(現在 過去ログ1 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■9385 / inTopicNo.61)  永井哲学と仏教
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 14:24:44)
    永井哲学と仏教の関係についても語るべきことは多い。前提としていえることは、永井さんは仏教それ自体をあまり評価していないことか。「内山興正と仏教が違うなら、それは仏教の方が間違っている」「内山興正は釈迦や龍樹を超える」「内山興正の隠れクリスチャン性」などといった発言。
引用返信/返信 削除キー/
■9383 / inTopicNo.62)  〈私〉のメタフィジックス
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 13:51:29)
    〈私〉は、超越(論)的存在者である。しかし、その超越(論)性は独特であって、それを捉えるためには、現実的世界において認められている実在性・事実性を排去(遮断)すると同時に、本質性・形相性を排去(遮断)する独特の還元の操作が要求される。しかし、現実世界における自己であることをひきうけながら、その還元の操作を遂行することは不可能である。そして、その意味で自己であることをひきうけることなしに、何か意味のあることが言えるとは考えられない。〈私〉について、何かが言えた(通じた)とすれば、少なくともどちらか一方の排去が不徹底であったからでしかない。

    永井均「〈私〉のメタフィジックス」p93より引用

    ーーーーーーーーーーーーーー

    〈私〉は、超越(論)的存在者である。()を使うことで、超越的であると同時に超越論的であるという二義性を表現しているのでしょう。後の永井さんの仕事を知った目で見直すと、納得できます。
引用返信/返信 削除キー/
■9382 / inTopicNo.63)  Re[14]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 13:34:18)
    パニチェさんへ

    > >>結論からすれば永井さんにとっても〈私〉は客観世界には属さないという意味で超越しているが、神や背後世界のような形而上学的超越ではなく、接点をもった超越という意味での超越論的存在ということですね。
    >>「〈私〉のメタフィジック」という初期の著書もあります。永井さんは独自の形而上学をやっているとも言えると思います。
    >
    > はい、これも持っています。
    > パニチェは〈私〉を形而上学的主体と呼ぶことに違和感があります。
    > これ以上のリアルな形而下的存在は他にないにもかかわらず、なんでこれが形而上学になるのかは未だに分かりません。
    > knowing itselfさんは分かりますか?

    形而上学とは非リアルの別名ではないと思います。これ以上リアルな存在は他にないという意味で形而上学主体という語を使うことは、別におかしいことではないですね。

    あと、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在という意味で形而上学的な主体をいうのであれば、むしろ自然な用例ですが、「〈私〉は歴史学的にも科学的にもこの世界の客観的事実を超えた超越的な存在である」という趣旨を永井さん自身が書いています。
引用返信/返信 削除キー/
■9380 / inTopicNo.64)  Re[13]: 二種の不二
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/23(Mon) 10:47:34)
    レスありがとうございます。

    No9379に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>>「バージョンU」p153の最後の段落からp154にかけて、パニチェさんによる上記引用文の最初の5行を少し膨らませた記述になっていると思います。永井さんによると、超越は超越なんだけど、世界に属してはいないんだけど、だからといって離存していない、ある意味では超えているけれど、ある意味では密着している、こういう形における存在の仕方が「超越論的」の特徴になるようです。
    >>なるほど、「世界の独在論的存在構造」の初版は2018年8月、「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」の初版は2020年2月ですから、永井さんもこの2年の間に〈私〉と超越論的と超越的の関係性を明確にされたということですね。
    > 既に「ウィトゲンシュタイン入門」でも、ウィトゲンシュタインを借りてこの両者の関係が論じられていますね。例えばp26〜28、小見出しが「超越論的(先験的)哲学」。ウィトゲンシュタインには、超越論的な語りえぬものと超越的な語りえぬものの二種類があるとされています。この二つを軸にウィトゲンシュタインの生涯の哲学の歩みが進展していくというのが、どうやら永井的なウィトゲンシュタインのようですね。

    読み直してみました。確かにそうですね。
    しかし永井さんの解説書は永井哲学への導入書の要素が強いですね(笑)。
    でもまぁハイデッガーやヤスパース、ドゥルーズやバタイユらによるニーチェ解説書でも自身の哲学を展開しているとも言えます。

    >>それにしてもknowing itselfさんは時系列も含めてよく永井哲学を理解されていますね。
    >>結論からすれば永井さんにとっても〈私〉は客観世界には属さないという意味で超越しているが、神や背後世界のような形而上学的超越ではなく、接点をもった超越という意味での超越論的存在ということですね。
    > 「〈私〉のメタフィジック」という初期の著書もあります。永井さんは独自の形而上学をやっているとも言えると思います。

    はい、これも持っています。
    パニチェは〈私〉を形而上学的主体と呼ぶことに違和感があります。
    これ以上のリアルな形而下的存在は他にないにもかかわらず、なんでこれが形而上学になるのかは未だに分かりません。
    knowing itselfさんは分かりますか?

