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■7909 / inTopicNo.85)  Re[14]: ハエとり壺
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 19:04:13)
    2020/10/17(Sat) 19:04:56 編集(投稿者)

    No7907に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > パニチェさん、
    > >これが載っているのは大修館書店刊行「ウィトゲンシュタイン全集第6巻 青色本・茶色本「個人的経験」および「感覚与件」について」です<
    > ありがと。

    どういたしまして。

    > でも、あ、それ、わたしにはムリ〜。わたしメルロのでめいっぱい。
    > ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をまえ読んだことあるけど、彼のおもしろくなった〜。
    > ごめんね

    了解!^^
引用返信/返信 削除キー/
■7907 / inTopicNo.86)  Re[13]: ハエとり壺
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/17(Sat) 18:38:40)
    パニチェさん、
    >これが載っているのは大修館書店刊行「ウィトゲンシュタイン全集第6巻 青色本・茶色本「個人的経験」および「感覚与件」について」です<
    ありがと。

    でも、あ、それ、わたしにはムリ〜。わたしメルロのでめいっぱい。

    ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をまえ読んだことあるけど、彼のおもしろくなった〜。

    ごめんね
引用返信/返信 削除キー/
■7906 / inTopicNo.87)  Re[12]: ハエとり壺
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 18:15:13)
    2020/10/17(Sat) 18:36:57 編集(投稿者)

    No7902に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > な〜んかんか盛り上がっちゃってるようだけど、お邪魔〜、ね。
    > 「ハエとり壺」?何言ってるのかさっぱり。実際そんな壺あるの?
    > ネットで調べてみたよ。『ハエとハエとり壺』っていう本があるみたいね。
    > でもここでの「ハエとり壺」って「ハエと」を抜かしてない?
    > なんか読んでみたくなっちゃたけど入手不可能?

    これが載っているのは大修館書店刊「ウィトゲンシュタイン全集第6巻 青色本・茶色本「個人的経験」および「感覚与件」について」のP.352(「個人的経験」および「感覚与件」について)です。
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■7902 / inTopicNo.88)  Re[11]: ハエとり壺
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2020/10/17(Sat) 17:28:50)
    な〜んかんか盛り上がっちゃってるようだけど、お邪魔〜、ね。

    「ハエとり壺」?何言ってるのかさっぱり。実際そんな壺あるの?
    ネットで調べてみたよ。『ハエとハエとり壺』っていう本があるみたいね。
    でもここでの「ハエとり壺」って「ハエと」を抜かしてない?

    なんか読んでみたくなっちゃたけど入手不可能?



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■7901 / inTopicNo.89)  Re[10]: ハエとり壺
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 16:19:15)
    2020/10/17(Sat) 16:31:21 編集(投稿者)

    こんにちは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No7893に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>ハエとり壺にも関連しますが言語ゲームと独我論の関係をknowing itselfさんはどう捉えてますか?
    >>私はどちらかと言えばハエとり壺は他のアフォリズムにもあるように独我論的世界と捉えています。

    > ウィトゲンシュタインは前期は独我論的で、過渡期の独我論論駁をへて、後期には独我論を捨てたという見解があります。この見解あたりだと、ハエとり壺のアフォリズムは過渡期から後期への分水嶺に位置しているとなるのだと思います。永井さんはこの立場を否定しているようですね。言語ゲームという隠蔽装置の下には、なお独我論の香りが立ちこめているといっています。わたしのこのところのカキコミもそれに近いと思います。

    ********************************************
    以下、ウィトゲンシュタイン『「個人的経験」および「感覚与件」について』より

    (独我論者はハエ取り器の壁の中でぱたぱたし続ける。壁にぶつかってまたぱたぱたする。彼を静かにさせるにはどうすればよいのか)

    しかし私の根本問題は、私というものはどう定義されるのか、である。この特別なものは誰なのか?私である。しかしそれが誰なのかを示すために私は手を挙げればいいのか。──かりに私も私の周囲も絶えず変わってゆくものとすると、そこにもなお何かの連続性、それによって変わっていくものは私であり私の周囲であると言える連続性があるのだろうか。
    ********************************************

    上記のメモの続きに以下があります。

    『「しかし、もし私がそのゲームをやったのなら、自分は色名ゲームをやっていたのだと言い通すだろう。」だが言うことのできるのはそれだけではないか。〔つまり〕それが色名ゲームであることを主張するために言えることはただそれを色名ゲームだと呼び通すことだけではないのか。』

    そして探究403では以下のように述べます。

    『わたくしがこれまで「自分の痛み」と呼び、他人が「L・Wの痛み」と呼んできたものだけのために「痛み」という語を要請したとしても、ある表記法さえあらかじめ用意されていて、その中で「痛み」という語の脱落がほかの結びつきでどうにか補充されている限り、他人に対していかなる不当も働いたことにはならないだろう。他人は、それでも、その同情されたり、医師の手当てを受けたりする。もちろん、「しかし他人は、あなたの感じているものと正確に同じものを感じているのだ!」と言うことも、このような表現のしかたに対する反論にはならないであろう。しかしながら、このとき、このような新しい種類の叙述から、わたくしは何を得たのであろうか。何も〔得ていない〕。だが、独我論者は、自分の見解を弁護しているときには、実際的な利益を何も欲していないのだ!』

    knowing itselfさんが言うようにハエとり壺のアフォリズムは言語ゲームへと展開される分水嶺であるとは思いますが、後期の言語ゲームや私的言語に関する探究は独我論を前提としたものであり、私は永井さんの見解を支持します。

