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■7662 / inTopicNo.97)   たーぼーさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/10/11(Sun) 15:05:55)
    こんにちは、返信ありがとうございます(o^^o)
    少しずつ、返信させていただきますね

    > ですから禅定と観をやはり併用していこうと思っています。<

    そうですね、止観はどちらも欠かせないものに私も思っています。

    日本でパーリ仏典の翻訳者として有名な片山一良先生は、曹洞宗の花岳寺の住職もされているので、禅宗のことも、パーリ経典のこともとても深くご存知だと私は思っています。
    その片山先生の著作『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、から、止観や、禅定についてを引用していきます。

    『止観とは、すなわち止の修習と観の修習です。
    「止」(samathaサマタ)は、諸煩悩を寂止させる心の修習、またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性を本質とします。』p13より引用

    ********

    ※pipit私見・・・諸煩悩の寂止、とありますが、寂滅ではないことに注意です。
    定から出ると、煩悩が生じ得るということだと私は捉えています。
    ここで一旦、片山先生の本から離れて、前出したタイのお坊さまの本『仏法』から、定についての記述を引用します。

    『仏法』p335〜336
    『(@)仏法の目標に至るための実践において定の真の利点は、心を仕事に適したものにすることである。
    それは最も成果を上げるように慧が働けるための仕事場として用いることである。このため使う定は最高に達する必要はない。
    逆に、定だけ最高の段階にまで修習しても、慧を使う段階に至らなければ、仏法の目標に達することは絶対にできない。

    (A)八段階の禅定は深い心の状態であるにしても、止と呼ばれるだけの実践の過程の結果であるときは、依然として世間(Lokiya)であり、仏法の目標と混じてはならない。

    (B)一時的な解脱、すなわち、定の完成の結果である禅定の状態は様々な煩悩が静まり、解脱と同じようになる。しかし、この解脱はそのような状態にあるときだけの一時的なもので、元の状態になる。
    しっかりと続かない。
    そこでブッダはこのような解脱を世間解脱(Lokiya-vimokkha)、あるいは動解脱(Kuppa-vimokkha=変化してゼロに戻る)と呼ばれ、また、鎮伏解脱(Vikkhamabhana-vimutti=抑え付けての解脱、すなわち、草を石板で押さえ付けるのと同じことで、煩悩は定で抑え付けられている。石板が除かれると、そのときは新たに芽が出る)と呼ばれた。

    ここで述べたことを見ると、以下のことが分かる。

    *仏法の目標に達成するための実践において、最後の段階の決定する法、あるいは最も重要な主役は慧である。そして

    *この段階で実践に使う慧は特に「観」(VipassanA)と呼ぶ。

    したがって、実践は常に「観」の段階まで前進しなければならない。
    定の方は、必要ではあるが、「観定(VipassaA-samAdhi)」(ブッダは、これは刹那定、近行定の水準と同じだと言われる)と呼ばれる最初の段階から始め、柔軟性をもって、いずれかの段階を使えばいい』
    引用終わり

    いったんここまでを投稿します。

引用返信/返信 削除キー/
■7654 / inTopicNo.98)  Re[3]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/11(Sun) 10:55:23)
    No7649に返信(pipitさんの記事)
    > たーぼーさん、こんにちは。
    >
    > 岩波文庫『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元先生訳、p159.160にでてくる、釈尊の入滅時は、
    > 色界禅定→無色界禅定→滅想受禅定→無色界禅定→色界禅定→入滅
    > という流れですが、これは釈尊が禅定の達人だったから、そうしただけで、
    > しかも、すでに阿羅漢になっているのでその流れになっただけで、悟るときのコースとは別として考えたほうがいいのではないかと思っています。
    >
    > 悟っていない釈尊が、解脱するときの様子は、経蔵では、以下のように記されてるそうです。
    > タイのお坊さまの『仏法』ポー・オー・パユットー師著、野中耕一さん訳p181より、経典部分を引用します。パーリ語は正確に入力できませんm(_ _)m
    > (註釈を読むと中部経典のボーディ王子経が出典なのかなぁ?と思います。
    > wikiに『ボーディ王子経』の項目で、情報が載っています。)
    >
    > 釈尊が、大悟したとされるときの様子が記述された経典文です。
    >
    > 『そこで私は食事を摂り力を得ると、もろもろの欲望、不善から離れ、初禅、第二禅、第三禅、第四禅に達し、苦なく楽なく、捨によりて念を清浄にした。
    >
    > 私は心が定になり、清浄で、明るくなり、煩悩がなくなると、穢れがなく柔らかで、仕事に適し、確立して動揺しなくなり、宿住明(宿住随念智)(Pubbenivasanussatiーnana)のために心を傾け、前世を多く想起した(第一明)。
    >
    > 次に天眼明(死生智)(Cutupapata-nana)のために心を傾け、生まれ死す多くの衆生を見た(第二明)。
    >
    > 次に漏尽明(漏尽智)(Asavakkhaya-nana)のために心を傾け、『これが苦なり、これが苦の集なり、これが苦の滅なり、これが苦滅道なり。これが漏、漏の集、漏の滅、漏の滅に導く道』という真実を知った。
    > このように知り、見て、心は欲漏、有漏、無明漏から解脱した(第三明)』
    >
    > この記述からは、無色界禅定の必要性は読み取れません。
    > ですが、とはいっても、四禅が必須と説いてるわけでもなく、これは、釈尊の大悟の様子であって、修行者全員が、悟りを開くのに同じコースを辿るわけでもないようです。
    >
    > それが、慧解脱などの用語と関わってくるようです。
    > そのあたりについても、記述していくつもりをしています。
    >
    > とりあえずここまでを投稿します。
    > ご質問あるときは、脈絡関係なくご質問ください。
    >
    > なんでもたーぼーさんの、ご自由にお書きくださいm(_ _)m
    >
    > ありがとうございます(^O^)


