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■11160 / inTopicNo.13)  アンチクリスト
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/23(Tue) 09:17:00)
    2021/02/23(Tue) 09:19:52 編集(投稿者)

    ニーチェの祖父は神学博士でアイレンブルグの管区総監督牧師の地位就き、父もルター派の牧師であった。ニーチェは田舎町の名士の家系であるニーチェ家の長男として生まれた。ニーチェはキリスト者として生まれ、その対極であるアンリクリストとしての哲学を打ち立てた。

    ニーチェの批判対象はセム系宗教の教義にあり、生を罪深いものとしたり、身体性や本能を軽視し、最後の審判や神の国など背後世界を重視するがために、生より死後、禁欲、善悪二元論的道徳など、人間を家畜の如く没個性化、画一化することによって飼い慣らすかのような禍因性を糾弾した。

    言葉や論理を有する人として生まれた特権は世界を如何様にも解釈することができ、己自身で認識する全てのものに意味や価値を創出できる創造者としての特権であり、トップダウンで与えられるかのよな倫理観をはじめとする諸価値は本来創造的な活動であるはずの生や人間を委縮させ畜群動物へと下降させるようなドグマでしかない。

    ニーチェのカント批判はこの文脈にあり、認識論の革命者であるにもかかわらず、理性や道徳の起源を考察するにあたって神を持ち出したのはカント自身が結局はキリスト者であるという告白でしかないと看破したことにある。

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■11159 / inTopicNo.14)  re:「表現と介入」について
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/22(Mon) 21:06:14)
    こんばんは、おくたがわさん

    No11149に返信(おくたがわさんの記事)

    > 別件で失礼します。トピ名に科学哲学が入っているので、こちらでいいかなと思い。

    はい、どんな話題でもこのトピはOKです。

    > 表現と介入で気になる部分があったので判断いただけるとありがたいです。
    > ただ、本論とは関係のない枝葉末節なので、めんどうだったらスルーしてください。

    > 画像で添付しました P.300の中の
    > 『日陰と日向のさまざまな状況下で注意深く調べる人はだれでも陰になった細糸の上に空気の小球を見出すだろう。それは光が存在することに基づく結果であることを見出すだろう。』

    > この部分、「陰になった」は、おかしいと思うのです。
    > 光合成で酸素の気泡が出るところを観察している状況だと思いますが、
    > 『陰になった』方が気泡を出し、それによって「光の存在に基づく結果」だと推論するというのは、つじつまが合わないのではないかと。

    ごめんなさい。何でかサッパリ分かりません。
    日陰でも光合成は可能だと思うのですが、何故「陰になった細糸の上に空気の小球を見出す」のか分かりません。

    > なお、これに関しては翻訳には不備はなく、原文にもそのように書かれています。引用しますと
    > Whoever will consider with attention the slender green vegetable filaments which in the summer exist in almost all streams, lakes, or pools, under the different circumstances of shade and sunshine, will discover globules of air upon the filaments that are shaded. He will find that the effect is owing to the presence of light.

    > 現時点では、原文の誤記・誤植(are not shaded から notが脱字とか)ではないかと思っているのですが、
    > もし私の勘違いで、そのままで辻褄が合うということがありましたら、ご指摘をお願いします。
    > (中学・高校時の理系科目はほぼスルーだった自分ゆえ、とんでもない間違いをしている可能性も)

    > 文脈の影響はなく画像部分だけで判断いただけると思うので、本を持っていない人もお気づきの点がありましたら、ご意見を頂けると嬉しいです。

    出版社に問い合わせするしかないよう気がします。^^
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■11151 / inTopicNo.15)  何もかも理解できなければ…
□投稿者/ マジカルモンキー -(2021/02/22(Mon) 10:12:38)
    こちらも別件で進めたいと思います。

    激うま海鮮ランキングはもうできているのだが、
    ストーカーのフラッシュバックに悩まされている。
    被害者って結構、PTSDになってしまうんだよ。

    カントは作法で、ニーチェは本能というイメージだが、
    品責の経験から思う事は、両方必要な気がするね。
    品責として社員に『1時間は好きなことしていいよ』というと
    意外に、その1時間に優れた結果を残す事が多いです。
    カントが社会性スキルで品質、ニーチェが本能的生産性と感じるね。
    両方とも人類に多大な影響を与えた事には変わりないよね。

