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■8774 / inTopicNo.37)  意識が宇宙にリアリティーを与える。
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/07(Sat) 09:24:11)
    一つの意識の局所化として個人の世界が展開されています。考えうる70億通りの世界。それぞれの世界において、物質からリアリティーを与えられている、その最大のものである宇宙からリアリティーを与えられていることは、誰も体験できませんね。原理的に体験不能?
    リアリティーは意識が自ら体験するしかなく、意識で始まって意識で終わります。

    一つの意識のリアリティーを70億通りの世界の中で体感する個人が、間主観的に対象や物質についての知を共有・発展させることは可能ですが、それをもって、宇宙なる物質存在からリアリティーを与えられているとみなすことは、仮説の域を超えることはないでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■8773 / inTopicNo.38)  Re[18]: knowing itselfさんへの質問
□投稿者/ パニチェ -(2020/11/07(Sat) 08:59:49)
    おはようございます、knowing itselfさん、レスありがとうございます。

    No8697に返信(knowing itselfさんの記事)
    > パニチェ三位一体 こんばんは

    ユーザー辞書に“さん”読みで“三位一体”を登録していると見た!^^

    > まったくそういうことはないと思います。喩えに対する質問、疑問など、こちらに可能であれば返答します。

    ありがとうございます。

    >>日常的な「私」というのは70億とおり(現在の地球人口)の違う映画内に存在しているかのように認識されるところの対象ですか。
    > 個人にとっては観ている映画そのものに、「私」(70億ある)と〈私〉の区別はないと思います。ただ、一つのスクリーンが本体でそこだけが真のリアリティーであることを失念して、映画内容だけにのめり込んで反応する程度によって、「私」性の度合いが高まるのではないかと。

    上記の内容から察するにknowing itselfさんは〈私〉とスクリーンは同類ではなく、むしろ〈私〉は映画内容にあるようなイメージでしょうか。
    〈私〉は映画とスクリーンの喩えにどう当てはまればいいかパニチェは分かりませんが、〈私〉はパニチェが認識する世界内の存在ではないことは確かです。

    >>そしてスクリーンが独在しているということは万人&万物共通(自他不二)という意味でしょうか。
    > そうですね。

    >>私秘性というのは映画内になりますか、それとも映画外になりますか。
    > 映画内ですが、その私秘性を感じるのは映画外のスクリーンでしょう。

    ここちょっと分かりません。
    まず不二であるにもかかわらず何故私秘性なる特性が個々にあるのか。
    また「私秘性は映画内ですが、その私秘性を感じるのは映画外のスクリーン」といのをもう少し詳しく説明いただけると有難いです。

    >>>>ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。
    > >>第五図と第四図の関係もまったく同じだと考えています。同じ一つの第五図の中で、70億種類の第四図が「見られている」。そのうちの1種類の第四図だけがリアルに見える。
    >>スクリーンはブラフマンのようなものでしょうか。
    > ブラフマンのようなものともいえるし、空といっても、涅槃といっても、あるいは浄土や神でも、最終的には違わないと思います。

    ごめんなさい、ここの返信はちょっと先送りさせて下さい。


引用返信/返信 削除キー/
■8771 / inTopicNo.39)  質問
□投稿者/ minori -(2020/11/07(Sat) 08:05:58)
    昨日は質問にお答えいただきありがとうございました。

    knowing itselfさんにレスがたくさん来ている中で、再び申し訳ないのですが、質問させていただきたいことがあります。

    独我論で「私が存在しなければ何も存在しえない」と言う時の「私」です。
    この「私」というのは、身体・思考・感情の部分ではなく、「(その人の)意識」を指すもの、で合っていますか?
引用返信/返信 削除キー/
■8765 / inTopicNo.40)  Re[23]: ハエ取り壺
□投稿者/ ななし -(2020/11/06(Fri) 21:58:22)
    悪魔ちゃん、こんばんは。

    > 「哲学におけるあなたの目的はなにか。―ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。」

    > ってすると、ウィトちゃんの言う「あなた」っていうのは誰のことを言ってるの?

