、証明として、事足りる可能性がある。これが、《概念の経験的な演繹》(演繹=概念使用の正当性権利の弁明?)

    私は、ある対象に、(量・質・関係・様相)という概念を使用してるが、カントはこの概念を、経験に出自を持たない概念と捉えている。(まだ、その部分精読できてません。とりあえずカントのこの捉え方をもって、演繹論を読んでいきます。)
    その経験に依らない概念の使用の正当性を主張しようとすれば、概念生起の経験的過程の提示ではあり得ず、どのように(量・質・関係・様相)が私の認識している客体と関係して、現前している客体となっているのか、
    その仕組みを披露する(科学者が現象の生起の仕組みについて自己の理論を発表するかんじかな?)、その演繹の仕方しかないのであり、それは《超越論的演繹》とカントが名付けるものである。

    、と、とりあえず感想しました

引用返信/返信 削除キー/
■10792 / inTopicNo.19)  『純粋知性概念の根拠づけ[=演繹]』
□投稿者/ pipit -(2021/02/02(Tue) 23:30:46)
    中山元先生訳『純粋理性批判2』光文社古典新訳文庫、p91〜

    法学の理論においての区別
    *事実問題
    *権利問題

    権利問題についての証明を、【演繹】と呼ぶ。


    概念の使用に関する正当性の明証・・・純粋悟性概念はアプリオリ(経験によらない)な概念なので、その概念の使用正当性の主張としては、どのようにアプリオリな概念である純粋知性概念が客体に関係できるのか、その仕組みを説明して、その使用に正当性を【弁明】する。

    そうか。この部分から読むと純粋知性概念がアプリオリな概念、と、独断してるようにみえるかもだけど、この演繹論は、概念の分析論の第二章であり、純粋悟性概念そのものについては、第一章『すべての純粋知性概念を発見する方法について』で述べてるんだな、多分(^^;)

    黒崎政男先生の本から初版と第二版の演繹論に興味を持って、今の読書を始めようとしているから、演繹論の前段階の第一章は、理解できずにふわ〜っとしか知らないかも(T . T)

    が、迷宮入りになりそうなので、第一章に今は戻らず、演繹論読書を進めます_| ̄|○

    今日は、p91〜93(B117)らへんかな?

    おつかれさま、おやすみなさい☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■10791 / inTopicNo.20)  Re[66]: 演繹論を読むための準備
□投稿者/ pipit -(2021/02/02(Tue) 23:01:29)
    2021/02/02(Tue) 23:31:54 編集(投稿者)

    No10769
    > 初版の『純粋知性概念の根拠づけ[=演繹]』(中山元先生の訳語)の構成
    > 第一節・第二節・第三節
    >
    > 第二版の『純粋知性概念の根拠づけ[=演繹]』
    > 第一節・第二節
    >
    >
    > で、第一節は、2つともほぼ共通とのこと。
    > この第一節(読書としては初版の第一節から)読んでみます。<

    手持ちの中山元先生訳『純粋理性批判2』には、初版の第一節は載ってないので、ほぼ同じらしい、第二版の第一節から読んでいきます。


引用返信/返信 削除キー/
■10787 / inTopicNo.21)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/01(Mon) 23:53:21)
    こんばんは〜

    No10785に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > >『論理学』を読んでの中山元先生の解説文<
    > の中山元っていう人、「メルロ=ポンティ・コレクション」っていう本を編訳した人の名前とおんなじ。
    >
    > 解説文用の中で「受動的働き」とか「能動的働き」とか書いてるけど、現象学では人の、私の”意識”における「総合Synthesis」を受動的総合と能動的総合って分節してる。でもこれ、現象学における、なんだと思う。カントは中山ちゃんがいうような、受動、能動っていうふうに分け方してたのかしら?<

    カントは感性を受容性、知性を自発性(中山元先生訳)として区別してるかんじだよ。
    きちんと調べてないけど、もしかしたら総合という働きは、自発性としてるかも?(違う可能性あり)
    カント事典から『自発性』の項目を引用するね。ドイツ語記号は入力できないけど。
    『自発性(Spontaneitat)とは、自己活動性(Selbsttatigkeit)と同義であり、直接に自分自身の内から自力で能動的に自らを働かせる能力である。(略)』


    > pipitさま、なんかさ〜、わたし最近思うのね。わたし、の、の、の、の、を”理解しよう”としてるてるんじゃないかって。
    > の、の、を読んで、さらにその、の、解説を読んだりして、んで、のを”理解”しようと務めて、でもね、こういうのってな〜んかごちゃごちゃしてくる。こういうのってわたしおもしろくなくなっちゃってきてる。だからといって、最初ののを読んで理解するだけの能と時間ないし、だから、の、の、のを始めようとしてるよ。
    > そうね、わたしの「理」をね。<

    うん。
    最終的には、私の、が知りたいんだし、
    シンプルに、真っ直ぐに、カントの、に向き合えたら、と、思うこともあるよ。


    > それと■10769、
    > >まあ、ほぼほぼ無理かもだけど<
    > って言ってるけど、こういうのどうなのかしら。
    > 「普遍」(普遍的・必然的を「真理」ならしめるものって、カントしてる見たいだから)っていうの〈いつ・どこで・だれにでも〉じゃない?ってすると、
    > わたしやpipitさまにとっても、っていうことになるよね。カントが言ってることが普遍的なものだとしたら、当然わたしやpipitさまにも”理”解できるはず。もしわたしに理解できないことだとしたら、それは「普遍」とは呼べない(真理を言い当ててない)っていうことに」なるんじゃない?もっとも「難解」は当の本にもわかってないこと。でも、そんなのを相手に”したい”っていうのは、どうして?これのほうが、わたしの問題。<