引用返信/返信 削除キー/
■9379 / inTopicNo.65)  Re[12]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/23(Mon) 10:04:42)
    パニチェさんへ

    > >>「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」で永井さんは第五図と〈私〉と慈悲の問題に関して良道さんが超越的であるのに対して永井さんや一照さんは超越論的なスタンスであったように思います。ところが「世界の独在論的存在構造」では「超越的な存在なのである」と述べており、少しブレでいる感があります。
    >
    >>「バージョンU」p153の最後の段落からp154にかけて、パニチェさんによる上記引用文の最初の5行を少し膨らませた記述になっていると思います。永井さんによると、超越は超越なんだけど、世界に属してはいないんだけど、だからといって離存していない、ある意味では超えているけれど、ある意味では密着している、こういう形における存在の仕方が「超越論的」の特徴になるようです。
    >
    > なるほど、「世界の独在論的存在構造」の初版は2018年8月、「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」の初版は2020年2月ですから、永井さんもこの2年の間に〈私〉と超越論的と超越的の関係性を明確にされたということですね。

    既に「ウィトゲンシュタイン入門」でも、ウィトゲンシュタインを借りてこの両者の関係が論じられていますね。例えばp26〜28、小見出しが「超越論的(先験的)哲学」。ウィトゲンシュタインには、超越論的な語りえぬものと超越的な語りえぬものの二種類があるとされています。この二つを軸にウィトゲンシュタインの生涯の哲学の歩みが進展していくというのが、どうやら永井的なウィトゲンシュタインのようですね。




    > それにしてもknowing itselfさんは時系列も含めてよく永井哲学を理解されていますね。
    > 結論からすれば永井さんにとっても〈私〉は客観世界には属さないという意味で超越しているが、神や背後世界のような形而上学的超越ではなく、接点をもった超越という意味での超越論的存在ということですね。

    「〈私〉のメタフィジック」という初期の著書もあります。永井さんは独自の形而上学をやっているとも言えると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■9351 / inTopicNo.66)  Re[11]: 二種の不二
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/22(Sun) 19:34:49)
    レスありがとうございます、knowing itselfさん。

    No9320に返信(knowing itselfさんの記事)

    ****** 以下、「世界の独在論的存在構造」より引用 ******

    〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからと言って)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることができないのである。だからじつは、ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。
    そして、これが「真我」の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部だけで理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないのである。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。

    ******************* 引用終わり *******************

    >>>>パニチェは上記の「〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである」&「ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。そして、これが「真我」の真の意味であろう。」には違和感がありますが、knowing itselfさんはないですか?

    >>>ここの説明は西洋神学や哲学の否定神学的な「神」に近いと思いますが、永井さんも「神」という語を使わずに同じようなことを考えているといえないこともないですね。「真我」もそれとの互換性が成り立つような意味で使っているのではないでしょうか。永井説ならこうなると思います。

    >>「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」で永井さんは第五図と〈私〉と慈悲の問題に関して良道さんが超越的であるのに対して永井さんや一照さんは超越論的なスタンスであったように思います。ところが「世界の独在論的存在構造」では「超越的な存在なのである」と述べており、少しブレでいる感があります。

    > 「バージョンU」p153の最後の段落からp154にかけて、パニチェさんによる上記引用文の最初の5行を少し膨らませた記述になっていると思います。永井さんによると、超越は超越なんだけど、世界に属してはいないんだけど、だからといって離存していない、ある意味では超えているけれど、ある意味では密着している、こういう形における存在の仕方が「超越論的」の特徴になるようです。

    なるほど、「世界の独在論的存在構造」の初版は2018年8月、「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」の初版は2020年2月ですから、永井さんもこの2年の間に〈私〉と超越論的と超越的の関係性を明確にされたということですね。
    それにしてもknowing itselfさんは時系列も含めてよく永井哲学を理解されていますね。
    結論からすれば永井さんにとっても〈私〉は客観世界には属さないという意味で超越しているが、神や背後世界のような形而上学的超越ではなく、接点をもった超越という意味での超越論的存在ということですね。