    ウィトゲンシュタイン自らの哲学の目的を語っているもので、「ウィトゲンシュタイン自身」の事だと思います。

    このハエの問題とは、哲学者が言語を日常的な意味(言語ゲーム)とは別のしかたで使用する際のナンセンスな命題のことであり、哲学的問題とは、それがじつは問題ではないことを言語ゲームから見て取ることなのです。
引用返信/返信 削除キー/
■8763 / inTopicNo.41)  Re[22]: ハエ取り壺
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/06(Fri) 21:07:08)
    ■8758、ななしさん、ちょっと気になったんで、お邪魔ね

    >「哲学におけるあなたの目的はなにか。―ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。」<
    って、ウィトちゃんが言ってるっていうこと?
    そして、
    >ここでいう「ハエ」とはつまり「哲学者」のことなのですよね。<
    ってしたとき、

    ウィトちゃんは、
    〈哲学におけるあなたの目的はなにか。―哲学者に哲学者とり壺からの出口を示してやること。〉ってなるよね。

    ってすると、ウィトちゃんの言う「あなた」っていうのは誰のことを言ってるの?


引用返信/返信 削除キー/
■8760 / inTopicNo.42)  Re[21]: 意識の自己限定
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/06(Fri) 20:14:03)
    あ、もうちょっと

    わたしノーセルフさんの■8730を見て、地の上に図を描いてる、っていう見方してるのかな〜?って思ったんだけど、ちがったみたい。

    先に行くつもりないのかしら?


引用返信/返信 削除キー/
■8758 / inTopicNo.43)  Re[17]: ハエ取り壺
□投稿者/ ななし -(2020/11/06(Fri) 20:02:41)
    knowing itselfさん横失礼します。

    > ウィトゲンシュタインのハエ取り壺の喩えも、ウィトゲンシュタインや永井さんがどう考えていようと、わたしとしては同じ一つのスクリーンが70億とおりの違う映画を射している事態を表現していると理解しています。同じ一つのハエ取り壺の中で、70億とおりの脱出劇がプレイされている。

    「哲学におけるあなたの目的はなにか。―ハエにハエとり壺からの出口を示してやること。」

    ここでいう「ハエ」とはつまり「哲学者」のことなのですよね。

    ウィトゲンシュタインによれば、哲学者は、「心は存在するのか」「観念とは何か」と答えがない問いについて考え、ハエのように、もがき苦しむと見ていたようです。

    でも、実は、それらは、問いの立て方が悪かっただけで、哲学者に対して言葉が使われたり、話される場所や背景バックグラウンドによつて意味が変わっていく「言語ゲーム」の特性によって理解すべきだということを示したものと思われます。


引用返信/返信 削除キー/
■8755 / inTopicNo.44)  Re[20]: 哲学の雑談
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/11/06(Fri) 19:42:26)
    ■8752
    >第四図だから映画内容ですよ。第五図というのは、この第四図を囲む「外枠」ということだから、スクリーンのような中立性、無色透明性がある。自己というべきは第五図です。第四図と第五図は一体だけど、本体は第五図。映画内容とスクリーンの関係と同じです。<

    第四図だろうが第五図だろうが、スクリーンの上にある図(映画内容)が映し出されてるっていうことよね?

