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■8639 / inTopicNo.61)  Re[16]: 哲学の雑談 5
  
□投稿者/ ななし -(2020/11/02(Mon) 21:30:02)
    knowing itselfさんこんばんは

    > イエスが身体をもって復活したのは、もっぱら神ではない人間たちのためではないでしょうか。

    まさに、その通りだと思います。

    > 先例のないただ一回の奇跡という意味では「狭き門」であっても、そこに入れるかのチェックは無条件の恵み、限りなく寛大なものかもしれません。

    神の恩寵そのものですね。

    問題は、私たちの熱心な努力や功績、行動は間違ってはいないけれど、それは不十分なのです。

    なぜなら、私たち罪のためのに要求される報酬は、「死」であるからです。

    十字架の死の3日後、イエスは肉体的に甦りました。

    この復活の意味は、第1に私達の罪の赦しを成し遂げて下さるものだということ。

    第2に復活は私達の罪を赦すだけではなく、罪から解放することだということ。

    つまり、罪から自由になって神との新たな心の交流が始まるのだと思います。
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■8632 / inTopicNo.62)  Re[16]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/02(Mon) 19:42:41)
    「西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か」永井均。

    同書p97から引用。

    場所である私と個人(自我)としての私を、絶対無と相対無を、〈私〉と「私」を、一挙に同時に捉えることが可能になったからなのである。

    引用終わり

    この2行だけでも永井節そのものです。この書のなかで、ウィトゲンシュタインと西田幾多郎は正反対の方向から同じような立場に到達したと評しています。同じような立場というのは、もちろん永井さんとも同じということです。もっとも、同じというより、西田幾多郎をダシに永井哲学の要約をしているような書です。

    第五図を絶対無や場所である私、第四図を相対無や自我としての私、に置き換えても話しは通じます。


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■8630 / inTopicNo.63)  Re[15]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/02(Mon) 16:59:06)
    ななしさん こんばんは

    >>ラザロの復活とイエスの復活は質的にまったく違うものですね。前者は蘇生というべきもので、現世の秩序に戻ることに過ぎません。イエスの復活は、肉体の復活というより、十字架によって絶対確実に死んだイエスの人間の身体にある出来事が起こった、天と地の意味を根底から変容させる何かが生起した、ということだとされているようです。
    >
    > まさにその通りですね。
    >
    >
    > >霊にではなく、あくまでイエスの人間としての身体においてですね。
    > イエスの復活を根拠づける第一の理由は、「空っぽの墓」とされています。
    > 身体は盗取されても、損壊しても、腐食しても、消失してもいないだろうと。
    >>
    >>キリストを受け入れる人たちの救いも、イエスの身体の復活と同じ身体の復活というドアを通ることだとされているのではないでしょうか。
    >
    > 素晴らしいと思います。信仰とは、そもそも「狭き門」であり、人間には信じられない現象なのだと思います。
    >
    > その狭き門のドアを開けて入れるかどうかは、神の奇跡なのかもしれませんね。

    自分の身体の復活を信じなければ地獄に落ちると脅しをかけることは、まったく理に合わないというか、おかしい話しだと思います。そもそも神であるならば、復活する意味も必要もないのではないでしょうか。それ自身において完全無欠で永遠の存在であるなら、自分の身体を復活させて救われる必要はありませんね。イエスが身体をもって復活したのは、もっぱら神ではない人間たちのためではないでしょうか。

    先例のないただ一回の奇跡という意味では「狭き門」であっても、そこに入れるかのチェックは無条件の恵み、限りなく寛大なものかもしれません。
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■8618 / inTopicNo.64)  第五図と第四図の関係も同様
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/01(Sun) 18:44:15)
    No8616に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>わたしの理解する非二元は、同じ一つのスクリーンが、喩えていうと、70億とおり(現在の地球人口)の違う映画を上映しています。わたしにとってそのうちの一つだけがリアルです。他の69億9999千万幾つの映画はリアルではありません。
    >
    > ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。

    第五図と第四図の関係もまったく同じだと考えています。同じ一つの第五図の中で、70億種類の第四図が「見られている」。そのうちの1種類の第四図だけがリアルに見える。

引用返信/返信 削除キー/
■8616 / inTopicNo.65)  ハエ取り壺
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/01(Sun) 16:44:11)
    > わたしの理解する非二元は、同じ一つのスクリーンが、喩えていうと、70億とおり(現在の地球人口)の違う映画を上映しています。わたしにとってそのうちの一つだけがリアルです。他の69億9999千万幾つの映画はリアルではありません。

    ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。
引用返信/返信 削除キー/
■8607 / inTopicNo.66)  俳優と役柄ー非二元の喩え
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/01(Sun) 14:40:26)
    俳優と役柄の喩えでも言わんとすることは同じです。

