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■7727 / inTopicNo.85)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2020/10/12(Mon) 19:56:12)
    No.7722

    こんばんは!

    人によって、言うことは違うみたい。

    仏教は、宗教だよ。
    仏教は、科学だよ。
    その他

    いろいろ人の思いはあると思うよ。

    私は、どちらかというと、仏教を科学的にとらえてるよ。

引用返信/返信 削除キー/
■7725 / inTopicNo.86)  たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/12(Mon) 19:51:02)
    こんばんは!

    まだ引用を続けようと思ってたのですが、たーぼーさんが知りたかったところは書けたのかな?と、なんとなくの雰囲気で感じたので、とりあえず引用はストップしますね

    もちろん、まだ引用したほうがよかったら、おっしゃってくださいね!

    他の箇所などでも、私も勉強になるので、遠慮なく言ってくださいね〜(^O^)/

    おつかれさまです(^ ^)


引用返信/返信 削除キー/
■7722 / inTopicNo.87)  Re[6]: 仏教
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/12(Mon) 19:05:54)
    「仏教」って「宗教」って言う括りに属するっていうことでいいのかしら?

    ってすると、わたしのばあい「キリスト教」「イスラム教」「ユダヤ教」と同じ類に属することになるんだけど。
引用返信/返信 削除キー/
■7721 / inTopicNo.88)  Re[5]: たーぼーさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/12(Mon) 18:35:09)
    No7662に返信(pipitさんの記事)
    > こんにちは、返信ありがとうございます(o^^o)
    > 少しずつ、返信させていただきますね
    >
    >>ですから禅定と観をやはり併用していこうと思っています。<
    >
    > そうですね、止観はどちらも欠かせないものに私も思っています。

    pipitさん、色々調べて頂いてありがとうございます。参考にします。
    やはり人の数だけ道は色々あるのでしょうね。
    私とpipitさんは同じ道が合うと言うことですね^^
    人間長く生きてればそれだけトラウマや嫌な思い出も貯まっていきます。
    その凹みをしっかり修復しないといけないように思います。

    > 日本でパーリ仏典の翻訳者として有名な片山一良先生は、曹洞宗の花岳寺の住職もされているので、禅宗のことも、パーリ経典のこともとても深くご存知だと私は思っています。
    > その片山先生の著作『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ『大念処経』を読む』大法輪閣、から、止観や、禅定についてを引用していきます。
    >
    > 『止観とは、すなわち止の修習と観の修習です。
    > 「止」(samathaサマタ)は、諸煩悩を寂止させる心の修習、またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性を本質とします。』p13より引用
    >
    > ********
    >
    > ※pipit私見・・・諸煩悩の寂止、とありますが、寂滅ではないことに注意です。
    > 定から出ると、煩悩が生じ得るということだと私は捉えています。
    > ここで一旦、片山先生の本から離れて、前出したタイのお坊さまの本『仏法』から、定についての記述を引用します。
    >
    > 『仏法』p335〜336
    > 『(@)仏法の目標に至るための実践において定の真の利点は、心を仕事に適したものにすることである。
    > それは最も成果を上げるように慧が働けるための仕事場として用いることである。このため使う定は最高に達する必要はない。
    > 逆に、定だけ最高の段階にまで修習しても、慧を使う段階に至らなければ、仏法の目標に達することは絶対にできない。
    >
    > (A)八段階の禅定は深い心の状態であるにしても、止と呼ばれるだけの実践の過程の結果であるときは、依然として世間(Lokiya)であり、仏法の目標と混じてはならない。
    >
    > (B)一時的な解脱、すなわち、定の完成の結果である禅定の状態は様々な煩悩が静まり、解脱と同じようになる。しかし、この解脱はそのような状態にあるときだけの一時的なもので、元の状態になる。
    > しっかりと続かない。
    > そこでブッダはこのような解脱を世間解脱(Lokiya-vimokkha)、あるいは動解脱(Kuppa-vimokkha=変化してゼロに戻る)と呼ばれ、また、鎮伏解脱(Vikkhamabhana-vimutti=抑え付けての解脱、すなわち、草を石板で押さえ付けるのと同じことで、煩悩は定で抑え付けられている。石板が除かれると、そのときは新たに芽が出る)と呼ばれた。
    >
    > ここで述べたことを見ると、以下のことが分かる。
    >
    > *仏法の目標に達成するための実践において、最後の段階の決定する法、あるいは最も重要な主役は慧である。そして
    >
    > *この段階で実践に使う慧は特に「観」(VipassanA)と呼ぶ。
    >
    > したがって、実践は常に「観」の段階まで前進しなければならない。
    > 定の方は、必要ではあるが、「観定(VipassaA-samAdhi)」(ブッダは、これは刹那定、近行定の水準と同じだと言われる)と呼ばれる最初の段階から始め、柔軟性をもって、いずれかの段階を使えばいい』
    > 引用終わり
    >
    > いったんここまでを投稿します。
    >