    >自己というべきは第五図です<
    ん?第五図も映画内容でしょ?
    ノーセルフさまの言う「自己」っていうの、映画内容じゃなくて「スクリーン」じゃなかったっけ?(■8730)


引用返信/返信 削除キー/
■8754 / inTopicNo.45)  Re[20]: 哲学の雑談 5
□投稿者/ ななし -(2020/11/06(Fri) 19:27:26)
    knowing itselfさん こんばんは。レスありがとうございます。

    > 「交流としての神」とは、「三位一体の交わりとしての神」という意味で使いました。三位一体の交わりとしての神は、時間と空間と物質が生じる以前からの存在なので、厳密にいえば、動きや運動はないと思います。

    なるほど、そうかもしれませんね。

    > 交わりとは愛の交わりで、愛するもの(父)と愛されるもの、その間で分かち合われる愛そのもの(聖霊)が同じ一つの存在だということだと思います。

    「愛の交わり」とは、とても美しい表現ですね。
    なにか、毎日、生きることさえ、辛く、ああ、仕事に行きたくないなあとか、
    いろいろ不平不満が出てくる四苦八苦の日々ですが、そうであっても神は我々に
    愛を注いで下さっているということなのでしょう。

    > 愛するものと愛されるものには完全な互換性もあります。この愛によって、宇宙が創造された。被造物の終極的な完成は、三位一体の愛の交わりに入ることだという考え方になると思います。「子」の復活という出来事の意味もそういうことになるはずです。

    なんて素晴らしいのでしょう。
    knowing itselfさんから、励ましのメッセージを戴いた気分です。
    よく、クリスチャンでも、聖霊を実感として感じられない、私は、救われて
    いるのかしらと霊は見えないものなので疑問を持たれる方が多いようです。
    https://www.youtube.com/watch?v=moXIsjSbmnM


引用返信/返信 削除キー/
■8753 / inTopicNo.46)  Re[21]: 意識の自己限定
□投稿者/ minori -(2020/11/06(Fri) 18:39:44)
    No8752に返信(knowing itselfさんの記事)

    knowing itselfさん、レスありがとうございます。

    > >>同じスクリーンに映る70億個の違う映画というところを、ルパートスパイラは違う喩えとして、同じ意識のlocalizationとして個人のマインドがあるともいっています。局所化、場所の限定化、といったところでしょう。狭め方、局所化の仕方が70億種ある。リアリティを感じるのは意識です。その同じ意識が自己を狭めたとき生まれるのがマインドであり、映画です。、

    >>リアリティである意識が、それぞれの人間のところで自己を狭めた時に生まれるのが、映画でありマインドである、ということ。
    >>自己が狭められることがなかったらスクリーン(意識)そのものになっていて、ストーリーも発生しないということでもありますね。
    >>このあたりは理解できるのです。

    >>結局のところ。意識(スクリーン)が宇宙空間をも包摂するものである、というのが自分のところとしては理解できないんです。
    >>ルパートスパイラはこのように言っているそうですが、これは具体的にどのような理屈によってそうであるのか、というのの説明はなされているのでしょうか。
    >>このあたりが疑問なのです。
    >
    > 現代人の世界観は、70億人ごとに違う意識、70個個のまったく別の意識が一つの世界(その世界を物質的に広げたものを宇宙と呼びますが)に包摂されている。ルパートスパイラはそう言います。

    そうですね。通常、そう考えますね。

    >しかし、この世界観は仮定であって、誰も物質や宇宙が意識の外側にあることを直接体験はしていない。仮設を理屈や実験で検証するとしても、それすら意識が行うことです。

    物質については既に納得はいっていたのですが、なにしろ宇宙に関しては広大なので、先入観から抜けずらいです。。
    こういうことですか。
    宇宙の遥か遠くを研究する、または、有人探査機で宇宙に行くと言っても、実際よく考えてみれば意識から出ては行えない。
    そんなふうに考えたともあったのはあったんですが・・。

    ここが引っかかる部分ではあったのですが、理屈としては再確認できました。
    (自分のところでの強い実感は別としても。)

