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■8522 / inTopicNo.85)  Re[11]: 西田幾多郎
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/30(Fri) 19:24:55)
    わたしは夢ひとつみない熟睡状態を自覚できるか、という喩えと問いを何度が提起してきましたが、西田幾多郎はこの状態を哲学体系として語ろうとしているのかもしれない、という感触を得ています。ルパートスパイラなどのアドバイタや山下さんの仏教3・0の哲学版になりうる候補だと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■8521 / inTopicNo.86)  西田幾多郎
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/30(Fri) 19:13:14)
    西田幾多郎が神秘体験を忘れる・捨てることを慫慂して、現実の人生における思考だけにスポットライトを当てることは、まずないと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■8484 / inTopicNo.87)  Re[9]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/29(Thu) 06:58:03)
    No8471に返信(ななしさんの記事)
    > たーぼーさん、こんばんは。
    >
    > レスありがとうございます。それにしても、独りよがりを打破する現象学的還元は
    > 大切ですね。
    >
    > 私たちの認識は、目に見えるものや感覚器官によって知覚・認識できるものが客観的な実体としてに存在すると思っています。
    > フッサールは、これを「自然的態度」と呼びました。
    >
    > ところが、そんな客観的な世界が本当にあるかどうかは、確かめようがありません。というより、そんな世界はないと言えます。
    >
    > このように、実は客観的実体や客観的事実というものは存在せず、あるのは、自分から見た認識主体による対象(生活世界)への志向性による主観的な解釈だけです。
    >
    > つまり、自分の意識が何を求め志向しているかによって、対象(生活世界)の認識が異なって見えて来るのです。
    >
    > このように、認識対象が自分の主観に、どうして、そのように立ち現われてくるのか、その背景や条件や理由を考え確信の成立の条件と構造を問うのが現象学的還元です。
    >
    > そのためにはまず、自然的態度で立ち現われてくる確信を取り払って保留する。
    >
    > これはカッコに入れると表現されエポケー(判断中止)と言われます。
    >
    > 志向性というバイアスに支配された意識の世界によって色づけられた認識は、
    > 他者と共通のものではなく、自分独自の認識であるということが分かり、
    > さらにはなぜ自分がそのように認識したかということを客観的に理解することが
    > できます。
    >
    > このように判断中止(エポケー)し現象学的還元を行うことで、自分にとって固定化された癖や習慣から一歩引いて、物事を認識することが可能となります。
    >
    > 自らの固定観念を打破して創造的な視点を得るためにも現象学的還元は、有効だと思います。

    ななしさん、おはようございます。
    全く仰る通りだと思います。
    だから考え方一つでどうにでもなりますね。
    悪夢もいい夢も考え方一つですね。
    この現象世界を実在するものと考えるのも、実在しないものと考えるのも間違いだと思います。
    そのどちらでもない。

引用返信/返信 削除キー/
■8482 / inTopicNo.88)  西田幾多郎と西洋哲学
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/29(Thu) 06:34:56)
    西田幾多郎は、西洋哲学では新カント派とベルクソンの影響が強いとされています。で、結局はプラトンやアリストテレスに遡って、それらの東洋版としての再構成を試みた?
引用返信/返信 削除キー/
■8471 / inTopicNo.89)  Re[8]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ ななし -(2020/10/28(Wed) 19:59:37)
    たーぼーさん、こんばんは。

    レスありがとうございます。それにしても、独りよがりを打破する現象学的還元は
    大切ですね。

    私たちの認識は、目に見えるものや感覚器官によって知覚・認識できるものが客観的な実体としてに存在すると思っています。
    フッサールは、これを「自然的態度」と呼びました。

    ところが、そんな客観的な世界が本当にあるかどうかは、確かめようがありません。というより、そんな世界はないと言えます。

    このように、実は客観的実体や客観的事実というものは存在せず、あるのは、自分から見た認識主体による対象(生活世界)への志向性による主観的な解釈だけです。

    つまり、自分の意識が何を求め志向しているかによって、対象(生活世界)の認識が異なって見えて来るのです。

    このように、認識対象が自分の主観に、どうして、そのように立ち現われてくるのか、その背景や条件や理由を考え確信の成立の条件と構造を問うのが現象学的還元です。

    そのためにはまず、自然的態度で立ち現われてくる確信を取り払って保留する。

    これはカッコに入れると表現されエポケー(判断中止)と言われます。

    志向性というバイアスに支配された意識の世界によって色づけられた認識は、
    他者と共通のものではなく、自分独自の認識であるということが分かり、
    さらにはなぜ自分がそのように認識したかということを客観的に理解することが
    できます。