    pipitさん、おはようございます^^
    今日の投稿は最高ですね。大変参考になります
    ありがとうございます。
    四禅なら色界を離れるわけではないから安心です。
    集中力が極限まで高まった一境性ですね。

    tryagain
    https://m.youtube.com/watch?v=mRDtM2Oc8Hs

    この歌詞で壊れた過去の破片を集めて♪という部分は、以前書いた玄侑宗久さんの(時におけるあらゆる私(尽時の尽有)が、活発に活き活き溌剌してくるような己のあり方を模索せよ、と聞こえる。我々はどこまで行っても時間的存在であることを免れない。それならば、という懇切なる説諭である。しかし「尽時の尽有」を剰(あま)すところなく「究尽(ぐうじん)する」というのは、遥かな道である。)だと思っています。
    ですから禅定と観をやはり併用していこうと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■7649 / inTopicNo.99)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/11(Sun) 09:18:51)
    たーぼーさん、こんにちは。

    岩波文庫『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元先生訳、p159.160にでてくる、釈尊の入滅時は、
    色界禅定→無色界禅定→滅想受禅定→無色界禅定→色界禅定→入滅
    という流れですが、これは釈尊が禅定の達人だったから、そうしただけで、
    しかも、すでに阿羅漢になっているのでその流れになっただけで、悟るときのコースとは別として考えたほうがいいのではないかと思っています。

    悟っていない釈尊が、解脱するときの様子は、経蔵では、以下のように記されてるそうです。
    タイのお坊さまの『仏法』ポー・オー・パユットー師著、野中耕一さん訳p181より、経典部分を引用します。パーリ語は正確に入力できませんm(_ _)m
    (註釈を読むと中部経典のボーディ王子経が出典なのかなぁ?と思います。
    wikiに『ボーディ王子経』の項目で、情報が載っています。)

    釈尊が、大悟したとされるときの様子が記述された経典文です。

    『そこで私は食事を摂り力を得ると、もろもろの欲望、不善から離れ、初禅、第二禅、第三禅、第四禅に達し、苦なく楽なく、捨によりて念を清浄にした。

    私は心が定になり、清浄で、明るくなり、煩悩がなくなると、穢れがなく柔らかで、仕事に適し、確立して動揺しなくなり、宿住明(宿住随念智)(Pubbenivasanussatiーnana)のために心を傾け、前世を多く想起した(第一明)。

    次に天眼明(死生智)(Cutupapata-nana)のために心を傾け、生まれ死す多くの衆生を見た(第二明)。

    次に漏尽明(漏尽智)(Asavakkhaya-nana)のために心を傾け、『これが苦なり、これが苦の集なり、これが苦の滅なり、これが苦滅道なり。これが漏、漏の集、漏の滅、漏の滅に導く道』という真実を知った。
    このように知り、見て、心は欲漏、有漏、無明漏から解脱した(第三明)』

    この記述からは、無色界禅定の必要性は読み取れません。
    ですが、とはいっても、四禅が必須と説いてるわけでもなく、これは、釈尊の大悟の様子であって、修行者全員が、悟りを開くのに同じコースを辿るわけでもないようです。

    それが、慧解脱などの用語と関わってくるようです。
    そのあたりについても、記述していくつもりをしています。

    とりあえずここまでを投稿します。
    ご質問あるときは、脈絡関係なくご質問ください。

    なんでもたーぼーさんの、ご自由にお書きくださいm(_ _)m

    ありがとうございます(^O^)
引用返信/返信 削除キー/
■7629 / inTopicNo.100)  パニチェさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/10(Sat) 21:24:12)
    ありがとうございます\(^o^)/

    よろしくお願いしますm(_ _)m
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■7626 / inTopicNo.101)  仏教について勉強してみる。
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/10(Sat) 19:44:35)
    トピ主:pipitさん

    よろしくお願いします。


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