    天才的なシェークスピア俳優がリア王を演じて、リア王の悲劇に完全に同化して絶望感をリアルに感じ尽くすとします。俳優本人が一人いるだけで、二人別の人間がいるわけではないです。リア王は虚構の人間に過ぎない。


    現在地球上には、70億パターンの別の役柄が演じられている。俳優はただ一人しかいません。

    これはルパートスパイラのお得意の喩えです。彼はラマナマハルシやクリシュナムルティとほぼ同じ真理観に立っています。
引用返信/返信 削除キー/
■8606 / inTopicNo.67)  Re[14]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ ななし -(2020/11/01(Sun) 14:40:12)
    knowing itselfさん こんにちは。

    > ■No8565に返信(ななしさんの記事)
    >>knowing itselfさん、こんばんは。
    >>
    >>肉体の復活なんて正直な話、荒唐無稽な気がしますが、
    >>神が救済として復活をされるのであれば
    >>やはり、人知を超えることなのかなと思います。
    >>
    >>だからこそ、当時のイエスの弟子もラザロの姉妹も復活を
    >>信じていなかったかのようなことになったのであり、
    >
    > ラザロの復活とイエスの復活は質的にまったく違うものですね。前者は蘇生というべきもので、現世の秩序に戻ることに過ぎません。イエスの復活は、肉体の復活というより、十字架によって絶対確実に死んだイエスの人間の身体にある出来事が起こった、天と地の意味を根底から変容させる何かが生起した、ということだとされているようです。

    まさにその通りですね。


    >霊にではなく、あくまでイエスの人間としての身体においてですね。
    イエスの復活を根拠づける第一の理由は、「空っぽの墓」とされています。
    身体は盗取されても、損壊しても、腐食しても、消失してもいないだろうと。
    >
    > キリストを受け入れる人たちの救いも、イエスの身体の復活と同じ身体の復活というドアを通ることだとされているのではないでしょうか。

    素晴らしいと思います。信仰とは、そもそも「狭き門」であり、人間には信じられない現象なのだと思います。

    その狭き門のドアを開けて入れるかどうかは、神の奇跡なのかもしれませんね。
引用返信/返信 削除キー/
■8605 / inTopicNo.68)  Re[15]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/01(Sun) 14:22:50)
    パニチェさん こんにちは

    No8600に返信(パニチェさんの記事)

    > 普通に考えれば相容れない独在論的な〈私〉と自他不二(非二元)の折り合いをどうつけてらっしゃいますか?
    >
    > もしよかったら教えて下さい。

    非二元といってもいろいろな立場があって微妙に違うように思います。わたしの理解する非二元は、独在論と相容れないものではないですね。たびたび、スクリーンと映画というワンパターンで曖昧なー喩えで恐縮ですが、この場合、独在するのはスクリーンのみであって、その上の映画はスクリーンが形を変えたもので、映画とスクリーンは同じものです。

    映画の中なる存在としては自他は別であっても、スクリーンとしては二つとないわけですから、この意味で自他不二ですね。

    わたしの理解する非二元は、同じ一つのスクリーンが、喩えていうと、70億とおり(現在の地球人口)の違う映画を上映しています。わたしにとってそのうちの一つだけがリアルです。他の69億9999千万幾つの映画はリアルではありません。

    何を馬鹿なことを考えているのかと思われるかもしれません。もちろん、後で補足するつもりです。
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■8604 / inTopicNo.69)  Re[13]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/01(Sun) 14:00:24)
    ななしさん こんにちは


    No8565に返信(ななしさんの記事)
    > knowing itselfさん、こんばんは。
    >
    > 肉体の復活なんて正直な話、荒唐無稽な気がしますが、
    > 神が救済として復活をされるのであれば
    > やはり、人知を超えることなのかなと思います。
    >
    > だからこそ、当時のイエスの弟子もラザロの姉妹も復活を
    > 信じていなかったかのようなことになったのであり、

    ラザロの復活とイエスの復活は質的にまったく違うものですね。前者は蘇生というべきもので、現世の秩序に戻ることに過ぎません。イエスの復活は、肉体の復活というより、十字架によって絶対確実に死んだイエスの人間の身体にある出来事が起こった、天と地の意味を根底から変容させる何かが生起した、ということだとされているようです。霊にではなく、あくまでイエスの人間としての身体においてですね。イエスの復活を根拠づける第一の理由は、「空っぽの墓」とされています。身体は盗取されても、損壊しても、腐食しても、消失してもいないだろうと。

    キリストを受け入れる人たちの救いも、イエスの身体の復活と同じ身体の復活というドアを通ることだとされているのではないでしょうか。




引用返信/返信 削除キー/
■8600 / inTopicNo.70)  knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/01(Sun) 10:24:35)
    おはようございます、knowing itselfさん。

    多分、このサイトで〈私〉を一番よく理解されているであろうknowing itselfさんに改めて聞きたくなりました。

    普通に考えれば相容れない独在論的な〈私〉と自他不二(非二元)の折り合いをどうつけてらっしゃいますか?

