| こんにちは、返信ありがとうございます(o^^o) 少しずつ、返信させていただきますね
> ですから禅定と観をやはり併用していこうと思っています。<
そうですね、止観はどちらも欠かせないものに私も思っています。
日本でパーリ仏典の翻訳者として有名な片山一良先生は、曹洞宗の花岳寺の住職もされているので、禅宗のことも、パーリ経典のこともとても深くご存知だと私は思っています。 その片山先生の著作『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、から、止観や、禅定についてを引用していきます。
『止観とは、すなわち止の修習と観の修習です。 「止」(samathaサマタ)は、諸煩悩を寂止させる心の修習、またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性を本質とします。』p13より引用
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※pipit私見・・・諸煩悩の寂止、とありますが、寂滅ではないことに注意です。 定から出ると、煩悩が生じ得るということだと私は捉えています。 ここで一旦、片山先生の本から離れて、前出したタイのお坊さまの本『仏法』から、定についての記述を引用します。
『仏法』p335〜336 『(@)仏法の目標に至るための実践において定の真の利点は、心を仕事に適したものにすることである。 それは最も成果を上げるように慧が働けるための仕事場として用いることである。このため使う定は最高に達する必要はない。 逆に、定だけ最高の段階にまで修習しても、慧を使う段階に至らなければ、仏法の目標に達することは絶対にできない。
(A)八段階の禅定は深い心の状態であるにしても、止と呼ばれるだけの実践の過程の結果であるときは、依然として世間(Lokiya)であり、仏法の目標と混じてはならない。
(B)一時的な解脱、すなわち、定の完成の結果である禅定の状態は様々な煩悩が静まり、解脱と同じようになる。しかし、この解脱はそのような状態にあるときだけの一時的なもので、元の状態になる。 しっかりと続かない。 そこでブッダはこのような解脱を世間解脱(Lokiya-vimokkha)、あるいは動解脱(Kuppa-vimokkha=変化してゼロに戻る)と呼ばれ、また、鎮伏解脱(Vikkhamabhana-vimutti=抑え付けての解脱、すなわち、草を石板で押さえ付けるのと同じことで、煩悩は定で抑え付けられている。石板が除かれると、そのときは新たに芽が出る)と呼ばれた。
ここで述べたことを見ると、以下のことが分かる。
*仏法の目標に達成するための実践において、最後の段階の決定する法、あるいは最も重要な主役は慧である。そして
*この段階で実践に使う慧は特に「観」(VipassanA)と呼ぶ。
したがって、実践は常に「観」の段階まで前進しなければならない。 定の方は、必要ではあるが、「観定(VipassaA-samAdhi)」(ブッダは、これは刹那定、近行定の水準と同じだと言われる)と呼ばれる最初の段階から始め、柔軟性をもって、いずれかの段階を使えばいい』 引用終わり
いったんここまでを投稿します。
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