    > それから、サンガ版の「哲学する仏教」では、世界を在らしめるという問題と超越論的世界構成の問題は違う源泉だけど、永井さんはこれを合体させようとしているので、わかりにくくなっていると発言されています。
    > 一筋縄ではいかない感じですね。

    なるほど。パニチェ的には世界を在らしめるという問題と超越論的世界構成の問題を合体させるには見性体験が不可欠だと考えています。
    でも、これは見性体験が〈私〉と同じく何よりも超リアルなものでないとパニチェ的には見性体験や世界を在らしめるという問題は(現時点では)幻想や問題自体が存在しないと思っています。


    No9325に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>真我や梵我一如は仏教の文脈ではそこには悟り、つまり生に伴う苦の克服というか、執着や煩悩から脱した安らぎの境地の意味も含まれます。
    >>ところがパニチェの〈私〉には先にも述べたように、そんな効能や効果はもちろん、意味や価値もありません。ただ存在するだけ。

    > ふさわしい喩えかどうかわかりませんが、シェークスピア俳優と彼が演じるリア王の関係というのがあります。人間の生における苦を表すのがリア王ですが、自分は俳優本人でしかないことが真にわかれば苦は軽減されるか終焉しますね。俳優本人=〈私〉であれば、存在そのものに目覚めることと、執着や苦からの解放は別のことではないようにも思います。

    ここは定義として分かりやすいので唯識や華厳の仏語を借ります。
    〈私〉が有覆無記の末那識、あるいは輪廻転生する主体、つまり解脱してないという意味で有覆無記(但し八識説の唯識思想では無覆無記とされていますが)である阿頼耶識なのか?それとも無覆無記の阿摩羅識(天台や華厳の九識説)であるのか?によりますね。今のところパニチェは〈私〉を有覆無記の阿頼耶識みたいなものだと判断していますので、多少の軽減はありますが涅槃には至っていません。
    〈私〉を自分ごととして理解されているであろうknowing itselfさんは苦は軽減あるいは終焉していますか。

    > ただ、永井さんがもつ哲学の理想形は、安易な収束ではなく難問を生み出す生産性にあるらしいです。仏教者が苦の解放という実践ゴールだけで完結することの正反対をやりたいのかもしれません。本を書くたび、対話をするたびに解決困難なテーマが浮上することを歓迎しているようにも見受けられます。

    それは確かにそうですね。

引用返信/返信 削除キー/
■9327 / inTopicNo.67)  カントと身体
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/22(Sun) 15:20:35)
    カントが身体を軽視したというのはちょっと違うと思う。
    空間が感性界における直観形式というとき、身体なしにそんなこといっても無意味でしょう?空間の中に身体があるから感性的なインプットが成り立つわけだ。時間が直観形式という意味は、身体が空間の中を移動するとき、その物差しが時間ということでもある。身体をもって感性界を生きることの本質をカントほど理解している人は少ないともいえるわけだ。

    もちろん、身体を快楽充足の道具にするような思想はカントにはないだろうが。
引用返信/返信 削除キー/
■9325 / inTopicNo.68)  Re[10]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/22(Sun) 15:07:15)
    パニチェさんへ

    > 真我や梵我一如は仏教の文脈ではそこには悟り、つまり生に伴う苦の克服というか、執着や煩悩から脱した安らぎの境地の意味も含まれます。
    > ところがパニチェの〈私〉には先にも述べたように、そんな効能や効果はもちろん、意味や価値もありません。ただ存在するだけ。

    ふさわしい喩えかどうかわかりませんが、シェークスピア俳優と彼が演じるリア王の関係というのがあります。人間の生における苦を表すのがリア王ですが、自分は俳優本人でしかないことが真にわかれば苦は軽減されるか終焉しますね。俳優本人=〈私〉であれば、存在そのものに目覚めることと、執着や苦からの解放は別のことではないようにも思います。

    ただ、永井さんがもつ哲学の理想形は、安易な収束ではなく難問を生み出す生産性にあるらしいです。仏教者が苦の解放という実践ゴールだけで完結することの正反対をやりたいのかもしれません。本を書くたび、対話をするたびに解決困難なテーマが浮上することを歓迎しているようにも見受けられます。

引用返信/返信 削除キー/
■9320 / inTopicNo.69)  Re[10]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/22(Sun) 13:50:22)
    パニチェさんへ