    なんであんなに難しく感じるんやろう。

    私は、カントの自己観察の書、としても、純粋理性批判をみてるんだよ。
    カントの自己観察記録を、読み物として知りたいと思ってる。

    カントはわざと難解な表現をしてるのではなく、文章に体験や思考を忠実に落とそうとしてると思ってるんよ。
    文才があるのか、全く無いのか、さっぱりわからないよ。(無いんかな(^^;))

    好み、ってなんやろね。
    悪魔ちゃんは、メルロさんがおもしろいんやろ?
    わたしは、カントが、おもしろいねん。


    ああ、今日も、読書の書込みできなかった。。。
    悪魔ちゃんのせいやないよ。

    私にはすごく難しくて、書き込みできる段階まで持っていけへんねん(T-T)

    おやすみ。。。あぁ(自分に)負け気分!

引用返信/返信 削除キー/
■10785 / inTopicNo.22)  Re[66]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/01(Mon) 21:20:11)
    No10765
    >『論理学』を読んでの中山元先生の解説文<
    の中山元っていう人、「メルロ=ポンティ・コレクション」っていう本を編訳した人の名前とおんなじ。

    解説文用の中で「受動的働き」とか「能動的働き」とか書いてるけど、現象学では人の、私の”意識”における「総合Synthesis」を受動的総合と能動的総合って分節してる。でもこれ、現象学における、なんだと思う。カントは中山ちゃんがいうような、受動、能動っていうふうに分け方してたのかしら?

    pipitさま、なんかさ〜、わたし最近思うのね。わたし、の、の、の、の、を”理解しよう”としてるてるんじゃないかって。
    の、の、を読んで、さらにその、の、解説を読んだりして、んで、のを”理解”しようと務めて、でもね、こういうのってな〜んかごちゃごちゃしてくる。こういうのってわたしおもしろくなくなっちゃってきてる。だからといって、最初ののを読んで理解するだけの能と時間ないし、だから、の、の、のを始めようとしてるよ。
    そうね、わたしの「理」をね。

    それと■10769、
    >まあ、ほぼほぼ無理かもだけど<
    って言ってるけど、こういうのどうなのかしら。
    「普遍」(普遍的・必然的を「真理」ならしめるものって、カントしてる見たいだから)っていうの〈いつ・どこで・だれにでも〉じゃない?ってすると、
    わたしやpipitさまにとっても、っていうことになるよね。カントが言ってることが普遍的なものだとしたら、当然わたしやpipitさまにも”理”解できるはず。もしわたしに理解できないことだとしたら、それは「普遍」とは呼べない(真理を言い当ててない)っていうことに」なるんじゃない?もっとも「難解」は当の本にもわかってないこと。でも、そんなのを相手に”したい”っていうのは、どうして?これのほうが、わたしの問題。

    ごめんね、ちょっと発散させてもらっちゃたよ。







引用返信/返信 削除キー/
■10769 / inTopicNo.23)  Re[65]: 演繹論を読むための準備
□投稿者/ pipit -(2021/01/31(Sun) 15:42:41)
    さて、今の欲としまして、初版と第二版それぞれの『純粋悟性概念の演繹』でカントが述べた考え方を、理解したいのです。

    私には超超〜〜〜難関で、、、なかなか本文の読書にさえたどり着けないのですが、
    チャレンジするだけしてみようと思います。

    初版の『純粋知性概念の根拠づけ[=演繹]』(中山元先生の訳語)の構成
    第一節・第二節・第三節

    第二版の『純粋知性概念の根拠づけ[=演繹]』
    第一節・第二節


    で、第一節は、2つともほぼ共通とのこと。
    この第一節(読書としては初版の第一節から)読んでみます。

    まあ、ほぼほぼ無理かもだけど。。。
引用返信/返信 削除キー/
■10765 / inTopicNo.24)  Re[64]: 演繹論を読むための準備
□投稿者/ pipit -(2021/01/31(Sun) 15:22:42)
    カントは、感官によって現れたもの・即=・知覚、とはしてなくて、
    意識を向けなくては知覚されない、と、考えてたみたいです。(ずっとそう考えてたかはわかりませんけど。)

    認識の成立プロセスについて、カントは『論理学』で次のように説明してるそうです。

    カントの文章ではなく、『論理学』を読んでの中山元先生の解説文章を引用します。
    『第一に、あるものの像が与えられる。これは感性という受動的な働きが、外部の事物によって触発されて、心のうちで外部のものの像が思い浮かべられる(フォアシュテレン)ということである。
    (略)
    次の第二段階では、ぼくは樹木をただ眺めるという受動的な働きをするだけでなく、ある能動的な働きによって、これを「知覚する」(ペルキペーレ)。これは注意の働きだと考えることができる。(略)』
    『純粋理性批判2』p269.270より引用。
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