| 西田幾多郎の思想は、純粋経験から出発して、その問題意識を深める方向で、自覚を経て場所へと変転していった。場所とは、すべての経験がそこにおいて成立する舞台のようなものであり、またあらゆる実在の基盤となるものであった。それは究極的な一般者というふうに言われることもあるが、一般者とは西田に於いては、自己を限定して個物を生じるものであり、したがって個物からなるこの世界の究極根拠となるものでもあった。その場所あるいは一般者を西田は無と言い、場所の中でももっとも高次の次元の場所を絶対無と言った。
というのも西田の場所は、均質的なものではなく、いくつかの層からなる重層的なものであった。場所は一般者と言い換えられるが、その一般者の中に西田は、判断的一般者、自覚的一般者、叡智的一般者を区別し、それぞれに対応して、自然界、意識界、叡智的世界が生成するとした。自然界は判断的一般者が自己限定することで、意識界は自覚的一般者が自己限定することで、叡智的世界は叡智的一般者が自己限定することで、それぞれ生成するわけである。
この西田幾多郎のいう場所とは行きっぱなしか行って戻るかの違いだと思う。 やはりここが最も重要な点になる。人生を分ける分岐点だと思います。 浄土宗と禅宗の違いと言ってもいい。 小乗と大乗の違いと言ってもいい。 西田幾多郎のいう絶対無とは禅宗でいう絶対平等の絶対差別だと思います。 内山図の第六図であり、一隻眼の連続で今に生き続ける地点を西田は絶対無と言ってると思います。 その地点から自己限定したところ=疲れきって離脱したところが叡智的一般者だと思います。
|