    IQテストをうけて思う事は、
    こういったカント哲学やニーチェ哲学を理解する事が、頭の良さではないという事。
    IQテストは、目から入った情報と耳から入った情報の対応力と感じる。
    情報処理能力が頭の良さではなく、対応力が頭の良さかなと思う。
    IQテストって『逆から読んで』というテストがあるんだよね。

    んで、今疑問に思っている事は、
    カント哲学、ニーチェ哲学、双方、理解できなかった場合、
    果たして、その人は、どのように生きていくべきか?という事だよね。
    転じて、理解できる事が一つもない場合…、どうやって生きていくんだろうか?

引用返信/返信 削除キー/
■11149 / inTopicNo.16)  イアン・ハッキング「表現と介入」について
□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/22(Mon) 08:11:33)
    パニチェさんおはようございます。
    別件で失礼します。トピ名に科学哲学が入っているので、こちらでいいかなと思い。
    表現と介入で気になる部分があったので判断いただけるとありがたいです。
    ただ、本論とは関係のない枝葉末節なので、めんどうだったらスルーしてください。

    画像で添付しました P.300の中の
    『日陰と日向のさまざまな状況下で注意深く調べる人はだれでも陰になった細糸の上に空気の小球を見出すだろう。それは光が存在することに基づく結果であることを見出すだろう。』

    この部分、「陰になった」は、おかしいと思うのです。
    光合成で酸素の気泡が出るところを観察している状況だと思いますが、
    『陰になった』方が気泡を出し、それによって「光の存在に基づく結果」だと推論するというのは、つじつまが合わないのではないかと。

    なお、これに関しては翻訳には不備はなく、原文にもそのように書かれています。引用しますと
    Whoever will consider with attention the slender green vegetable filaments which in the summer exist in almost all streams, lakes, or pools, under the different circumstances of shade and sunshine, will discover globules of air upon the filaments that are shaded. He will find that the effect is owing to the presence of light.

    現時点では、原文の誤記・誤植(are not shaded から notが脱字とか)ではないかと思っているのですが、
    もし私の勘違いで、そのままで辻褄が合うということがありましたら、ご指摘をお願いします。
    (中学・高校時の理系科目はほぼスルーだった自分ゆえ、とんでもない間違いをしている可能性も)

    文脈の影響はなく画像部分だけで判断いただけると思うので、本を持っていない人もお気づきの点がありましたら、ご意見を頂けると嬉しいです。
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■11148 / inTopicNo.17)  大いなる理性
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/21(Sun) 22:51:54)
    2021/02/22(Mon) 07:40:05 編集(投稿者)

    以下は悪魔ちゃんへの返信というよりも、ニーチェが言うところの理性について書きたいことを気の向くままにカキコします。

    生物にとって意識とか精神と呼ばれるものは、さほど重要ではない。私たちが呼ぶところの「意識」とか「精神」ってのは、人間や霊長類の一部しか多分有していないし、ほとんどの生物は無意識的というか本能のみで生きている。

    さらにツァラトゥストラが指摘するように、精神とは進化の過程で最も遅れて芽生えた機能からして、最も未成熟であると言える。

    痛みは身体性からの警告であり、「体が正直」と言われるように身体的な反応は当人が気づかないようなストレスの蓄積やダメージに反応し、生への警鐘を鳴らす。

    キリスト教や仏教では禁欲的なことをもって是とする教義があり、苦行や鞭打ちによって身体性をまるで軽視したり、否定するかのような倫理観があり、ニーチェはこれらの禍因性を批判する。

    生にとって本能は意識や精神とは違って不可欠であり重要な機能である。

    これを無制限に認め欲望の赴くままに行動することを薦めるということではなく、生にとって重要である本能がまるで悪者であるかの如く、これを抑制し締め付けようとする教義は生のダイナミズムを去勢することに他ならない。