    このように判断中止(エポケー)し現象学的還元を行うことで、自分にとって固定化された癖や習慣から一歩引いて、物事を認識することが可能となります。

    自らの固定観念を打破して創造的な視点を得るためにも現象学的還元は、有効だと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■8454 / inTopicNo.90)  Re[7]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/27(Tue) 23:47:48)
    No8448に返信(ななしさんの記事)
    > 沢木老師の「はじめなき悟り、終わりなき修行だ」は、
    >
    > 自分の体が如何に重要であるかが記載されていると思います。
    >
    > つまり、肉体としての超越論的世界像、フッサール現象学の世界像の大切さを
    > 物語っているようにも感じます。
    >
    > 独我論的主観である自我は,つねに自らの身体をもち,それを中心にして,
    > 志向的に超越論的世界像をもつ主観です。
    >
    > したがって,この主観(意識)は知覚器官のみを通じて外界を知る,
    > いわゆる窓をもったモナドと言われます。
    >
    > 知覚器官を通して得られる外界は,あくまでも知覚器官の網にかかる情報のみで
    > 構成されることになります。
    >
    > つまり情報はつねに偏りがあるのであり、この受動的志向性は、私の意志に
    > 関係なく私に与えられる情報群でもある訳です。
    >
    > その一方で,私の意志によって,具体的には私の眼差しを向けることによっ
    > て現れる情報群が考えられ能動的志向性もある訳です。
    >
    > ただ、一人ひとりの独我論的主観の世界像をいくら集めても,それは誰にとっても
    > 共通な客観的世界の存在を保証できません。
    >
    > 独我論的主観である私は,決して身体から出ることが出来ません。
    >
    > したがって,私には超越論的現象である超越という私にとっての事実だけがあ
    > ることになり、そのような独我論的主観は,私に先立って存在する世界の中で,
    > 他者と同じものを見るという考え方ではありません。
    >
    > つまり、私の類似物である「他者」が、私と同じものを見ていることが
    > 保証できるのかということです。
    >
    > フッサールの考え方では,私が他者に感情移入することで,
    > 私は他者とその世界を共有できるということです。
    >
    > フッサールは,それを「相互主観性」と呼びますが、
    > フッサールの相互主観性は、決して眼前の世界を二人が別々に
    > 同じものとして見ていることを意味しません。
    >
    > フッサールの相互主観性は,私が他者を認定し,その他者に感情移入すること
    > によって,私が理解した他者の世界なのであって、それは私の他者理解による
    > 他者の世界を私が理解することになるのです。
    >
    > ただ、完全には一致しないものの、人間なら誰でもがもつ同じシステムを
    > もつことが人間の相互主観性の共有を保証しているとも言えます。
    >
    > それは、カントの直感形式のように。
    >
    > これこそが,フッサールの求めていた明証なのであり、純粋自我は人間ならば
    > 誰でもが共通にもっている心のシステムと言えます。
    > したがって,この心のシステムそのものは普遍的なのです。
    >
    > 超越論的世界とは,主体である私に知覚を通して与えられる現象を志向的に
    > 獲得して、それを自らの秩序にしたがって構成していく世界(像)のことです。
    >
    > ここからも、肉体の大切さが分かります。
    >
    > https://www.bing.com/videos/search?q=%e8%82%89%e4%bd%93%e3%80%80%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88&&view=detail&mid=08AD5DBDE9F60C0A244708AD5DBDE9F60C0A2447&&FORM=VDRVSR
    >


    ななしさん、私はこの意見賛成です。
引用返信/返信 削除キー/
■8448 / inTopicNo.91)  Re[6]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ ななし -(2020/10/27(Tue) 21:47:11)
    沢木老師の「はじめなき悟り、終わりなき修行だ」は、