    > >>****** 以下、「世界の独在論的存在構造」より引用 ******
    >
    > >>〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからと言って)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることができないのである。だからじつは、ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。
    > >>そして、これが「真我」の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部だけで理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないのである。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。
    >
    > >>******************* 引用終わり *******************
    >
    > >>パニチェは上記の「〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである」&「ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。そして、これが「真我」の真の意味であろう。」には違和感がありますが、knowing itselfさんはないですか?
    >>ここの説明は西洋神学や哲学の否定神学的な「神」に近いと思いますが、永井さんも「神」という語を使わずに同じようなことを考えているといえないこともないですね。「真我」もそれとの互換性が成り立つような意味で使っているのではないでしょうか。永井説ならこうなると思います。
    >
    > 「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」で永井さんは第五図と〈私〉と慈悲の問題に関して良道さんが超越的であるのに対して永井さんや一照さんは超越論的なスタンスであったように思います。ところが「世界の独在論的存在構造」では「超越的な存在なのである」と述べており、少しブレでいる感があります。

    「バージョンU」p153の最後の段落からp154にかけて、パニチェさんによる上記引用文の最初の5行を少し膨らませた記述になっていると思います。永井さんによると、超越は超越なんだけど、世界に属してはいないんだけど、だからといって離存していない、ある意味では超えているけれど、ある意味では密着している、こういう形における存在の仕方が「超越論的」の特徴になるようです。

    それから、サンガ版の「哲学する仏教」では、世界を在らしめるという問題と超越論的世界構成の問題は違う源泉だけど、永井さんはこれを合体させようとしているので、わかりにくくなっていると発言されています。

    一筋縄ではいかない感じですね。

引用返信/返信 削除キー/
■9305 / inTopicNo.70)  Re[9]: 二種の不二
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/22(Sun) 08:03:17)
    2020/11/22(Sun) 09:58:30 編集(投稿者)

    knowing itselfさん、レスありがとうございます。
    今回の返信はパニチェが〈私〉について書きたいことを書きますので、返信は気が向いたらで結構です。
    ただ、〈私〉に関して自分ごととして、ニークラではもっとも理解されているであろうknowing itselfさんがどのような見解を示されるかには興味があります。

    No9274に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>****** 以下、「世界の独在論的存在構造」より引用 ******

    >>〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからと言って)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることができないのである。だからじつは、ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。
    >>そして、これが「真我」の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部だけで理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないのである。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。

    >>******************* 引用終わり *******************

    >>パニチェは上記の「〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである」&「ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。そして、これが「真我」の真の意味であろう。」には違和感がありますが、knowing itselfさんはないですか?
    > ここの説明は西洋神学や哲学の否定神学的な「神」に近いと思いますが、永井さんも「神」という語を使わずに同じようなことを考えているといえないこともないですね。「真我」もそれとの互換性が成り立つような意味で使っているのではないでしょうか。永井説ならこうなると思います。

    「〈仏教3.0〉を哲学する バージョンU」で永井さんは第五図と〈私〉と慈悲の問題に関して良道さんが超越的であるのに対して永井さんや一照さんは超越論的なスタンスであったように思います。ところが「世界の独在論的存在構造」では「超越的な存在なのである」と述べており、少しブレでいる感があります。パニチェに関しては〈私〉は永井さん以上に意味や価値のない(良い意味でも悪い意味でもなく)存在するだけのものです。
    そこに神とか真我とか、その他の如何なる言葉やラベリングや言い換えは不用だし、それこそ最も意味がないことだと考えています。


    >>さらに〈私〉つまりアートマンが世界と合一することはあるがままの事実であると思いますが、これが所謂梵我一如や密教の汎神論的な宇宙観と同義であることにも違和感があります。
    >>理由は今回の返信では省略しますが、knowing itselfさんはここらあたりはひっかかりとかはないですか?
    > 引用していただいた永井さんの文章の「梵我一如」に関するところは、スッと入ります。あまり違和感はありません。

    真我や梵我一如は仏教の文脈ではそこには悟り、つまり生に伴う苦の克服というか、執着や煩悩から脱した安らぎの境地の意味も含まれます。
    ところがパニチェの〈私〉には先にも述べたように、そんな効能や効果はもちろん、意味や価値もありません。ただ存在するだけ。
    これはパニチェが探究途上であるからという可能性も否定はしませんが、いつから永井さんは〈私〉と仏教的な文脈をも含む真我と同義としたのか、その根拠がパニチェの読んだ書籍からすれば未だに分かりません。


    >>パニチェはむしろ永井さん的な〈私〉と世界の合一をもって梵我一如と捉える方が一般的な禅者からは拒絶されそうにも思われます。
    > そうかもしれません。ネルケ無方さんなんかも、永井説への疑義を隠さないようです。