    ニーチェが言うとこの大いなる理性とは「生の遠近法(生にとってより重要であるかどうかの価値観)」を基準としものであり、生物に不可欠な自己保存本能の健全な発現、生のベクトルに相応しい方向性のことでもある。

    『意識。──意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。(悦ばしき知識第11番)』

    「きみが「精神」と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ)』

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■11145 / inTopicNo.18)  Re[63]: 追記:ニーチェによるカント批判
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/21(Sun) 18:14:32)
    パニさん、お邪魔します。

    >欲望や欲求を理性によって制御する<
    とか、
    >身体性を「大いなる理性」呼び<
    とか、いずれにしても「理性」に関連づけてるよね。

    「理性」ってなあに?の意味が見えてこない。
    「理性」とは、〈欲望や欲求を制御するものである〉とか、「理性」とは身体性である、って言われてもね〜。

    身体性っていうのを〈身体の性(さが)とか性質とか能力〉ってして見ますね。身体は身体維持のために活動してる。たとえば食欲、性欲みたいな欲求は身体性だと思う。食欲については、いまの人間社会制度のなかではお金がなくちゃ食料を手に入れることができない。だから金欲、っていうのも身体性という理性には必要。こういう欲望や欲求を制御するものが理性?  な〜んかメチャクチャ。

    理性をエポケーして、
    「欲望や欲求を本能によって制御する」とか「身体性を本能と呼ぶ」っていうのもありかも?そして、こういう本能がいつのまにか見失われたり、退化しちゃってることがある、っていうこともありうる、っていう見方もあるのかも?

    あ、あくまでもこれ、わたしの、ふと、からだし、ただ言いたかっただけだから。

引用返信/返信 削除キー/
■11140 / inTopicNo.19)  追記:ニーチェによるカント批判
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/21(Sun) 09:58:39)
    ニーチェがカントに共感を抱いたのは僧侶階級からトップダウンで与えられるキリスト教道徳に異を唱えたところにある。

    もっとも違うところはカントが生理的欲求や欲望を因果律として分析し、これを制御することが動物とは違った理性を有する人間ならではの自由であると捉えたのに対し、ニーチェは身体性を「大いなる理性」呼び、ツァラトゥストラでは「きみが『精神』と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。きみの大いなる理性の一つの小さな道具ないしは玩具である。(ツァラトゥストラ)」、「創造する肉体が、みずからのために、自分の意志の一つの手として、精神を創造した。(ツァラトゥストラ)」と説く。

    欲望や欲求を理性によって制御することは人間の特権であるが、度が過ぎれば本来ダイナミックでディオニュソス的でもある生を委縮させてしまう。生を原罪によって罪深いものとしたユダヤ・キリスト・イスラム教的ドグマと代わり映えがしなくなる。また動物といえども滅多には共食いをしないし、群れの掟(ボス)には従う、子育てをする等々、利己的な欲求や欲望のままということでもない。

    一方、身体性からくる痛みや恐怖などの感覚や情動は生死(自己保存本能)に直結しており、自律神経系は無意識的ながら制御と活性を微調整しホメオスタシスを維持している。「身体が正直」という事例があるように身体的な反応によって意識では気付かないストレスの蓄積や危険信号を察知することも多々ある。

    ニーチェからすればカントはキリスト教道徳に否と言いつつ、キリスト教道徳や仏教と同じように身体性からくる欲求や欲望を(煩悩として)否定し、禁欲主義を是とするような生を道徳的な生き方と推奨するところに違和感を抱いている。

    つまりカントの善悪とキリスト教的善悪は結果的に一致しており、理性の原因を現象界に対する叡智界というイデア界的(神的)なものとして捉えるに至ってキリスト教道徳に舞い戻っていると分析する。