    ですから観を重視する方は穴を掘っていくタイプなんですね。
    上に昇るより下を掘っていくタイプなんだと思います。
    上に昇っても下を掘っていっても、同じ泉につくというのが面白いところです。
引用返信/返信 削除キー/
■7720 / inTopicNo.89)  Re[12]: みのりさんへ
□投稿者/ たーぼー -(2020/10/12(Mon) 18:16:17)
    No7719に返信(pipitさんの記事)
    > こんばんは〜(^O^)
    >
    > ブッダは、目覚めた人・覚者という意味の単語としてわたしは捉えてます。
    >
    > すみません、疎くて、どのような呼び方が一般的なのか、ちょっと私にはわからないんですけど、
    > ブッダ、仏陀、釈尊という呼び方はよくお聞きするし、仏教徒の方も全くいやな思いはされないんじゃないかなと推測してます。
    >
    > せっかく聞いていただいたのに、よくわからなくてすみません〜(>人<;)
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    Pipitさん、こんにちわ。
    臨済宗の専門僧堂で師家をお名前で呼ぶ時に00老師様と様をつけないといけない所があるそうです。
    それで様をつけないで老師と呼ぶと嫌な顔をされるそうです(笑)
    一方で私は日本に4人しかいない井上義衍老師の法統を正式に継いでる極めきった曹洞宗の老師と何度もやり取りしましたけど、老師と呼ばれることすら止めてくれと言ってましたね。(さん)でいいですから何度も言われました。
    実力的には遥かに曹洞宗のその方の方が上なんですが、全然気取ったところがなくて自然体でしたね。
    本物は言葉ではなく、いつでもその場で事実を示せます。
    指一本立てるだけ、机を叩くだけ、花をねじるだけ。
    ダルマとはこれだと、いつでも事実を示めせる。
    ですから仏陀に釈尊などという呼び方をしたら、そんな言い方しないで普通に仏陀でいいよと言うのではないのでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■7719 / inTopicNo.90)  みのりさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/12(Mon) 17:16:49)
    こんばんは〜(^O^)

    ブッダは、目覚めた人・覚者という意味の単語としてわたしは捉えてます。

    すみません、疎くて、どのような呼び方が一般的なのか、ちょっと私にはわからないんですけど、
    ブッダ、仏陀、釈尊という呼び方はよくお聞きするし、仏教徒の方も全くいやな思いはされないんじゃないかなと推測してます。

    せっかく聞いていただいたのに、よくわからなくてすみません〜(>人<;)






引用返信/返信 削除キー/
■7718 / inTopicNo.91)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/12(Mon) 16:57:46)
    No.7676

    こんばんは!

    本当にあったことが何なのか、は、わからないなぁ。
    『ブッダは実在しないのか?』島田裕巳さん、藤本晃さん対談本、サンガ
    というタイトルの本まであるくらいだからなぁ

    参考書にはこう書いてある、という理解でいいんじゃないかな?

    わたしも詳しいわけでは全然ないのだけど、何か知りたいなーとか、いうものがあったら、
    調べれる範囲で調べてみるので、気軽に言ってね(^ ^)
引用返信/返信 削除キー/
■7711 / inTopicNo.92)  パニチェさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/12(Mon) 13:15:54)
    パニチェさん、こんにちは。 レスありがとうございます。


    > 私は釈尊と呼んでいます。

    私も以前、釈尊を使用していた時もありました。
    少しだけニュートラルな呼び方になるのかな、と思い、仏陀はどうだろう、と思ったところでした。
    尊敬はするのだけれど、フラット感も入れたいみたいな。^^

    > 猿の惑星は大ヒットした娯楽大作でリメイクもされてます。こちらは単純に面白い作品です。
    >
    > 一方、2001年はストーリー自体にはそんなに山谷かなく、淡々と描いてる感じなので、退屈という人もいるので少し心配っす。
    > (^^;)

    綺麗な画面が続くような映画っていうのは好きなので、たぶん観られると思いますよ。^^
    とにかくドロドロしてないものなら大丈夫なんです。
    名作とされてるもので観られそうなものは観たいな、と思う今日この頃です。
引用返信/返信 削除キー/
■7710 / inTopicNo.93)  Re[8]: pipitさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/12(Mon) 12:12:11)
    2020/10/12(Mon) 12:34:19 編集(投稿者)

    おはようございます、minoriさん。
    横レス失礼します。

    私は釈尊と呼んでいます。

    猿の惑星は大ヒットした娯楽大作でリメイクもされてます。こちらは単純に面白い作品です。

    一方、2001年はストーリー自体にはそんなに山谷かなく、淡々と描いてる感じなので、退屈という人もいるので少し心配っす。
    (^^;)
引用返信/返信 削除キー/
■7707 / inTopicNo.94)  pipitさんへ
□投稿者/ minori -(2020/10/12(Mon) 08:21:48)
    pipitさんに質問があります。

    仏陀、釈迦、ゴータマシッダールタ、ゴータマ・ブッダ と、呼び方はいくつもあるのですが。
    信仰的には思ってなくて、でもそれなりには尊敬してて(それなりってすみません。。(;^_^A )、という私のような人が彼について表す際にふさわしい呼び方はどれになりますか?