    自分の体が如何に重要であるかが記載されていると思います。

    つまり、肉体としての超越論的世界像、フッサール現象学の世界像の大切さを
    物語っているようにも感じます。

    独我論的主観である自我は,つねに自らの身体をもち,それを中心にして,
    志向的に超越論的世界像をもつ主観です。

    したがって,この主観(意識)は知覚器官のみを通じて外界を知る,
    いわゆる窓をもったモナドと言われます。

    知覚器官を通して得られる外界は,あくまでも知覚器官の網にかかる情報のみで
    構成されることになります。

    つまり情報はつねに偏りがあるのであり、この受動的志向性は、私の意志に
    関係なく私に与えられる情報群でもある訳です。

    その一方で,私の意志によって,具体的には私の眼差しを向けることによっ
    て現れる情報群が考えられ能動的志向性もある訳です。

    ただ、一人ひとりの独我論的主観の世界像をいくら集めても,それは誰にとっても
    共通な客観的世界の存在を保証できません。

    独我論的主観である私は,決して身体から出ることが出来ません。

    したがって,私には超越論的現象である超越という私にとっての事実だけがあ
    ることになり、そのような独我論的主観は,私に先立って存在する世界の中で,
    他者と同じものを見るという考え方ではありません。

    つまり、私の類似物である「他者」が、私と同じものを見ていることが
    保証できるのかということです。

    フッサールの考え方では,私が他者に感情移入することで,
    私は他者とその世界を共有できるということです。

    フッサールは,それを「相互主観性」と呼びますが、
    フッサールの相互主観性は、決して眼前の世界を二人が別々に
    同じものとして見ていることを意味しません。

    フッサールの相互主観性は,私が他者を認定し,その他者に感情移入すること
    によって,私が理解した他者の世界なのであって、それは私の他者理解による
    他者の世界を私が理解することになるのです。

    ただ、完全には一致しないものの、人間なら誰でもがもつ同じシステムを
    もつことが人間の相互主観性の共有を保証しているとも言えます。

    それは、カントの直感形式のように。

    これこそが,フッサールの求めていた明証なのであり、純粋自我は人間ならば
    誰でもが共通にもっている心のシステムと言えます。
    したがって,この心のシステムそのものは普遍的なのです。

    超越論的世界とは,主体である私に知覚を通して与えられる現象を志向的に
    獲得して、それを自らの秩序にしたがって構成していく世界(像)のことです。

    ここからも、肉体の大切さが分かります。

    https://www.bing.com/videos/search?q=%e8%82%89%e4%bd%93%e3%80%80%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88&&view=detail&mid=08AD5DBDE9F60C0A244708AD5DBDE9F60C0A2447&&FORM=VDRVSR


引用返信/返信 削除キー/
■8436 / inTopicNo.92)  Re[5]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ ななし -(2020/10/27(Tue) 19:29:57)
    こんばんは。

    「坐禅して一発悟りたい、と頑張っている人へ」
    として、安泰寺のホームページにありました。

    https://antaiji.org/archives/jap/sawaki3.shtml

    「生きる意味を求めるのが間違い。求めれば求めるほど迷いが深くなる。全てを手放してこそ悟りが得られる」この言葉は只管打坐の心理を述べられていて励ましにもなります。

    このページの下のところに

    生きるのも当然そういうものだとして「アタマで考えてしまう」のではなく、「いのちとして」受け取ればこそ、自分のナマのいのちを生きる姿勢もキマリます。その時こそが「一生参学の大事ここにをはりぬ」であると同時に、本当の祇管打坐の修行が始まる時です。これを修証一如と言い、証上の修とも言います。

    だから沢木老師はつねに言われておりました。

    「はじめなき悟り、終わりなき修行だ」と。

    聖霊による心の充足だけでなく、生命や身体の大切さに思い至りました。
引用返信/返信 削除キー/
■8418 / inTopicNo.93)  Re[3]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ ななし -(2020/10/27(Tue) 16:09:51)
    追記です。

    修行を重ねるうちに「生きる意味を求めるのが間違い。求めれば求めるほど迷いが深くなる。全てを手放してこそ悟りが得られる」と心境が変化したという。

    No8389に返信(ななしさんの記事)
    > こんばんは。
    >
    > 先日、こころの時代〜宗教・人生〜その言葉が道をひらく
    > 「天地いっぱいを生きる」でドイツ生まれの曹洞宗の僧侶
    > ネルケ 無方(むほう)導師を見ました。
    >
    > 兵庫県北部の山の中にある安泰寺。
    > https://antaiji.org/ja/muho/
    >
    > 2002年から2020年まで曹洞宗・安泰寺の住職を務めたとのことです。
    >
    > 現代人は「心」以前に「体」を忘れている。
    >
    > 姿勢を調えて、背骨を伸ばして、安定した姿勢で坐り、自然に呼吸し、
    > 心を手放す…静かな時間が流れる中で、「私が坐る」のではなく、
    > 只管打坐「ただただ、坐らせていただく」。
    >
    > 確かに、最近、自分自身、神の愛は、強く感じていても自分の体というものを
    > 度外視していた気がして、改めて座禅の凄さを感じられる素晴らしい話でした。
    >
    > そして、修証義による作務、料理、掃除など、日々、何事も真剣に、
    > 成りきることの大切さ修行の基本を学んだ気がしました。
    >
    >
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■8403 / inTopicNo.94)  Re[4]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/10/26(Mon) 23:43:36)
    ■8402の続き