    これに対してニーチェはキリスト教的な善悪二元論を解体し、奴隷道徳と君主道徳として、善悪とは異なる神なき時代の新たな倫理観を提起した。

    Panietzsche Roomより

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■11139 / inTopicNo.20)  ニーチェによるカント批判
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/21(Sun) 09:48:14)
    ニーチェ事典(弘文社)によれば『最初のうちニーチェはカントをそれほど否定的には見ていなかった。なんといってもカントは、19世紀のドイツのほとんどの知識人がそうであるように彼にとっても近代哲学者との最初の触れあいの機会であった。すでにプフォルタ校時代にある程度はカントを知っていたニーチェは、学生時代の1868年には友人への手紙で「カント以降の目的論」について論文を執筆する計画を伝えている』とのこと。

    コペルニクス的転回によって認識論に革命を起こした点は評価していたが、理性や道徳を論ずるに至って形而上学という檻の中に再び舞い戻ってしまった。デカダンスの一暗示、下降する生の症候にすぎないキリスト者のいち形態に成り下がってしまったというのがニーチェの最終的なカント評である。


    『公にであろうと、ひそかにであろうと、屈従し服従すること。──これがドイツの美徳である。──カントと彼の定言命令法とのずっと以前に、ルターは同じ感覚から言った。人間が無条件的に信頼することの出来るひとつの存在がなければならない。──これが彼の神の証明であった。彼はカントよりも荒っぽく、また通俗的に、人が概念にではなく、人格に無条件的に服従することを望んだ。そして結局カントもやはり人格に対する服従に到達するためにのみ、道徳をめぐる彼の廻り道を進んだ。(曙光207番)』

    『ここで私は老カントのことを念頭にしているのだ。カントは「物自体」(これがすでにまことに可笑しな代物だが!)を欺取したその罰として、「定言命令法」の奴に忍びこまれ、それを胸に抱きしめてまたもや「神」・「霊魂」・「自由」さらには「不死」のものへと、まるで自分の檻の中へと迷い帰る狐のように、迷い帰っていった。──しかも、この檻を破りひらいたのが、ほかならぬ彼の力であり英知であったというのに!──どうしたことだ?貴方は、御自身が胸中にする定言命令法を驚歎されるのか?貴方のいわゆる道徳判断の、この「断乎さ」を?「この点ではすべての人間が、僕と同様の判断をせねばならない」という感情の、この「無条件性」を?そんなことをするよりむしろ、その点での貴方の我欲を驚歎なさるがいい!のみならず、貴方の我欲の盲目性、偏狭性、寡欲性を!というのも、自分の判断を普遍的法則と感ずるのは我欲だからだ。重ねていえば、それも盲目で偏狭で寡欲な我欲である。なぜといって、それは、貴方が貴方自身をまだ発見していないことを、御自身にとっての独自の、独特無比の理想を何一つ創造されていないことを、暴露しているからである。(悦ばしき知識第335番)』

    『キリスト教のやり方においてにせよ、カント(結局のところ陰険なキリスト者─)のやり方においてにせよ、世界を「真の」世界と「仮象の」世界とに分けることは、デカダンスの一暗示にすぎない、─下降する生の一症候にすぎない…
    (偶像の黄昏 ソクラテスの問題6)』

    『「これが私たちの確信である、私たちはこの確信を全世界の面前で告白する。私たちはそのために生きまた死ぬ、──確信をもつすべてのものに対して敬意を払え!」──このようなことを反ユダヤ主義者の口からすらも聞いたことがある。反対なのだ、紳士諸君!反ユダヤ主義者は、原則にもとづいて虚言したからといって、けっして品位を増すことにはならない・・・そうした事柄ではもっとも抜け目のない僧侶どもも、確信という、言いかえれば、目的に役立つがゆえに原則的であるという虚言という概念のうちにある異議にきわめてよく通じている僧侶どもは、これらの概念の代わりに、「神」、「神の意志」、「神の啓示」という概念を押しこむ賢明さを、ユダヤ人から受けついだ。カントもまた、その断言命令でもって、これと同じ道をたどった。カントの理性はこの点で実践的となったのである。(アンチクリスト第55番)』

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■10840 / inTopicNo.21)  Re[60]: 真理に関するアフォリズム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/06(Sat) 19:20:52)
    ニーチェの『善悪の彼岸』から、