    釈迦族だったと聞きますし、それなのに釈迦と呼ぶのはなんだか冷たい気もしてしまうし、崇拝しまくるってほどではないので、呼び名には迷うんです。

    仏陀だとそういう人(私みたいな人)が呼ぶにも相応しいのかな、と思ってるのですが、どうでしょう。
    あ、そうか、ブッダとカタカナで書くのもありますね。
    でもなんか漢字が風格ある気もしますけど・・・。
    やはり、仏陀かな。 仏陀という呼び方、尊称の意味は入ってましたっけ。

    ごく簡単にでいいですよ。 仏陀でいいかどうかだけ、よかったら教えてください。
引用返信/返信 削除キー/
■7676 / inTopicNo.95)  Re[6]: 仏教
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/11(Sun) 20:33:35)
    ぴぴっとさまがここつくってくれたので、ここではカントから離れて、ちょっと参加させてもらうね。

    わたしの参考書のなかには次のようなことが書いてある。

    〔ブッダの生涯と思想 前463〜前383頃(前563〜前483頃の説もあり)

     仏教の開祖。本名はゴータマ=シダッルタ。一族の名をとって釈迦とも呼ばれる。ヒマラヤの麓の小国カビラバツウの王子として生まれた。何不自由のない環境の中で育てられたが、幼少の頃から物思いにふける傾向があったという。16歳でヤショーダラと結婚して、一人息子のラーフラが生まれた。しかし、生(しょう)・老・病・死という人生の問題に深く悩み、29歳のときに出家して修行者の生活に入った。6年間断食などの伝統的な苦行をしたが、精神がもうろうとするだけで悟りを得ることはできず、苦行の無意味さをさとった。35歳のときに、ガンジス川中流域にある村(ブッダガヤ)の菩提樹の下で、7日間、座禅をして静かに瞑想し、ついに人生の普遍的真理を覚って仏陀(真に目覚めた)になった(成道)。そして、サルナートの鹿野苑で5人の修行者にはじめて教えを説き(初転法輪)、その後は、弟子たちとともにインド北部のガンジス川流域をまわって、さまざまな階層の人にわかりやすく教えを説いた。80歳のとき、クシナガラ(ネパールの国境近く)で病のために横になり、弟子や信者に見守られながら死去(入滅)した。
     仏陀は、この世のすべてのものは、さまざまな原因や条件が合わさって成り立ち(縁起)、それ自体の固定的で永遠の本体を持たないと考えた。すべてのものは生まれ、変化し、やがて消滅する運命をまぬがれない。しかし、そのような真理に暗い人間は、自分(我‐が))や所有物(我所‐がしょ)に執着する欲にとらわれて迷い、みずからを煩わせ悩ませている(煩悩)。すべてのものは固有の実体を持たず(諸法無我)、絶えず消滅変化する(諸行無常)という真理を覚れば、一切のものへの執着心から解放され、心の絶対的な静けさの境地(涅槃)を実現することができる。無常な人生の実相についての真理を覚り、ものにとらわれた執着心を捨て去り、心の永遠の安らぎを得ることが、仏教のめざす悟りの境地である。
     仏陀の教えは、弟子たちによって原始仏典として伝えられており、その他に大乗経典などののちに仏教学者や教団によって創作された経典が数多く存在する。〕

    これって、本当のことに近い?

    わたしのばあいまずこの確認からね。
    初心者でごめんだけど。

    ちなみに、長渕さんの歌聞いて見たけど、な〜んかいやらしい。
引用返信/返信 削除キー/
■7663 / inTopicNo.96)  Re[5]: たーぼーさんへ
□投稿者/ pipit -(2020/10/11(Sun) 15:20:24)
    片山先生の本からの引用を続けるつもりですが、その前に
    返信書きます。

    > tryagain
    > https://m.youtube.com/watch?v=mRDtM2Oc8Hs
    >
    > この歌詞で壊れた過去の破片を集めて♪という部分は、以前書いた玄侑宗久さんの(時におけるあらゆる私(尽時の尽有)が、活発に活き活き溌剌してくるような己のあり方を模索せよ、と聞こえる。我々はどこまで行っても時間的存在であることを免れない。それならば、という懇切なる説諭である。しかし「尽時の尽有」を剰(あま)すところなく「究尽(ぐうじん)する」というのは、遥かな道である。)だと思っています。<

    長渕剛さんの曲のご紹介ありがとうございます(^ ^)

    過去の破片もなにかもかも、「今」としてつくりあげる感じかなーと想像しました。

    慈しみの動力で、物語りをつくってみたなら、、、

    どんな世界が起きるのかなー o(^▽^)o
引用返信/返信 削除キー/

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