    むしろ後期に独我論を捨てたという見解が奇異に思えますし、何をもってそのような解釈が出てくるのか不思議です。
    おそらくウィトゲンシュタインの独我論が〈私〉を開闢点とした独我論であるという理解がないためだと思われます。

    独我論や「語りえぬもの」は前期と後期を通したものであり、その違いは言語論において写像理論から言語ゲームへと展開したことです。

    前期、後期を通してウィトゲンシュタインは言語で語り得る範囲を示すことによって、語り得ない対象や範囲を指し示そうとしたというのがパニチェの解釈であり、その意味においてハエ取り器とは独我論的世界のことだと考えています。

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■7893 / inTopicNo.90)  Re[9]: ハエとり壺
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 13:47:18)
    パニチェさん こんにちは

    No7875に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます、knowing itselfさん。
    > 横レス失礼します。
    >
    > ■No7838に返信(knowing itselfさんの記事)
    >
    >>たしかに、永井さんはプラトン的なものの対極です。言語演劇からいかに自由になるかをプラトン的に求めているのが山下さん、言語演劇で幸福になる道を求めるのご藤田さんということはいえるでしょう。永井さんは、言語演劇で幸福になるも不幸になるも、この言語演劇しかない、そのしかなさ性に哲学的にこだわる。
    >
    > 同意します。
    > ハエとり壺にも関連しますが言語ゲームと独我論の関係をknowing itselfさんはどう捉えてますか?
    > 私はどちらかと言えばハエとり壺は他のアフォリズムにもあるように独我論的世界と捉えています。

    ウィトゲンシュタインは前期は独我論的で、過渡期の独我論論駁をへて、後期には独我論を捨てたという見解があります。この見解あたりだと、ハエとり壺のアフォリズムは過渡期から後期への分水嶺に位置しているとなるのだと思います。永井さんはこの立場を否定しているようですね。言語ゲームという隠蔽装置の下には、なお独我論の香りが立ちこめているといっています。わたしのこのところのカキコミもそれに近いと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■7875 / inTopicNo.91)  ハエとり壺
□投稿者/ パニチェ -(2020/10/17(Sat) 09:28:32)
    おはようございます、knowing itselfさん。
    横レス失礼します。

    No7838に返信(knowing itselfさんの記事)

    > たしかに、永井さんはプラトン的なものの対極です。言語演劇からいかに自由になるかをプラトン的に求めているのが山下さん、言語演劇で幸福になる道を求めるのご藤田さんということはいえるでしょう。永井さんは、言語演劇で幸福になるも不幸になるも、この言語演劇しかない、そのしかなさ性に哲学的にこだわる。

    同意します。
    ハエとり壺にも関連しますが言語ゲームと独我論の関係をknowing itselfさんはどう捉えてますか?
    私はどちらかと言えばハエとり壺は他のアフォリズムにもあるように独我論的世界と捉えています。
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■7874 / inTopicNo.92)  Re[7]: 言語ゲーム論
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/17(Sat) 09:05:17)
    ウィトゲンシュタインはやはり西洋哲学の人であって、仏教や東洋思想とは微妙に、あるいは大きく 、違うところがあるように思う。

    永井さんが内山興正の漫画図は仏教を超えるから面白いと評するのも、言語ゲーム、あるいは言語演劇の永井解釈を前提にすると、少しわかるような気もします。
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■7822 / inTopicNo.93)  Re[6]: 言語ゲーム論
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/15(Thu) 19:18:17)
    「語りえぬもの」として、生の外がわにある神や死、深遠な芸術、倫理などをあげる場合もありうる。
    永井=ウィトゲンシュタイン的な汎言語ゲーム論的な立場ではそうではない。言語ゲームの
    外には文字どおり何もない。人間が関わるすべては重層的な言語ゲーム。言語ゲームの「語りえなさ」も言語ゲームの中にある。

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■7781 / inTopicNo.94)  Re[5]: 言語ゲーム論
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/13(Tue) 21:30:45)
    蠅壺にぶつかる蠅の喩えだと、蠅によってあらわされるのが言語ゲームでしょう。ちっぽけな一匹の蠅どころではなく、人間の行う総体が言語ゲーム、多重でダイナミックな人間的生の全体が言語ゲーム、森羅万象の中で生きる人間のすべてが言語ゲームというところまで射程は及んでいると思います。

    永井的なヴィトゲンシュタインの場合、蠅壺の外はないんです。蠅壺で蠅がもがくのが言語ゲームだから、言語ゲームの外は何にもない。永井さんの内山漫画好みからいって、蠅壺は第五図とすれば符牒が合う。

    わたしが出した喩え、手が壁をコンコンと叩くというのも、蠅壺にぶつかる蠅と同じ事態を表現しています。どちらも同じ一つの力が接触面で働いているだけです。力の方向は一見逆に見えるけれど。

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■7741 / inTopicNo.95)  Re[4]: 言語ゲーム論
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/12(Mon) 21:02:21)
    〈言語ゲーム〉と「言語ゲーム」になると思う。またあれかですが(笑)
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■7667 / inTopicNo.96)  言語ゲーム論
□投稿者/ knowing itself -(2020/10/11(Sun) 17:27:12)
    例のハエ取り壺の喩えでも、ヴィトゲンシュタインは独我論を捨てて言語ゲーム論へと脱皮したという解釈を永井さんは採らないでしょう。独我論の中での言語観のバージョンアップが言語ゲーム論?こっちの方がしっくりくる。
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