    【真理への意志、これはわれわれをなお幾多の冒険へ誘惑するであろうし、あの有名な誠実、これについてはすべての哲学者がこれまで尊敬の念をもって語って来た。この真理への意志はどのような問いをわれわれにすでに提示したことか!なんという奇異な、悪質な、疑わしい問いを提示したことか!それはもう一つの長い歴史物である。――それにしても、それはやっといましも始まったばかりのように見えるではないか。われわれがついにはいつか不信を抱き、忍耐を失い、耐えられずに身を背(そむ)けるにしても、何の不思議があろうか。われわれにこのスフィンクスからわれわれなりの問いを学ぶということに何の不思議があろうか。われわれにここで問いかけるのは、そもそも〈誰〉であるのか。われわれのうちにあって「真理へ」意志しているのは、果たして〈何〉であるのか。】(1)

    【実在的に「与えられて」いるのは、われわれの欲望と情熱の世界より他の何ものでもなく、従ってわれわれはまさにわれわれの衝動の実在性より以外の他の「実在性」へ下降することも上昇することもできないとすれば――思惟することはこれらの衝動が相互に関係し合うことにすぎないから――、この「与えられて」いるものがその同類のものから更にいわゆる機械的(または「物質的」)世界をも理解するに十分でないかどうかを、試みに問うことが許されるのではないか。】(36)

    なにも「私の生」において、その欲望を「真理への意志」ってしなくてもいいんじゃなないの?ってニーチェは言ってるようにわたしには見えるんだけど。

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■10830 / inTopicNo.22)  Re[59]: 真理に関するアフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/06(Sat) 09:55:23)
    No10829に返信(マジカルモンキーさんの記事)
    > 真理は絶望かな…、私は到達したくない。

    私にとって「真理」は「信仰」とともに思考停止ワードです。
引用返信/返信 削除キー/
■10829 / inTopicNo.23)  Re[58]: 真理に関するアフォリズム
□投稿者/ マジカルモンキー -(2021/02/06(Sat) 09:40:36)
    真理は絶望かな…、私は到達したくない。
引用返信/返信 削除キー/
■10825 / inTopicNo.24)  Re[57]: 真理に関するアフォリズム
□投稿者/ パニチェ -(2021/02/06(Sat) 08:07:29)
    2021/02/06(Sat) 09:05:43 編集(投稿者)

    『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである(悦ばしき知識 第354番)』

    『真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である。生にとっての価値が結局は決定的である。(力への意志 第493番)』

    『「これこれのものはこうであると私は信ずる」という価値評価が、「真理」の本質にほかならない。(力への意志 第507番)』

    『真理とは何か?──惰性のことである。精神的力の最小の消費その他という満足を生ぜしめる仮説そのもの(力への意志 第537番)』

    『多種多様の眼がある。スフィンクスもまた眼をもっている──、したがって多種多様の「真理」があり、したがっていかなる真理もない。(力への意志 第540番)』

    『哲学者の気晴らしは異なっており、その手段も異なる。すなわち、哲学者が気晴らしをするのは、たとえばニヒリズムにおいてである。いかなる真理も全然ないという信仰、ニヒリストの信仰は、認識の戦士としてまったくの醜い真理とたえまなく闘争している者にとっては、大きなくつろぎである。なぜなら真理は醜いものであるからである。(力への意志 第598番)』

    『あるべき世界が実在しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとする意欲を欠いた非生産的人間の信仰であり、彼らはその世界が実在するものだとし、その世界に到達するための手段や手法を探しはじめる。──「真理への意志」とは──創造への意志の喪失なのだ。(1887年秋遺稿)』


    ニーチェは真理の有無よりも、認識論や心理学的な文脈において真理とは如何なるものであるかを考察している。

    そして真理のアフォリズムには誤謬や信仰、認識という用語が同居していることから、ニーチェにとっての「真理」とは非生産的なもの、創造の意欲の喪失、惰性や怠惰に隣接する用語として語られている。

    あるいはニーチェにとっての「真理」は『精神の権力の衰退と後退としてのニヒリズム、すなわち、受動的ニヒリズム。(力への意志 第22番)』の文脈にある。

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