| こんにちは。曹洞宗のご住職でもあられる片山一良先生の著作『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、p272から引用します。パーリ語などの記号は入力できてません。
引用開始 『では、その「禅定」とは何でしょうか。ここで少しまとめておきますと、それは、「禅」とも、「定」とも、「禅という定」とも解されるでありましょう。
「禅」(jhana,Skt.dhyana<√dhyai)は、禅那、静慮とも訳され、『清浄道論』(第四章)によれば、(1)所縁(対象)を思惟すること(upanijjhana)から、あるいは、(2)敵対(五蓋=貪欲、瞋恚、沈鬱、眠気、浮つき・後悔、疑い)を焼くこと(jhapana)から、「禅」と呼ばれます。 つまり、(1)は観(vipassana)の特徴を、(2)は止(samatha)の特徴を示すものでありますから、禅は「止観」の意味にも解されるということです。 一般に「禅」は四禅(色界四禅定)によって説明されますが、八正道の「正定」は四禅としても説明されますから、禅は「定」でもあると言えましょう。
これに対して、「定」(samadhi<sam-a-√dha)は、三摩地、三昧、等持とも訳され、『清浄道論』(第三章)によれば、一つの所縁に対して心・心所を平等に正しく保持すること、善の心一境性(kusala-cittekaggata)であると言われております。全体として、最広義の禅定を意味し、三界、有漏、無漏のすべてを含むものです。
このように、伝統的な解釈によれば、禅定は、禅とも、定とも、禅である定とも解されますが、その基本的な意味は「静まり」です。 止、定による「心の静まり」と、観による「慧による静まり」です。
ちなみに、後代の中国や日本における、いわゆる禅宗の「禅」(ZEN)、あるいは「坐禅」(ZAZEN)は、止も観も、定も慧も含むものと言えます。禅定波羅蜜だけでなく波羅蜜全体を、また定学だけでなく三学全体をも含むものです。さらに言えば、修証一等の戒定慧であり、仏道、仏法そのものであります。』 引用終了
片山先生は学者さんでもあると思うので、曹洞宗の方の中には、片山先生の記述に違和感を持たれる方もいるかもしれませんね(推測・例えば、分別っぽくて曹洞宗っぽくない、とか)
いろんな考え方があると思うのですが、一資料として投稿します。
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