    永井さん自身も見性体験はしてないとパニチェも思います。
    その意味においてネルケ無方さんの疑義は当然だと思います。

    > >>>>幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。
    >>>>前者の不二が幻想であれば〈私〉も幻想というということになり、全ては泡の如く幻想ということになるでしょうね。
    > >>ここは非常に興味深いポイントだと思います。全ては泡の如く幻想になるとしても、その幻想を生み出す力はどこから来たのか?幻想を生み出す力だけはリアルじゃないのか?といった問いも生まれるのではないでしょうか。
    >>それがパニチェからすれば〈私〉なんですけどね。
    >>だから逆説的に言えば独在的な不二は幻想ではありえない。
    >>但し、ここの言説は合わせ鏡のように無限後退しますが。。。
    > 同意します。

    客観的世界が「一炊の夢(邯鄲の夢)」とか「「桶の中の脳(水槽の脳)」や映画マトリックスで描かれたバーチャルリアリティであったとしても、それを体験している〈私〉(〈私〉の存在)は揺るぎません。
引用返信/返信 削除キー/
■9275 / inTopicNo.71)  言語ゲームと語りえぬもの
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/21(Sat) 15:43:05)
    「板子一枚下は地獄」。この漁師や船乗りのことわざが示すのは、板子の下にある大海原の深淵。永井さんの哲学では、板子一枚が〈私〉にあたり、その底には何もない。板子一枚の上での言語ゲームも、板子一枚下に横たわる超越性や神秘や神や死を語りえないというより、板子一枚=〈私〉を語りえない。
引用返信/返信 削除キー/
■9274 / inTopicNo.72)  Re[8]: 二種の不二
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/21(Sat) 15:18:41)
    パニチェさんへ。


    > ****** 以下、「世界の独在論的存在構造」より引用 ******
    >
    > 〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである。と、このように語るとき、それは(私が語っているからと言って)永井均のことを語っているのでもなければ、またもちろん一般的な自己意識としての「私」のことを語っているのでもない。実を言えば、それについて通常の言語で語ることができないのである。だからじつは、ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。
    > そして、これが「真我」の真の意味であろう。バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部だけで理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように見える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。そう捉えれば、「梵我一如」はむしろ単純で自明な事実にすぎないのである。そのような捉え方によってしか、私はたくさんの人間のうちどれが私であるかを識別できないからである。
    >
    > ******************* 引用終わり *******************
    >
    > パニチェは上記の「〈私〉の存在は、科学的であれ歴史的であれ、この世界の客観的事実を超えた超越的な存在なのである」&「ここでも語られていない。という意味では実在してもいない。そして、これが「真我」の真の意味であろう。」には違和感がありますが、knowing itselfさんはないですか?

    ここの説明は西洋神学や哲学の否定神学的な「神」に近いと思いますが、永井さんも「神」という語を使わずに同じようなことを考えているといえないこともないですね。「真我」もそれとの互換性が成り立つような意味で使っているのではないでしょうか。永井説ならこうなると思います。

    > さらに〈私〉つまりアートマンが世界と合一することはあるがままの事実であると思いますが、これが所謂梵我一如や密教の汎神論的な宇宙観と同義であることにも違和感があります。
    > 理由は今回の返信では省略しますが、knowing itselfさんはここらあたりはひっかかりとかはないですか?

    引用していただいた永井さんの文章の「梵我一如」に関するところは、スッと入ります。あまり違和感はありません。


    > パニチェはむしろ永井さん的な〈私〉と世界の合一をもって梵我一如と捉える方が一般的な禅者からは拒絶されそうにも思われます。

    そうかもしれません。ネルケ無方さんなんかも、永井説への疑義を隠さないようです。

    >>>>幻想という話しですが、後者の不二は幻想である可能性もあるとのことですが、前者の不二にも言えなくはないですか。前者が幻想でないのなら後者も幻想ではないと思います。
    > >>前者の不二が幻想であれば〈私〉も幻想というということになり、全ては泡の如く幻想ということになるでしょうね。
    >>ここは非常に興味深いポイントだと思います。全ては泡の如く幻想になるとしても、その幻想を生み出す力はどこから来たのか?幻想を生み出す力だけはリアルじゃないのか?といった問いも生まれるのではないでしょうか。
    >
    > それがパニチェからすれば〈私〉なんですけどね。
    > だから逆説的に言えば独在的な不二は幻想ではありえない。
    > 但し、ここの言説は合わせ鏡のように無限後退しますが。。。

    同意します。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -