| 2020/10/23(Fri) 22:11:25 編集(投稿者)
こんばんは、たーぼーさん。レスありがとうございます。
■No8179に返信(たーぼーさんの記事)
> 何かあれば、溜めないで言ってください
お互いそうしましょう。 返信は忌憚なくさせてもらいます。
>> ニーチェの著作を読まずにニーチェクラブでニーチェを語っても怒りはしませんが、正直に言うと「我が強い方だな」とは思います。
> 具体的に私が書いたことで、ここが間違っているという指摘をしていただければ、出来る限り分かりやすく答えます。 > それでも理解出来ない、考えが違うなら違うままでいいと思います。
哲学者について議論する際は出自を示す必要があります。 間違っているとか、いないとかの問題以前に、ニーチェのアフォリズムや著作を根拠としたニーチェに関する議論でなければ不毛ですし、興味がありません。
■No8180に返信(たーぼーさんの記事) > 本を沢山読むこともエゴになりうる。
拘りをエゴと言うなら、エゴでしょう。 でも、ニーチェの著作も読まずに「ニーチェは」と語ろうとするのは、妄語や綺語、邪見以外の何ものでもないような気がします。
> 例えば、仏陀なら仏陀をとことん研究しつくした人がいると、やはり仏陀の理解には自信を持つだろう。 > そこには、これだけの本を読んだんだから、仏陀の本も読んでない人間の仏陀評など信用出来ないというエゴがでるんだろうと思う。
自信をもつか、もっと謙虚になるかはともかく「仏陀の本(仏典や論書)も読んでない人間の仏陀評(仏教評)」など信用できないばかりか取るに足りないというのは正論でしょう。 本も読まずに読書感想文を書いているようなものです。
> 禅宗でも何十年と修行した人でも、俺はこれだけの修行をしたというエゴが出るという。
それは野弧禅や魔境、増上慢の類です。
> これに似てる気がするのは私だけか?
大乗非仏論は横に置くとして、仏道か外道(仏道に非ずという意)かの判断基準は仏典や論書を根拠とするものであるか否かでしょう。教外別伝や不立文字には印可をもって法灯とします。
根拠や出自もなく「仏道とは」「仏教とは」と語ってもナンセンスですし、それこそ見取見(十根本煩悩のひとつ、自分の考えや自分の見解を絶対視し固執すること)だと思います。 自論の拍付けに仏教を利用しているという意図すら見え隠れします。
> しかし、パソコン全盛の今時、ネットで調べれば大概の偉人の語録くらい手に入る時代だ。
哲学者が自らの生涯をかけて構築した哲学や思想をWikipediaやそこいらに転がっている語録や言説を読んでの俄仕込みや付け焼き刃でもって「○○は…」なんて語ることは、私はおこがましくてとてもできませんし、少なくともそういう態度は真摯とは言い難い。
ましてやニーチェを冠にしているサイトでニーチェの著作も読まずに「ニーチェは」とカキコできる感覚が私には理解できません。価値観の違いでしょうね。 もちろん是非を述べているのではありませんが。。
|