    もしよかったら教えて下さい。
引用返信/返信 削除キー/
■8591 / inTopicNo.71)  ゆく川の流れ
□投稿者/ ななし -(2020/11/01(Sun) 07:02:38)
    パニチェさん、おはようございます。レスありがとうございます。

    > ■No8578に返信(ななしさんの記事)
    > 以下のようなニーチェのアフォリズムもあります。
    >
    > 『生成に有という性格を刻印づけること──このことが力への最高の意志である。(力への意志 第617番)』

    なるほど、固定的、恒常的に有るのではなく、この自然の生命力に満ちた「生成」
    を再発見することが力への意志ということでしょうか。
    この点に言えば、福岡先生は、生命とは、鴨長明の方丈記のようだとしています。

    「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」

    特に、「かつ消えかつ結びて」と最初に消える破壊をもって来てところが凄くて、肉体では、エントロピーに対抗するために、細胞は最初に壊してから食べ物から作成するからだそうです。
    やはり、賢者は、同じ風景を観ているということでしょうか。

    >>本当に、生命の進化には驚くものを感じますし、改めて肉体と自分自身のパースペクティブの重要さもフッサールの現象学とともに考えを新たにするものです。
    >
    > 遠近法もニーチェ哲学とって重要なキーワードです。
    >
    > 『われわれの新しい「無限のもの」。──現存在の遠近法的性格はどこまで及ぶのか、あるいはまた、現存在は何かそれとは別な性格を有っているのか、解釈もなく・「意味」もない現存在はまさに「愚にもつかぬもの」となりはしないか、他面、一切の現存在は本質的に解釈する現存在ではないのか──こうしたことがらは、当然ながら、知性のこのうえなく勤勉な・極めて几帳面で良心的な分析や自己検討をもってしても解決されえないものである。それというのも、こうした分析をおこなう際に人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内でのみ見るほかはないからである。・・・中略・・・それどころか世界は、われわれにとって、またもや「無限」のものとなった、──世界は無限の解釈を内に含むという可能性を、われわれとしては避けることができないというそのかぎりでは。(悦ばしき知識 第374番)』

    パースペクティブについて、「人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内でのみ見るほかはない」んだということですね。

    これは、自分自身の認識器官の視覚・聴覚・体感覚等を通じて世界を描いていて、世界とは、自分自身の認識が生み出す幻想であり、各々の認識器官が生み出す虚構なのだということでしょうか。

    つまり、世界を認識する視点が人によって違うので、認識される世界も人によって違うものなのだと。

    なので、すべての人や動物に同じ世界というものは無くアリの世界と犬の世界と人間の世界は認識器官が違うから違う、視点が違うからパースペクティブが違う訳で
    アリと犬と人間に共通する唯一の真の世界、客観的世界は存在しないのですね。


引用返信/返信 削除キー/
■8584 / inTopicNo.72)  Re[17]: ニーチェは深いですね
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/31(Sat) 22:39:28)
    ななしさん、レスありがとうございます。

    No8578に返信(ななしさんの記事)
    > パニチェさん何度もすみません。

    いえいえ、とんでもありません。

    > なるほど、散逸構造とゲシュタルトからかんがえるのは「在る」こととは、じつは「成る」ことであり、「存在」とは、すなわち「生成」なのだとも言えますし、このことは、福岡伸一先生の「動的平衡」とも似ていて常に変化していく諸行無常、空論にも通じるものを感じます。

    以下のようなニーチェのアフォリズムもあります。

    『生成に有という性格を刻印づけること──このことが力への最高の意志である。(力への意志 第617番)』

    > 本当に、生命の進化には驚くものを感じますし、改めて肉体と自分自身のパースペクティブの重要さもフッサールの現象学とともに考えを新たにするものです。

    遠近法もニーチェ哲学とって重要なキーワードです。

    『われわれの新しい「無限のもの」。──現存在の遠近法的性格はどこまで及ぶのか、あるいはまた、現存在は何かそれとは別な性格を有っているのか、解釈もなく・「意味」もない現存在はまさに「愚にもつかぬもの」となりはしないか、他面、一切の現存在は本質的に解釈する現存在ではないのか──こうしたことがらは、当然ながら、知性のこのうえなく勤勉な・極めて几帳面で良心的な分析や自己検討をもってしても解決されえないものである。それというのも、こうした分析をおこなう際に人間の知性は、自己自身を自分の遠近法的形式のもとに見るほかなく、しかもその形式の内でのみ見るほかはないからである。・・・中略・・・それどころか世界は、われわれにとって、またもや「無限」のものとなった、──世界は無限の解釈を内に含むという可能性を、われわれとしては避けることができないというそのかぎりでは。(悦ばしき知識 第374番)』

    詳しくは。。。NIETZSCHE WONDERLAND > 哲学テーマ > 遠近法主義

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