    「がっちりとガードされた自分の信念」 → 世界と言ってもいい。
    外からの情報 → 世界と言ってもいい。


    「外から来た情報を選別してInputする、選別に落ちたものは「聞く耳」を持たない状態」
    → 世界とは言えず。
    「審議・懐疑」 → 世界とは言えず

    世界ではない場所って、選別・審議・懐疑の領域だよね。



    毒っぽい話ですわね。
    これは食べていいのか?悪いのか?考えている最中は、そこは世界ではない。
    …連想で、ロダンの「考える人」が出てくるんだよね。
    考える人は…、何考えてんの?

225×300

rodin-penseur2.jpg
/14KB
引用返信/返信 削除キー/
■8402 / inTopicNo.95)  Re[3]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ マジカルモンキー -(2020/10/26(Mon) 23:20:19)
    No8388に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > マジモンさん
    >
    > >基本、全ては自問自答に置き換える事ができるんじゃないか?と思うのですよ<
    >
    > あら!
    >
    > 「自問」っていうのはね、
    > 〈自分のうちで、自が自分のうちに取り入れてきた他者を、自がなぜその他者を取り入れてきたのか?そしてそれを取り入れる自はなんなのか?って自が自に問いかけること〉
    >
    > 「自答」っていうのは、人それぞれ。懐疑も含めてね。
    > でも、この懐疑がまったくなくなっちゃうとそれが「信念」と呼ばれるものになっちゃうのよ。
    >
    > 何言ってるかわかんないかもしれないけど、ちょっと書いちゃったよ〜。


    はい、返信ありがとう、悪魔ちゃん。
    言っている事は理解できるよ。

    突如、「自問自答」を思い付いたのは、品責と言うお仕事は
    自問自答が多く、具体的にシュミレーションの世界だからです。

    ★ 自問自答 ★の始めの「自」を「他」とか、「神」に変えりゃいいだけで、

    他問自答、神問自答、または、自問他答、自問神答にしてしまえば、
    世界、全、全が一、一は全はクリアできるんじゃないのか?と思い立ちました。



    悪魔ちゃんのコメは、私から見ると機能に見えた。

    自問とは、「聞く耳」を持っているか、いないかでしょうね。
    外部の情報はいろいろ有るけれど、自分の中の自分が選別している…
    まぁ〜良心がからんでいるのでしょうけどね。

    自答は、懐疑と信念に分かれる。
    …信念を自分自身でしっかりとガードしているんでしょうな。

    つまり、

    複数の意見 → Inputする選別された意見 → 
    懐疑・審議 → がっちりガードされた信念

    の流れやな。
    じゃ、この流れの適用範囲は何か?

    自閉症、アスペルガーは視覚野が強化されており、聴覚野が遮断されている。
    自問自答しかやらないのだろう。

    自閉症でない健常者は、他問を受け付ける余地(心の状態)があり、
    社会性を作るのだが…、世界はどこを指しているのだろうか?
引用返信/返信 削除キー/
■8397 / inTopicNo.96)  Re[4]: 悪霊
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/26(Mon) 20:35:59)
    No8391に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■8352、ノウセルフさま
    > >メルロポンティの受肉の哲学も、結局、キリスト教のパクリなんだと思う<
    > 受肉で問題なのは、”何が”受肉するのか、だと思ってるよ。

    精神が受肉するのでしょう。

    > もっともわたしのばあい肉受だけどね。
    >
    > キリスト霊は、悪霊(キリスト霊から見たら反キリストっていう霊)も受肉するっていってるみたいだし〜。

    キリスト教で受肉はイエスの一回だけのはずだね。それによってどの人間も神と同じ次元に引き上げられる道ができたみたいな。ある意味、究極の超人だね。

    > わたし、キリスト霊だけが心(精神)だけじゃないと思うん。


引用返信/返信 削除キー/

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