| ■10972のつづき
〔周辺用語との区別について ここで、補足的に多くの研究者が誤用している「超越論的主観」(transzendentales Subjekt)という言葉の原意に触れておく。カントの場合、いまだ「主観」という言葉には「基体」(Substratum)という意味が残っており、それは実体としての不滅の魂という意味を呼び起こす危険性を持っている。そこで、彼は自我についてはこうした「超越論的主観」という側面を徹底的に批判し、「作用体」という側面だけをあらわす「超越論的統覚」を採用した。つまり、カントにとって、自我とは「超越論的統覚」であって「超越論的主観」ではないのである。 次に、「超越論的」と「純粋」(rein)と「ア・プリオリ」(a priori)との区別に触れておく。 「純粋」は、カントの場合、経験的(empirisch)ではないという否定的意味が基本であるが、積極的に理性だけからという意味を担って「根源的」(ursprünglich)と言い換えられることもある。例えば「純粋統覚」とはいかなる経験的なものも含まない統覚であるが、「超越論的統覚」とは「経験を可能にする諸条件」を含むような統覚である。「純粋総合」とは経験的な混入物を洗い流した純粋な線のような総合であるが、「超越論的総合」とは「経験を可能にする諸条件」を含む「時間」という特有の線のような総合である。 また「ア・プリオリ」は「ア・ポステリオリ」に対する言葉であるが、カントの場合、同じように「経験的」に対立する言葉として「純粋」と重なる。しかし、違いが強調される場合もあり、「すべて変化は原因をもつ」という判断は経験に由来しないという意味でア・プリオリであっても「変化」という物質に関する判断だから、経験的なものが混入しており「純粋」ではないとされる。一方、「7+5=12」のような数学的判断は経験的なものが混入していなから、ア・プリオリであってかつ純粋な判断ということになる。だが、この用語法が常に守られているわけではない。そして、再確認すれば、「超越論的」とは単に「経験的な混入物がない」ことではなく、「経験的な混入物がない」にもかかわらず経験に適用されるのはなぜか、という問いの全体に関わることである。 これに関連して、「超越論的」という言葉(カントの原意)は「相互主観的」(intersubjektiv)とは相容れないことを強調しておく。「超越論的」とは「事実問題」(quid facti)ではなく「権利問題」(quid juris)であり、カントは地上の上の人間すべてが事実合意しても客観性は保証されない、と考える。客観性とは、こうした「相互主観性」を超えたところにあり、しかも単なる「目的」や「理念」ではないものとして了解されている。それは独自の要請である。言い換えれば、「超越論哲学」を求めるか否かは「ひとつの客観的な実在世界」を求めるか否かの問題であり、これは(フィヒテが強調するように)「関心」の問題であり、究極的には各人の「生き方」の問題である。〕
「相互主観的」っていうのはフッサールのだと思う。
ごめんね100にしちゃったかも。
わたしの勝手なのはWhatのところにします。
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