    > ルパートスパイラの世界観はこれと方向が反対です。一つの意識の70億とおりの局所化である70億個の世界が展開されている。

    ここは、一つのスクリーン(意識)に対して無数の映画が上映されてストーリー展開されている、という部分ですね。

    >その70億個の世界同士で間主観的な科学のアプローチをしていると考えても、科学の成果は受容できます。

    なるほど。

    > 宇宙や科学の受容に関して何ら問題がないのであれば、左からみるか右からみるかの違いだけともいえます。
    >
    > 他にも理屈や説明はいろいろされているようですが、とりあえず今回は以上ということで。

    ありがとうございました。
引用返信/返信 削除キー/
■8752 / inTopicNo.47)  Re[20]: 意識の自己限定
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/06(Fri) 17:07:04)
    No8744に返信(minoriさんの記事)

    >>同じスクリーンに映る70億個の違う映画というところを、ルパートスパイラは違う喩えとして、同じ意識のlocalizationとして個人のマインドがあるともいっています。局所化、場所の限定化、といったところでしょう。狭め方、局所化の仕方が70億種ある。リアリティを感じるのは意識です。その同じ意識が自己を狭めたとき生まれるのがマインドであり、映画です。、
    >
    > おはようございます。 コメント失礼します。
    >
    > リアリティである意識が、それぞれの人間のところで自己を狭めた時に生まれるのが、映画でありマインドである、ということ。
    > 自己が狭められることがなかったらスクリーン(意識)そのものになっていて、ストーリーも発生しないということでもありますね。
    > このあたりは理解できるのです。
    >
    > 結局のところ。意識(スクリーン)が宇宙空間をも包摂するものである、というのが自分のところとしては理解できないんです。
    > ルパートスパイラはこのように言っているそうですが、これは具体的にどのような理屈によってそうであるのか、というのの説明はなされているのでしょうか。
    > このあたりが疑問なのです。

    現代人の世界観は、70億人ごとに違う意識、70個個のまったく別の意識が一つの世界(その世界を物質的に広げたものを宇宙と呼びますが)に包摂されている。ルパートスパイラはそう言います。しかし、この世界観は仮定であって、誰も物質や宇宙が意識の外側にあることを直接体験はしていない。仮設を理屈や実験で検証するとしても、それすら意識が行うことです。

    ルパートスパイラの世界観はこれと方向が反対です。一つの意識の70億とおりの局所化である70億個の世界が展開されている。その70億個の世界同士で間主観的な科学のアプローチをしていると考えても、科学の成果は受容できます。

    宇宙や科学の受容に関して何ら問題がないのであれば、左からみるか右からみるかの違いだけともいえます。

    他にも理屈や説明はいろいろされているようですが、とりあえず今回は以上ということで。
引用返信/返信 削除キー/
■8750 / inTopicNo.48)  Re[23]: 意識の自己限定
□投稿者/ knowing itself -(2020/11/06(Fri) 16:45:18)
    悪魔ちゃん こんばんは

    No8736に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > あ、もうちょっと
    >
    > スクリーンって、映されるものでもあると同時に映させるものでもあるよね。
    > わたし映画館のスクリーンをイメージしてるけど、別に白い壁にプロジェクターで映してもいよね。このとき白い壁はスクリーンになる。
    >
    > >70億種類の第四図の等価性。アメリカの選挙ではないが、民主主義を基礎づけるのはこの等価性でしょう。全構成員の第四図の等価性。哲学者の第四図、宗教家の第四図、科学者の第四図、金持ちの第四図、貧乏人の第四図、アホやバカものの第四図、人格者の第四図、卑劣漢の第四図。…<
    >
    > 何種類でも、それらがどのような図でもいいけど、この図っていうの、
    > >スクリーンに写っている映画内容<
    > に見えるのね、わたしのばあい。
    >
    > 雑談よ

    そのとおり、第四図だから映画内容ですよ。第五図というのは、この第四図を囲む「外枠」ということだから、スクリーンのような中立性、無色透明性がある。自己というべきは第五図です。第四図と第五図は一体だけど、本体は第五図。映画内容とスクリーンの関係と同じです。
引用返信/返信 削除キー/

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